
義憤 「怒りは元気の頂点、でも」
●義憤
やや古臭さくて、精神主義のにおいぷんぷんでやや扱いにくい言葉です。
広辞苑よると、「義憤」とは、「正義・人道の行われないことを憤ること」
となります。
義憤は小説のテーマの定番の一つです。たとえば、最近読んだ「平将門」(海音寺潮五郎)は、土地をめぐる親族からの不当な扱いや国府役人の腐敗ぶりに義憤をかられて暴れまわる将門を描き、「下町ロケット」(池井戸潤)では、大企業の策謀に敢然と立ち向かう中小企業社長・佃の奮闘ぶりが読者(自分)をひきつけて止みません。
時代も内容も違なりますが、図式は共通しています。
強に対する弱、
大に対する小、
不正・不当に対する正義、
権力に対する抵抗
となります。単純明快で、これを弱、小、正義、抵抗の側から書かれれば、誰の心にもある義憤を揺さぶられることになります。
勧善懲悪なんて言葉もひさしぶりに思い出しました。
●義憤はなぜ心を揺さぶるのか
義憤話が心を揺さぶるは、義憤への共感性と、自分には勇気がなくてできそうもないことを代わってしてくれることによるカタルシス効果です。
義憤への共感性は、誰の心にも多かれ少なかれあるいわば心のインフラの一つです。これがあるから人は社会的な動物として生きていけるだと思います。
カタルシス効果は、義憤を感じることはできても、それをただちに行動には移せないのが我々普通の人間です。外的、内的にさまざまな障壁を乗り越えなければならないのも人間です。それを、小説やドラマでは、仮想世界ですっきりとやってみせてくれるのですから、気持ちよくなれます。心元気になれます。
義憤を暴力的に解決させないための装置として、法律やきまりがあるのですが、それがまた逆に義憤を駆り立てるようなところもあります。これが積もり積もってくると、社会的な軋轢が発生してきて社会崩壊のリスクが高まります。
●義憤で頭を元気にするコツ
①義憤を感じとる感性は大事
義憤を感じる(義憤感度)は、誰にもそれなりにありますが、義憤はそれを解決できない不平、不満につながりますので、気持ち穏やかではありません。
これが重なると、ストレスになります。でも、義憤感度を一定レベルに保つのは社会的動物としては必要なことですし、心の元気には必要なことです。
最も義憤感度の高いのは、青少年の時期だと思います。義憤感度と大人度とは反比例するといってもいいかもしれません。青年が義憤に駆られて何かをしようとすると、「もっと大人になれ」と大人は忠告します。
ニュースを見たり聞いたりして義憤感度を磨く、それも一日一回は義憤を感じるくらいの気持ちがあってよいかと思います。
②義憤を行動に移す
義憤は大事、しかし、それをどう行動に移すかが問題です。
義憤そのものは心のインフラから発するものですから、それなりに一理ありです。ですから義憤に駆られた行動にも一理ありで、基本的にはそれを抑制する必要はないとも言えます。
しかし、平将門がそうでしたが、義憤をストレートに行動に移してしまったがゆえの自滅という面があります。しかも、暴力的な攻撃行動をしてしまったため、その部分だけが際立ってしまい、肝心の義憤の内容がどこかにいってしまいました。
義憤に殉ずるもここ一番の大勝負の場面ではありですが、リスクがあります。
そこで、一つのおすすめは、義憤を、日記に言葉にしてみることです。これによって、義憤を客観化し感情的に平穏な状態にすることができます。さらに、書くという行動でカタルシス効果も期待できます。
さらにさらに、感情的な段階に止まっている義憤を信念や使命感にま
で昇華できたら言うことなしです。「下町ロケット」がこれでした。
③仲間を見つける
義憤には社会性があります。ということは、かならず、同じような義憤を感じている仲間がいるということにもなります。
身の回りにそんな仲間を見つけて、何か行動する、せめて義憤を共有するというのもありだと思います。問題は、行動に踏み出すと、とてつもない力との対決などが発生してしまう恐れがあることです。心元気の領分をはみ出す話になりますので、ここではやめておきます。
●義憤
やや古臭さくて、精神主義のにおいぷんぷんでやや扱いにくい言葉です。
広辞苑よると、「義憤」とは、「正義・人道の行われないことを憤ること」
となります。
義憤は小説のテーマの定番の一つです。たとえば、最近読んだ「平将門」(海音寺潮五郎)は、土地をめぐる親族からの不当な扱いや国府役人の腐敗ぶりに義憤をかられて暴れまわる将門を描き、「下町ロケット」(池井戸潤)では、大企業の策謀に敢然と立ち向かう中小企業社長・佃の奮闘ぶりが読者(自分)をひきつけて止みません。
時代も内容も違なりますが、図式は共通しています。
強に対する弱、
大に対する小、
不正・不当に対する正義、
権力に対する抵抗
となります。単純明快で、これを弱、小、正義、抵抗の側から書かれれば、誰の心にもある義憤を揺さぶられることになります。
勧善懲悪なんて言葉もひさしぶりに思い出しました。
●義憤はなぜ心を揺さぶるのか
義憤話が心を揺さぶるは、義憤への共感性と、自分には勇気がなくてできそうもないことを代わってしてくれることによるカタルシス効果です。
義憤への共感性は、誰の心にも多かれ少なかれあるいわば心のインフラの一つです。これがあるから人は社会的な動物として生きていけるだと思います。
カタルシス効果は、義憤を感じることはできても、それをただちに行動には移せないのが我々普通の人間です。外的、内的にさまざまな障壁を乗り越えなければならないのも人間です。それを、小説やドラマでは、仮想世界ですっきりとやってみせてくれるのですから、気持ちよくなれます。心元気になれます。
義憤を暴力的に解決させないための装置として、法律やきまりがあるのですが、それがまた逆に義憤を駆り立てるようなところもあります。これが積もり積もってくると、社会的な軋轢が発生してきて社会崩壊のリスクが高まります。
●義憤で頭を元気にするコツ
①義憤を感じとる感性は大事
義憤を感じる(義憤感度)は、誰にもそれなりにありますが、義憤はそれを解決できない不平、不満につながりますので、気持ち穏やかではありません。
これが重なると、ストレスになります。でも、義憤感度を一定レベルに保つのは社会的動物としては必要なことですし、心の元気には必要なことです。
最も義憤感度の高いのは、青少年の時期だと思います。義憤感度と大人度とは反比例するといってもいいかもしれません。青年が義憤に駆られて何かをしようとすると、「もっと大人になれ」と大人は忠告します。
ニュースを見たり聞いたりして義憤感度を磨く、それも一日一回は義憤を感じるくらいの気持ちがあってよいかと思います。
②義憤を行動に移す
義憤は大事、しかし、それをどう行動に移すかが問題です。
義憤そのものは心のインフラから発するものですから、それなりに一理ありです。ですから義憤に駆られた行動にも一理ありで、基本的にはそれを抑制する必要はないとも言えます。
しかし、平将門がそうでしたが、義憤をストレートに行動に移してしまったがゆえの自滅という面があります。しかも、暴力的な攻撃行動をしてしまったため、その部分だけが際立ってしまい、肝心の義憤の内容がどこかにいってしまいました。
義憤に殉ずるもここ一番の大勝負の場面ではありですが、リスクがあります。
そこで、一つのおすすめは、義憤を、日記に言葉にしてみることです。これによって、義憤を客観化し感情的に平穏な状態にすることができます。さらに、書くという行動でカタルシス効果も期待できます。
さらにさらに、感情的な段階に止まっている義憤を信念や使命感にま
で昇華できたら言うことなしです。「下町ロケット」がこれでした。
③仲間を見つける
義憤には社会性があります。ということは、かならず、同じような義憤を感じている仲間がいるということにもなります。
身の回りにそんな仲間を見つけて、何か行動する、せめて義憤を共有するというのもありだと思います。問題は、行動に踏み出すと、とてつもない力との対決などが発生してしまう恐れがあることです。心元気の領分をはみ出す話になりますので、ここではやめておきます。
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