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(yottin blog)

日本の歴史 おさらい⑭

2016年11月24日 08時54分23秒 | 日本史

この戦争で日本が世界に誇る兵器がいくつかある、東アジアの資源乏しい日本が

どうしてこれだけの兵器を作ることができたのか不思議に思う。

おそらく国家予算の何割かを軍事費に充てたからこそできたのだろう。

(今は予算の1%以下である、これを10%にすれば今の10倍の兵力になると言うことだ)

常に外国軍隊の脅威にさらされているところでは、国家予算の半分近くまで軍事費に使う国もあるようだ

日本軍の優れた兵器は、まずは零式艦上戦闘機(ゼロ戦)、3000kmにも及ぶ航続力、素早い旋回能力

戦争中期までは、世界最強クラスの戦闘機でアメリカの戦闘機さえ歯が立たなかった

酸素魚雷 航跡がわかりずらい魚雷、姿も見せずに突如艦船を撃沈する

イ-500型潜水艦、偵察水上機を格納できる超弩弓の潜水艦、アメリカ本土まで行って砲撃したらしい

戦艦大和、戦艦武蔵 世界最大の戦艦、主砲の46センチも世界最大、日本では不沈戦艦と信じていた

しかし華々しい戦果もあげぬうちにアメリカの航空機によって2隻とも轟沈した

こんな兵器と日本人の根性、精神力、器用さ、不器用さ、国民性で4年近くも白人国家を敵に回して戦ったのだ

司令官や戦争指導者に敬意は持たないが、ここまで頑張った下士官や、招集された一般市民兵士には

心から敬意を表する。日常生活と家族を置いてきた、数百万人の平凡で善良な市民が国家守護のため命を

なげうったのだ。

沖縄戦は初めて日本国内で一般市民が住む地域での戦争である、しかも島である故に逃げることもできない

紛れもなく一般市民は戦闘に巻き込まれて命を落とす、日本軍が中国で行った市街戦、あるいは田舎の集落

での戦闘、あるいはアメリカが1960年代にベトナムで行った戦闘、これらはみな沖縄戦と同じだ。

そもそも沖縄はその昔、独立国の王国だった、しかし朝鮮同様、強国に囲まれた小国故に独立を保つのが

たいへんだった。 沖縄は琉球と言った、江戸時代には日本と清国の両方に朝貢して独立を保っていた

しかし幕末、日本の薩摩藩(鹿児島県)に併合されてしまった。

ともあれ沖縄戦については様々な記録が残っている、映像も残っている、それは沖縄県民の受難と、そこに

送り込まれた兵士たちの血みどろの戦い、この戦争で長崎、広島、東京、横浜、名古屋などの市民と同様に

もっとも悲惨な目に遭った人たち、この亡き人々の受難でようやく戦争は終わったと言って良い。

沖縄は3ヶ月の戦闘でアメリカが占領した、以来、昭和47年までアメリカの占領下に置かれた沖縄、そして今も

県の多くの地域がアメリカ軍の基地になっている現実、まだまだ沖縄の戦後は終わっていない、そしてそれは

今も数々の問題として政府と対立している。

 

沖縄が占領された、沖縄の砲台になるために片道燃料で出撃した日本の最後の星「戦艦大和」もあえなく鹿児島沖で

米軍攻撃機によって、数千名の乗組員と共に轟沈して海底深く沈んでいった。

鹿児島県の飛行場は神風特攻隊の前線基地として、毎日10代20代の若者が飛行機に爆弾を積んで片道燃料で

沖縄に押し寄せた数百、千の敵艦に体当たり攻撃を仕掛けた、しかし度重なる特攻機に慣れたアメリカ軍は待ち構え

ていてゲーム感覚でこの無謀な特攻機を打ち落としたという、パイロットもほとんどひこう経験の無い未熟練者であり

ほとんど米艦に命中することはなかった、特攻も終盤は犬死に等しかった。

それでも軍部は最後の一兵まで戦うと「本土決戦」を真剣に考えていた、まさか押し寄せてきた数千隻のアメリカ艦船が

元寇の時のように、神風によって兵士もろとも荒らしの海で消え去ると考えたわけでもあるまい。

本土決戦を行えばアメリカ兵100万人と差し違えるという計算があったとか、しかしそのために3000万人以上の日本

国民が滅亡する、だがそれ以前にアメリカ爆撃機が連日、自由気ままに日本に侵入して都市という都市を無差別爆撃

した、富山市などのように全て焼き尽くされたところもある、50以上の都市が爆撃され、8月には1週間で広島と長崎に

原子爆弾が落とされた、たった一発の爆弾でそれぞれの市民10万人以上が殺された、そして2世3世まで放射能の

後遺症で苦しみ死んでいった人もいる。

いつまでも降伏せず抵抗する敵国への見せしめの大量虐殺、脅し、ようやく日本のリーダーが連合国の無条件降伏を

受諾してこの戦争は終わった、しかし中国大陸の陸軍はなぜ負けたのか理解できなかった、まだまだ互角以上の戦闘

を行っていたのだろう。

だがソ連軍が攻め寄せてきた満州や朝鮮では、敗戦にかかわらず悲惨な日本国民の受難が続いていたのである

亡国となった日本の政府はこれらの哀れな国民に何ら救いの手をさしのべることができない、ドイツ軍による

ユダヤ人狩りと同じ事が、降伏一週間前に不可侵条約を一方的に破棄して攻め込んできたソ連によって

行われていたのだ、民間人は暴行され殺され、投降した兵士は60万人もシベリアへ不法に連行され、酷寒の地で

奴隷のごとく過酷な作業に使われて6万人以上がその地で亡くなったという、それは昭和25年頃でも続いていた

同じ捕虜でも米英に捕らわれた捕虜とは天と地ほどの境遇の差がある。

こうして歴史をおさらいしながら、昭和20年からは気が重くなってくる、19年までとは戦争の様子ががらりと変わり

それは戦争と言うより、一方的な日本人へのホロコーストに思えてくる、もはや戦争ではない、それにも関わらず

なぜ政府は降参しなかったのだろう。自殺教唆としか思えない意味も無い特攻で多くの未来ある若者を

殺してしまった。

天皇陛下をお守りするため信州松代に巨大な地下要塞を建設して、飛行機など最終決戦兵器も各地に温存して

本土に200万、大陸に100万の日本軍が健在だと意気をまく

まだまだ軍は、やる気はあったのだ、だがアメリカは空から日本軍より国民をターゲットにして戦争を終わらせた

お手上げだった

 

                 つづく