神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

大地震を考える

2024年09月05日 21時04分36秒 | 自然災害
 気温は夜になれば30度を切って気分的に涼しくなったのだが、蒸し暑さは相変わらずで、21時近い今も窓を開けて風が吹いていても、体は汗ばんでいく
日中など30度を遥かに越えて、今日も新湊で過ごしたが日陰に居ないと、とてもじゃないが体がもたない。

今日の北日本放送(富山市)は能登地震の特集番組を午前中ずっとやっていた
北陸地方のラジオ局の共同番組だった
富山県では氷見市や高岡市が能登半島の付け根にあって、震度5強の揺れでかなりの被害を被った
そのために家が壊れて、ある地域では30軒くらい家をあきらめて移住していった言う、商店も後継者がいないところに地震災害で、廃業の後押しになったという、町が寂れていくのが悔しいという
それでも石川県の穴水町を見てきたら、「われわれの町の被害の比ではない、能登の災害は、あまりにも大きすぎる」と言っていた。

新潟県、富山県、石川県、長野県の活断層もいくつもあり、それらのマグニチュード予測では7.0~7.7とされている
もっとも大きなものは糸魚川、静岡構造線活断層で日本海から松本盆地を経て太平洋にまでつながる大断層、いわゆるフォッサマグナ
大昔、二つの島がぶつかって出来たつなぎ目である、ここがMg7.4~7.7と推定される、小松左京の「日本沈没」の舞台でもある。
他にも新潟県西部には高田平野と十日町の活断層があり、いずれも7.2~7.4とされる
地震が無いはずの富山県にも砺波平野断層帯、呉羽山断層帯があって7~7.2
石川県では森本、富樫活断層がある
長野県にも他県にまたがる活断層が2~3か所ある
(地震調査研究推進本部資料)
















「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(191) 甲越 川中島血戦 18

2024年09月05日 19時36分15秒 | 甲越軍記
 景虎の越中侵攻を聞いた越中の諸将は、この頃は能登国の守護、畠山修理大夫義則に属し、去る天文十一年、長尾為景が越中にて討死したことについて、いずれ景虎が弔い合戦に越中を訪れることを予測していた。
「景虎は、いかに武勇に達したと言えども、まだ乳臭い若造ではないか、何ほどのことがあろうか」と口々に言い
「我が国に来れば、一同にこれを取り込めて四方から攻め立て、越後の者ども一人残らず討ち取ってやろう」と神保安芸守、同左京進、椎名肥前守、同甚左衛門尉、土肥大膳亮、唐人兵庫、松岡長門守、江波五郎、遊佐、土屋等を始め、越中国中の大将らが一同に組んで盟約を結び、各々が居城に立てこもり、要害を賢固に構えて備え、長尾勢遅しと待っていた。

越後の先将は、直江大和守實綱、千坂対馬守憲清、大崎筑前守高清、大川駿河守、鮎川摂津守、すでに越中の国境まで兵を出し、この地で後陣を待ち受けた。

景虎は、まずはかねてより越中各地に忍ばせて置いた間者たちを集めて、越中勢の計議を聞き、群臣を集めて軍議を開いた
直江大和守、千坂対馬守、大崎筑前守が進み出て、「越中では、神保、椎名の両将がもっとも力ある大敵なり、この両城を激しく攻め立てれば、他の者どもは勢いに恐れて、追々我らに戦わずして降ってくるのは明白であります」と申せば、景虎はこれに対して、頭を振り
「このことは甚だ不可である、たとえ小敵であっても、四方から蜂起して襲ってきたならば、われら八千とは言え、四方に兵を分けたならば残兵は僅か四、五千に足らず、この勢で必死の敵を食い止めるのは遠計なきに似たり
これを兵法の大手の小手と言う、大いに悪い手である
此度は味方が弱気を出したと、敵に思わせて、敵の心を大いに奢らせて、そn奢りで備えの怠るを見定めて攻め寄せれば、少しの力も入れずに攻め平らげるも可なり」
九月三日、景虎は一戦もせず陣払いをして越後に引き上げた
同時に侍臣五人を越中に忍ばせて、敵の奢り怠るのを待って知らせるようにと申し付けた。

天文十八年四月、武田晴信は越後に忍ばせた間者から「長尾景虎は近じか、越中に攻め入る」との報せを受け
「この間に、伊奈、木曽、小笠原を攻め滅ぼすべしと、十一日甲州を発つて信州諏訪に着陣した.

ここに信州伊奈の城主、保科弾正忠正俊という大剛無双の勇将が居る
その先は、信州源氏井上掃部介頼秀の末裔にして代々信州に住み、諏訪信濃守頼茂の旗下に属し、頼茂が滅びてからは信州の諸将と合流していたが、去年塩尻にて武田に敗北してからは、信濃の諸将を侮り、一門老臣らを集めて言うには
「つらつら当国の諸将を見渡せば、いずれも謀略は稚屈であり、共に敵と戦うには心もとなし、一方、武田晴信は知謀抜群の名将である
こうなれば、我らは信濃勢を見限って武田に属すると決めてみたが、晴信は謀りをもって父を追放し、一門の諏訪家を滅ぼすなど、不孝不義の大将である
これに従うのは如何かと思う
越後の景虎は、未だ若年なれども絶倫の大将であるから彼に属そうかと思っている、汝らはどう思うか」と問えば
田中美作が進み出て「長尾景虎は英雄との名声あり、されども志は越中、加賀、能登に在り、信濃に軍を出すのは村上への義を立てる武の一道だけであります
武田晴信はもっぱら当国征服を目指し、十攻めれば五を掠めとる、いずれ信濃は全て武田が奪うのは必定と思われる
晴信が父信虎を放逐したのは、信虎が人とは思えぬ暴虐無道の悪事を重ねたために、国と民を思い老臣らと謀り行ったことであり、晴信が国を治めてからは民もこれに従い、老臣たちもよく従っております
御家がこれからも永久に続いていくためには武田晴信に属するのがもっとも良き判断かと思います」と言った
保科正俊は、これを聞いてもっともと思い、人質を出して旗下に属せば、晴信は大いに喜び、伊奈が味方となれば諸軍の手分けをして信濃攻略に向かうべしと勇み立った。