他国人の太平洋戦争への徴用、その責任は誰がとる
5月11日の毎日新聞の「余禄」を見る。その余禄には太平洋戦争において徴用された台湾人の事が書かれていた。その一部が次の文である。「先の大戦では20万人以上の台湾人が、軍人、軍属として徴用され約3万人が死亡した。しかし、日本国籍を捨てさせられたために、戦後補償の対象にならなかったことが記されている。そして、この湖を望む奥多摩の地は、台湾の景勝地日月潭(にちげつたん)に似ていることから選ばれたと解説が加えられていた。そして、今月28日には現地で法要が営まれる。戦後70年を語り継ぐべきことは多い」として記事は終わっている。
原発立地県でもあり、そして事故による被害を受けた福島県もかつては「水力発電王国」であった。とりわけ阿賀川、只見川本流とそこに注ぎ込む幾多の流域には大小幾つもの水力発電所が建設されている。その中でも「巨大なダム」をつくった田子倉発電所・只見発電所は世界に誇れる水力発電所と言えるだろう。もちろん、湖底に沈んだと、そこを定住の地としてきた人々の犠牲があってのことではあるが。
私は、この田子倉ダムに用いられる発電タービンを目にすることができた一人である。それは日本の有力電機メーカーの製造所にいた時である。その工場最大の大型クレーンで吊ったタービンを床におろした際、コンクリートの床が「ぎしっとうなり、ひび割れ陥没した」のである。それだけ大型で、とてつもない重量を持つタービンである。63年前であった。そして今も現地で稼動している。
再生エネの主軸になってきた水力発電ではあるが、そこには幾多の歴史が刻まれていることも確かである。その一つを、冒頭の「余禄」に合わせ報告したいと思う。
福島県猪苗代湖から、国道456号線を裏磐梯に向けて車を走らせること30分程度。その途中に三つの「慰霊碑」がある。一つは昭和18年に着工された「沼倉発電所」の工事に徴収され亡くなった中国人のものである。そして100メートル離れたところにの「碑」は沼倉発電所の「取り入れ口」にそばに建てられている。そこには明確に「朝鮮人慰霊の碑」と刻まれている。そして300メートル先に赤い欄干の橋があり、その奥に「中国人殉難烈士慰霊碑」に建てられている。その案内版には次の説明がある。「太平洋戦争の末期、約4万人の中国人が中国から強制連行され、全国135箇所の建設工事に従事させられた。そのうち6830名の中国人烈士が過酷な重労働のために殉死している。福島県でも沼倉・宮下発電所に1000名の中国人が従事し25名が殉死している。以来事実の調査、遺骨の収納慰霊を行った」と書いてある。そして、その沼倉発電所の歴史をひも解いてみる。資料はヤフー・ジャパンによる。
「1944年4月、日本の連行政策のもと熊谷組の職員が中国に行き、華北労工協会と400人の連行「契約」をむすんだ。1944年6月、青島を経て塘沽の収容所へと送られた。連行用貨車の扉は外から鍵がかけられていた。塘沽の収容所から船に乗せられ下関へ。そこから汽車に乗り、豊橋で乗りかえて平岡へと連行された。 平岡に到着すると連行された人々は二隊にわける。1944年10月には平岡から福島県沼倉の猪苗代発電工事へと200人が転送された。そこには10月末から11月にかけてすでに512人の中国人が連行されていた。沼倉では15人の逃亡者が出たが、14人が捕らえられて二人が死亡、一人は行方不明のままだった。捕らえられた12人は12月末に、北海道のイトムカ鉱山にある地崎組「第一華人収容所」へと送られた」。死亡者は作業による殉死だけではない。弾圧による死亡者・行方不明者も出ているのである。
余禄を読み触発された私は現地を訪れた。しばしば通る道であり、同行する妻はいつも助士席からではあるが目礼をする。その日は初夏を思わせる穏やかな日であった。しかし、僅か数十年前のそのあたりが「地獄絵を繰り広げられたの地」であったのだ。そのようなことを知る人も少ない。また知っていたとしても記憶にとどめることも無くなっているだろう。「記憶は薄れ、あの時の過去は歴史」となってしまっている。しかし、その歴史に描かれた具体的な事実を決して忘れてはならない。あらためて心に刻んだ2015年5月11日であった。
なお、そのように思いながら車をそのまま裏磐梯に走らせた。重くなった気持ち解きたかったからである。最後に明るい光景の写真を付け加えた。
沼倉発電所中国人慰霊碑
沼倉発電所朝鮮人殉難者慰霊碑
福島県中国人殉難烈士慰霊碑
福島県が誇れる「裏磐梯の初夏」・暗い写真の後におまけの明るい風景を
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