田子の浦に うち出でてみれば 白妙の
富士の高嶺に 雪は降りつつ 山部 赤人
65年ぐらい前のこと小学校5年生の私は静岡県の伯父の家で夏休みを過ごした。
父親に京都駅まで送ってもらい東海道線全線電化前の汽車で10数時間かかって鈴川に着いた。
鈴川駅は昭和31年に吉原駅と改称されている。
1か月近く毎日、この富士山を仰ぎ見ていたが夏のこととて雪はなかった。
代わりに青色から紫やときに赤くもなる富士を目に焼き付けた。
この富士川河口の向こうが田子の浦だ。奥に見えるのは伊豆半島。
河口の左方向に田子の浦港があり伯父の家はその少し東にあった。
伯父の家から松原を200mぐらい抜けると浜に出る。
何度か海水浴をしたが、遠浅ではなく足元は砂地というより砂利が多かった。
ある時、大きな波が襲いかかって体がごろごろ回され危うく溺れそうになった。
当時に比べると東名など高架道路が出来たり新幹線が走ったり住宅地も広がった。
そんな富士の裾野で大騒動が起きた。
富士市は工場が多く田子の浦港から見る工場夜景は写真スポットとしても有名だ。
夏休みに行っていたころから既に自動車工場のほか製紙会社が多かった。
それから15年以上経った1970年ごろ「田子の浦港ヘドロ公害」という事件が起きた。
複数の製紙会社の廃水により港にヘドロが堆積し港湾機能を害し悪臭も引き起こした。
公害対策基本法が出来たり富士市と企業間で公害防止協定を結んだり、
住民による抗議集会や製紙会社告発などもあり全国的な注目を集めた。
さまざまな経緯があって、港の浚渫土を埋め立てる工事が開始されたのは2010年だ。
解決に向けた尽力がそんなに長く継続されていたとは知らなかった。
河口の野鳥たちは何事もなかったように生きている。