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(yottin blog)

日本の歴史 おさらい⑩

2016年11月20日 17時16分13秒 | 日本史

1914年日本は欧州で勃発した第一次世界大戦に参戦した

日本はイギリスと同盟していたため、イギリスの敵国、ドイツが中国にを持っていた青島(チンタオ)を

攻撃して、ここを占領した。

翌年、青島を占領したことに伴って中国に対し、青島の権益を今までドイツと結んでいたのと同じように

「日本にドイツの権益を譲ること」「大連、遼東半島の99年間租借延長」などと言ったような中国不利の21箇条

の条約締結を求めた。(対華21ケ条)

中国を代表する権力者、政治家で軍人の袁世凱はこれらの要求を拒んだが、結局押し切られてしまった

中国国民はこれに激怒し、中国国辱の日として制定していつまでもこの屈辱を忘れまいとした。

このあたりから現代に通じる中国の日本嫌いの原点があるのだろうか。 もちろん1910年に日本に飲み込まれた

朝鮮は尚更だろう。

第一次大戦で勝利者となった日本は、青島の権益と大連などの租借延長、さらに南洋諸島の統治権を得た

これにより日本の実質的な領土はニューギニアの手前まで広がり、南太平洋に大きくせり出した。

さらに中国の中央部にくさびを打ち込んだ形になった、これによって中国は日本の侵略、第二の朝鮮化を懸念

またアメリカが日本の太平洋進出に警戒感を持ち始めた、イギリスやロシアなどの列強も日本の軍事力の巨大化

を警戒しだした、これがアメリカとの戦争の伏線になったのかも知れない。

太平洋戦争まであと25年、中華民国との戦争、満州事変まであと15年、日本は戦争の道をひたすら突き進んでいる

1918年(大正7年)には社会主義革命に成功したソビエトに対して、アメリカ、イギリスなど欧米各国と共にシベリア

出兵に参加した、その兵数は他の同盟軍を圧倒する規模であった。

しかも各国軍が撤退したあとも、日本軍はソビエト(旧ロシア)の樺太、沿海州、そして満州国境から撤退しなかった

だがこの行為は国内の評判もよくなく、ソビエトからは恨みを買い、多数の戦死者も出てまったく良いところがない

戦争であった。

 

5年後の大正12年の正午、突如として東京を中心とした関東一帯が激しい地震に見舞われた

一時は治まったかに見えた地震だったが、その後、各地から火災が発生、瞬く間に東京は火の海になった

特にひどいのは隅田川の両岸一帯で浅草、両国、深川、日本橋などで電車は脱線、浅草名物のビル「浅草十二階」が

真っ二つに崩れ落ちるなど建物の被害もひどかった。

隅田川にかかる橋も避難者もろとも焼け落ちて、隅田川は死体で溢れた、特に悲惨だったのは本所被服省跡地だった

この川沿いの広場が安全と多くの人が避難してきた、その数数万人、ところがここに恐ろしい火砕の渦巻きが発生して

焼き尽くした、ここで焼死した人は10万人以上と言われる死亡者の約半数5万人近い人数だと言うことだ、横浜でも

4万人が犠牲になったという。

今は、この地に震災慰霊堂ができて、昭和20年の東京大空襲の犠牲者と共に祀られている。

翌々年病弱だった大正天皇が崩御されて、時代は激動の昭和に移る

昭和は関東大震災の影響などがあって銀行の不良債権が増加して、国内は金融大恐慌で始まった

続いてアメリカの証券業界の悪化などで世界恐慌が始まり、世界中が深刻な不景気に襲われた

東北では冷害が毎年のようにおこり小作人を苦しめました、借金がかさみ貧しさに打つ手が無く

娘を都会の芸者置屋などに売る小作農も少なくなかったようです、この時代を描いた高倉健主演の「動乱」

では吉永小百合さんがそういう娘を演じました。

日本ではこうした経済状況下で多くの人が仕事からあぶれ出ました、

そうした中で昭和6年には満州で日本管理の満州鉄道が爆破される事件が起きました、満州にある日本軍

(関東軍)は中国国民党軍の仕業として攻撃しました。 これにより関東軍は満州を軍事占領しました

この鉄道爆破事件は後年、日本政府も知らない関東軍独断の陰謀であることが明らかになりました。

翌年、日本は占領した満州を独立国として承認した、満州帝国として清王朝最後の皇帝だった溥儀が

満州国の皇帝となった、あきらかに日本の傀儡であった。

こののち、日本の大不況で苦しむ人々を満州に渡らせて開墾する方策がとられ、満蒙開拓団が募集された

およそ27万人が開拓団として渡った。

満州帝国を承認したのは日本ただ一国で、国際連盟加入国のことごとくが日本の独断横暴と避難した。

国連は日本に対して満州からの撤退を決議したが、それを不満とする日本は1933年(昭和8年)国際連盟から

脱退した。

昭和11年(1936年)には2.26事件が起きた、こうした農村の疲弊が腐敗した政治が原因である

という思いもこの事件の一因である、そのため総理大臣を始め大臣を襲撃、総理は襲撃を免れたが、大蔵大臣

内大臣などが殺害された、反乱を主導したのは青年将校でおよそ1500人の兵が反乱軍となって鎮圧された。

首謀者の青年将校等は銃殺刑に処せられた。

 

昭和12年には中国北京あたりで日中両軍が戦闘を始めて、日中戦争が本格的に開始された

この頃まで中国国内では共産党軍と国民党軍が内戦状態だったが、そこに日本軍が攻め込んでくると言う

複雑な戦争状態であった、しかし国民党軍と共産軍は同じ中国人としてまずは日本軍を国内から追い払う

と言うことで一致して休戦、共同で日本軍に対峙することを決めた(国共合作)

これにより日本軍は2方面の中国兵と戦うことになったが、直接戦った相手は国民党軍が多かったらしい。

日本は国内の恐慌不景気、国際面での孤立、中国との戦争、ロシアの脅威といった多くの問題を抱えながら

孤独な戦争に突き進んでいった、戦争は軍によって主導され政治家の力では止められないところまで

来ていた。                                 つづく