こんにちは いけや正の 晴れ時々スケッチ  

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3月10日東京大空襲   時忘れじの塔

2019年03月10日 | 日記
 今日、3月10日は東京大空襲の日。
1945年3月10日、アメリカ軍のB29による無差別級爆にさらされた東京下町。
一夜にして10万人余が犠牲に。大半は女性と子ども、老人の非戦闘員。
上野公園の一角に、「時忘れじの塔」が。海老名香葉子さんが募金を募って建立。
昨日そこで慰霊の集いが開かれたとの報道。
 第二次世界対戦で日本は侵略者として中国、朝鮮、ベトナム、南洋諸島など
多くのアジアの人々を殺戮。その一方、敗戦色濃い1945年3月
東京大空襲で10万人余の犠牲者を出した。
広島、長崎の原爆投下による被害者を上回る大惨劇だった。
 しかし、その東京に、戦後74年たっても大空襲を記録し、慰霊する
公的な施設が無い。死んでも死にきれない犠牲者と遺族たちの思いは如何ばかりか。
この国の歴代政権と東京都知事の情けない歴史観。
3月10日を忘れてはならない。

「私の八月十五日」という絵本から。今人舎:発行

大川小学校 野蒜小学校 閖上中学校 

2019年03月10日 | 日記
 東日本大震災から8年目を迎える。
明日の3・11に向けて関連番組が続く。
今朝のラジオでは「被災体験を語り始めた子どもたち」の特集。
参議院選挙に向けたチラシを近所に配りながら、イヤホンをつけて聞く。
大川小学校の津波被害で奇跡的に助かったTさんの話。
野蒜小学校体育館で津波に飲み込まれながら一命をとりとめた女性の話。
当時、小学生だった子どもたちは、高校生や大学生、社会人になっている。
いくつかの高校では「あの日」の放送ドラマやドキュメントを作成。
当時の子どもたちが語り部となって「あの日」のことを語り始めたとのこと。
 想像を絶する過酷な体験をした子どもたちの心の辛さを「大変だったね」と
安易に首肯するのは気が引ける。それでも、「本当に大変だったね」と言う言葉しか
思い浮かばないもどかしさ。

震災後、大川小学校跡地を訪ねた。言葉を失う。無言でしばらく敷地に佇んだ。
野蒜小学校、閖上中学校には津波被害の惨状そのままの2011年4月上旬に訪ねた。
言葉はなかった。足の踏み場もない惨状。体育館には卒業式の紅白幕と式次第が。
涙が止まらない。潮とへドロのような臭いがまだ漂っていた。