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試験の思い出」75歳の思い出

2018-03-15 | 自分史
大学院入試でのとんでもない勘違い解答

 心理学の小問問題で、重相関と偏相関を取り違えて解答してしまった。それに気がついたのが、試験が終わってほっとして友人と雑談しているときだった。
面接のとき「君は統計に強いはずなのに、どういうわけ?」とI教授に皮肉を言われたが、
お情けかなー、合格した。
 ちなみに、問題は、偏相関か重相関のどちらか(忘れた)を説明せよ。だった。
 試験では、解答の見直しが必須。うっかりミスは見直しで発見できるが、勘違い、思い込みエラーは、どうにもならない。

学会を整理する 」2008-01-11 | 心の体験的日記

2018-01-11 | 自分史
学会を整理する
2008-01-11 | 心の体験的日記

よくよく考えると、自分にとって何の意味もないーー学問の世界ではもちろん、
その存在は大変意味がある。念のためーーー
学会に惰性で入っていることに気がついた。
昨年1つ、
今年は、2つ退会することにした。

届く学会誌にもほとんど目をとおさないし、
学会にも出席しないのだから、どうということはないと思うのだが、
自ら世界を縮小していく感じもあり、ややさびしい
あとは、雑誌の処理だなー
心理学研究と教育心理学研究は、にかた君が古いものを持って行ってくれた
すてるよりも気が楽。

徳島大学時代」自分史

2017-12-22 | 自分史

千葉市の実家で25歳まで。
大学、大学を7年、東京で。
その後、徳島大学助手として教員生活スタート。

徳島に7年。
いまその時期の住所、戸籍を調べているが、皆目、わからない。
公務員宿舎の2階に住んでいたこと、お向は井戸さんというのは覚えているが住所が不明。
バス停の名前は市原。
戸籍をさかのぼればよいかも、とやってみたら、一つ前までしかだめ。


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33歳/1975年/昭和50年  筑波大学へ
子門真人およげ!たいやきくんが大ヒット。
カルビーがポテトチップス を発売。
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32歳/1974年/昭和49年
セブンイレブンが東京都江東区に第1号店を出店。
ユリ・ゲラーが来日。
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31歳/1973年/昭和48年
第1次オイルショック。
熊本市大洋デパート火災が発生。
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30歳/1972年/昭和47年
札幌オリンピックを日本で開催。日本チームは、金1、銀1、銅1を獲得した。
日本で初めてパンダが一般公開された。
浅間山荘事件が発生。
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29歳/1971年/昭和46年
横綱大鵬が引退。
日清食品が「カップヌードル 」を発売。
マクドナルド日本第1号店がオープン。
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28歳/1970年/昭和45年
ビートルズが解散。
アポロ13号が無事地球に生還。
三島事件、よど号ハイジャック事件が発生。
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27歳/1969年/昭和44年
東名高速道路が全線開通。
東大安田講堂事件が発生。
結婚
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26歳/1968年/昭和43年
メキシコシティオリンピックで男子サッカー日本代表が銅メダル。
霞が関ビルディングがオープン。
三億円強奪事件が発生。

徳島大学教育学部助手として就職


心理学との遭遇

2017-04-18 | 自分史
●大学進学 1960年
あまり躊躇なく、心理学科を選んだ。
入試科目が5教科、5科目と少なかったからである。
ちょっぴり化学でもいいかなーという思いはあったようにうっすらと記憶している。
それまでは、国立大学は、もっと科目が多かったと思う。
5科目でうけられる国立大学。
私立大学は、はなから対象外。学費が雲泥の差。
当時は、国立は、半期で9000円くらいだった記憶がある。

●心理学に遭遇したこと
しかも、心理学が面白かった。自分にぴったりという感じだった。
大学入学してすぐに、フロイトの精神分析を夢中で読んだ。それだけだと、偏った心理学の学びになるが、これもまた幸運なことに、2年先輩に睡眠脳波の研究グループに誘われて、何もわからないまま
サイエンスとして心理学の研究現場に足を踏み入れてしまった。これもまた幸運だった。以後、そのM先輩に公私にわたり、つかずはなれずの指導を受けてきた。そして、そのままの継続で国立大学の助手のポストにつけて、ここまでこれた。

●ライフワークの発見
40代までは、実験室研究だった。
抽象度が高く、研究し論文も書いたが、それが学会に貢献できるほどのものではなかった。それでも、40歳になるまで、ほそぼそと研究をしてきた。

転機になったのが、10か月のアメリカ海外研修での出会いであった。 
研修そのものは、自信があった英会話がまったくだめという現実に打ちのめされて悲惨であったが、これがきっかけでライフワークに出会った。「
一つは、異文化接触によって触発されたエラー文化の比較。これを講談社の現代新書「誤りの心理を読む」を出版させてもらったことから、いわば、実験室から社会への活躍の場を広げることになった。

もう一つは、そこで出あったK氏が、帰国後に持ち込んできた企業との共同研究も、結局その後のライフワークとなった。わかりやすいマニュアルの作成指針の研究である。

40代後半、エラー研究とわかりやすさ研究とを融合させて、実践認知心理学とも言う領域で活躍することになった。することなすことが世の中とつながっているということの緊張感とやりがいが、研究のドライブとなった。

自分にそんなところで活躍できる才能があるとは思えなかった。それが外からの働きかけで開花したという思いである。


ドライブ

2017-04-09 | 自分史
ドライブ

40代半ばで,経済的に余裕ができて、
やっと車がもてるようになった。
堰を切ったかのように、あちこちドライブした。
1年に1万キロくらいは軽く走った。
幸運にも、一度も免許を警官にみせろと言われたこともない
模範ドライバーであった。

しかし、ドライブ。危険一杯である
不運で事故なんて、ごまんとある。

その不運に遭遇しなかったままそろーりと運転を減らしつつある。
技能が落ちない程度にあと3年くらいかけて運転をやめるつもり。
だんだんつもりがつもってしまっている。反省

現在は、決まりきったルート、しかも、安全道路しか運転しないようにも
こころがけている。これ不運を遠ざけているのだと思う。

運を引き付けるのと同じくらい
不運を引き離す努力も必要。


試験」自分史

2017-02-13 | 自分史
●試験
試験はだいたい一発勝負。
やり直しがきかない。
運・不運にもろにさらされる。
試験問題に関する運・不運
試験日に関する運・不運
試験の出来に関する運・不運
などなど
人生を決める大きな試験は、入学、就職試験であろう。
高校入試、大学入試、大学院修士入試、博士入試
と4回の試験は、高校入試を除いて、実に幸運に恵まれた。
つまり、自分ではだめ、失敗と頭をかかえていたのが、
どういうわけか合格したのだ。
なお、就職試験は経験していない。最初の職が、大学助手。
これは先輩の引きで至極あっさりと合格してしまった。
これはこれで実に幸運。これは人脈のところでまた述べることになるが、
まさに、運、仕事、人脈がワンセットで人生は決まるのだ。

試験での運の話に戻る。
これに不合格だったら、と思うとぞっとする。
間違いなく、この4つの試験の合格が、今の自分につながっているのだから。
ただ、これは自慢話になるし、運と人生を考える際のポイントにもなるので話をしておきたい。
それは、運は、自分ではどうにもできないのだが、運を引き寄せることはある程度までは可能だということ。
試験に限っても、試験勉強に全身全霊を注いだ。その努力あっての幸運だと思う。それをしばしば、自分の才能や努力と勘違いしてしまうこともあるが、少なくとも、自分の場合は、何かと幸運が働いていたと今でも正直思う。神に感謝である。

試験

2016-12-23 | 自分史
試験

試験はだいたい一発勝負。
やり直しがきかない。
運・不運にもろにさらされる。
試験問題に関する運・不運
試験日に関する運・不運
試験の出来に関する運・不運
などなど
人生を決める大きな試験は、入学、就職試験であろう。
高校入試、大学入試、大学院修士入試、博士入試
と4回の試験は、高校入試を除いて、実に幸運に恵まれた。
つまり、自分ではだめ、失敗と頭をかかえていたのが、
どういうわけか合格したのだ。
なお、就職試験は経験していない。最初の職が、大学助手。
これは先輩の引きで至極あっさりと合格してしまった。
これはこれで実に幸運。これは人脈のところでまた述べることになるが、
まさに、運、仕事、人脈がワンセットで人生は決まるのだ。

試験での運の話に戻る。
これに不合格だったら、と思うとぞっとする。
間違いなく、この4つの試験の合格が、今の自分につながっているのだから。
ただ、これは自慢話になるし、運と人生を考える際のポイントにもなるので話をしておきたい。
それは、運は、自分ではどうにもできないのだが、運を引き寄せることはある程度までは可能だということ。
試験に限っても、試験勉強に全身全霊を注いだ。その努力あっての幸運だと思う。それをしばしば、自分の才能や努力と勘違いしてしまうこともあるが、少なくとも、自分の場合は、何かと幸運が働いていたと今でも正直思う。神に感謝である。

図書館、初期記憶

2016-10-13 | 自分史
中学時代、女性教師との面談を終えて帰宅した母親から「先生が“赤っぽい本を読んでいる“と言ってたよ」の一言。“赤っぽい”とは、当時ではーー今でも?――、共産党を意味する言葉。図書館でロシア革命の解説本を借り出して何冊か集中して読んでいた記憶がある。「コルホーズ」なんて言葉を今思い出した。ネットで調べると、確かに記憶どおりで、集団農場のことだった。

これが今現在の図書についての初期記憶である。(なお、回想はその時々で変わるのといのが記憶心理学の常識。)

いずれにしても、とりたてて、これで母親や教師から叱責されたとか言う記憶はない。それよりも、そうしたやや早熟な秘密を知られたことの悔しさのようなものがあって、記憶に残り続けていたのかもしれない。(なお、感情的色合いを帯びたエピソードは末永く記憶に残るというのも記憶心理学の常識。)





人生の躁期」自分史

2016-04-11 | 自分史
(人生には)「躁期」というのもあるんじゃないでしょうか。躁鬱の「躁」ですけど、心的なものではなく、何だかやたらと賑やかになる時期ってことです。たとえば自分の評価がぐんぐん伸びて他部署の上司からも声をかけられたり、仕事もやたら調子いいとか、おかげで人との出会いがものすごく多くなるとかね。
(笠木恵司ブログ<<教育部門2位おすすめブログより)
@@

あるある。あったあった。
アメリカ10か月の研修の後。
K氏との出会いから始まった変化。
一言でいうと、実験室から世の中に出た時期。
年齢は40歳後半から。
今思い出しても、楽しい時期だったなー。
何をやってもできるような感じ。
万能感さえ感じていたと思う。

もっとも躁鬱というように、
鬱期も間違いなくあったなー

人生、躁鬱の波があるということだな。



小学校段階]自分史

2016-04-05 | 自分史
「小学校段階(昭和24年~昭和30年)」
 徒歩で40分の小学校に通いました。今の近隣の子どもは、バス通学だそうです。
悪がきと山川を駆け回った。その頃は、学校でも寒稽古などもあったから体力作りは万全だった。しかし、荒っぽかった。すねに傷、絆創膏は当たり前だった。この中で自然に身に着けたリスク感覚は貴重だったと思います。
昨今の学校。リスク管理をおろそかにしたら学校長、一発でおしまい。しかし、ここに大いなるパラドックス。リスクなし、リスク防止の徹底が、子どものリスク感覚を奪い、リスクマネジメント力を奪ってしまう。

この「自然教育」つまり「生活と教育とが混然一体」
○誰もが生きるためにそれなりの分担をせざるをえない中で生きるすべを学ぶ
○生きるために自分を表現して周りと調整していく
くらいの意味です。
そこには標準がありません。無手勝流の教育です。育つ子供も無手勝流。今はやりの言葉をつくなら、個性尊重ですね



ブログ歴」自分史

2016-04-01 | 自分史
ブログ

 ブログの前は、「cognition & computer」というミニコミ紙。裏紙を使って研究の前の袋に入れて、「どうぞお読みください」というところからスタート。そのきっかけは、在外研究でアメリカにいったときに日本にいた研究室の院生・はらださんに近況報告代わりに郵便で送っておいた記事を無駄にしたくないとの思いからであった。
 その後、今のブログのタイトル「認知的体験」と名称を変えて週1くらいの頻度で続けてきた。
 それを閉じた冊子すべては、弟子すじのにかた君に所望もあり、ゆずった。保管はしてないとは思うが、もしかすると?
 それがいつウエッブ上のブログに変わったか、おもいだせないが、これが、現在のブログに引き継がれている。
大学院生の頃からコンピュータの進歩の半歩うしろを追いかけてきたのだから、筑波大学でネットワークが研究室から使えるようになってすぐだと思う。
 現在のgooブログの前は、amebaブログであった。amebaブログは、マックでアップしたいたのだが、システム更新のときになにやら不具合が発生してしまい、あきらめて、gooのほうに移行した。それでも、amebaブログは、現在もまだ残ってまま。
 gooブログは、もう10年は越えている。ほぼ毎日更新をしてここまで着実に愛読者を増やし続けている。いまや趣味の域を超えて生きがいである。笑い
 なぜ続くのか。
 書くのが好きということ。
 書いたものを人に読んでもらうのが好きということ。
 気持ちをしゃきっとさせるのに最適ということ。
 発表した原稿や本を広く知ってもらえること。
 思わぬ人々とウエッブ上で知り合えること。
 原稿依頼や講演依頼がこれをきっかけにあること。







保護者」自分史

2016-03-07 | 自分史
保護者」自分史
大学生の保護者ってどんなもの、ということについて、自分もかつては保護者だった経験、さらには、55年以上も前の大学生として「保護されていた」頃を思い出しながら、考えてみました。
 まず、自分の経験では、保護されていたという思いは皆目ありませんでした。自宅からの通学ではありましたが、大学選びから大学生活、就職まで一切について自分一人で決めていました。私の「保護者」は大学名さえうろ覚えでした。

私を育ててれた仲間たち

2016-03-04 | 自分史
先日、むかしマニュアル設計の仕事でご一緒させてもらった方々飲み会。
20年ぶりくらいではないか。
研究室のなかから世の中の問題解決研究へと引き出していただき
かついろいろの課題を投げかけていただいて、とても刺激的な仕事をさせてもらった方々である。
2時間があっという間だった。
その出だしで書いたのが、下の本であった。

ユーザ・読み手の心をつかむマニュアルの書き方
クリエーター情報なし
共立出版



千葉県立第一高等学校」自分史

2016-03-03 | 自分史
千葉県立第一高等学校
中学校とは真逆のすごい先生、生徒がいた
・新学期第一回目、私の信条」を延々と披露する数学の先生
・堂々と政治的(反体制的)論陣を張る社会科の先生
・自作物理実験教材をフル活用して楽しませてくれた先生
・部活でもトップ、勉強でもトップがクラスに一人や2人はいた

とても知的で自由な学校でしたが、個人的には、家庭的な諸問題もあり、劣等感との戦いの日日でもありましたが、お蔭でメンタルタフネスを身に着けてと思います。



ドライブが趣味」自分史

2016-02-21 | 自分史
ドライブが趣味
車があることで、当然、活動範囲が一気に広がる。これまで行ったことにないところに簡単に行くことができる。たとえば、ファミリーレストランや郊外店舗など近隣の行動圏ががらっとかわった。さらに、150キロ圏内の日帰り観光地や一泊ドライブなどなどもするようになった。
 土日には堰を切ったかのように、あちこち出歩いた。1年間の走行距離がおよそ2万キロ、という年がずっと続いていた。
最近はさすがに年には勝てずで、年1万キロくらいにまでで減っている。
というわけで、ドライブは、一人麻雀、テニスについでの3つ目の趣味になって現在に至っている。