大阪東教会礼拝説教ブログ

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2017年4月16日主日礼拝説教 マタイによる福音書28章1~10節

2017-04-20 18:15:57 | マタイによる福音書

説教「あの方は復活なさった」

<おはよう>

 キリストは「おはよう」とおっしゃって婦人たちと出会われました。「おはよう」、これはギリシャ語の原語の意味では「喜びなさい」という意味がありますが、当時の使われ方としては、ごく一般的な挨拶と考えられる言葉です。「おはよう」とか「こんにちは」「ごきげんよう」と訳される言葉です。昨日の夕方、道で別れた友人とまたこの朝、出会って挨拶をする、「おはよう」、毎日会う職場の人、近所の人といつものように挨拶をする「おはよう」、そんな気軽さで復活のイエスは婦人方と出会われました。

 先週までの受難節にずっと読み継いでいたキリストの受難の物語からは、唐突なように復活のキリストは人々の前に姿を現します。狂気に満ちた「イエスを十字架につけろ」という人々の叫びも、生身の肉がえぐられた残酷な鞭打ちも、さらし者にされ、血を流し、衰弱して死んでいかれた十字架の上のお姿も、まるで何もなかったかのように、「おはよう」、そうおっしゃって、昨日の続きのように、主イエスはそこにおられました。

 復活というたいへんな奇跡が描かれているにしては聖書の復活の場面は考えようによっては、あっさりしているのです。光り輝くなかに神々しい主イエスが華々しい宣言と共に現れてもよさそうなものですが、そうではありません。ただ日常のあいさつの言葉をもって「おはよう」と、婦人たちの前に現れるのです。

 もちろん、今日お読みした最初のところには地震が起こったと記されています。そして主の天使の姿が稲妻のように輝いていたとも記されています。その天使を見た番兵たち、それなりに屈強の男たちだったと思いますが、その番兵たちが震え上がり死人のようになったとあります。そのようなただならぬ天使たちの様子がありました。それに対して、主イエスのお姿に関しては、特別な様子は記されていません。主イエスと出会った婦人たちは近寄って足を抱いたとあります。足のない幽霊でもなんでもない普通に肉体を持ったお姿で復活されたのです。キリストは幻でもなんでもなくリアルな存在として婦人たちに現れたのです。それにしても、聖書の多くの奇跡の中で、奇跡中の奇跡、そしてまた福音の根幹をなす復活の出来事がこれほどあっさり記されていることは不思議です。

 <すべてが新しくされた>

 すべてが新しくされたからです。昨日から続く今日ではないからです。世界が変わってしまったのです。すべてが過ぎ去り、すべてが新しくされた、その朝に、キリストは「おはよう」とおっしゃっているのです。言葉だけを聞くと不思議な感じがします。昨日の続きのような「おはよう」です。しかし、あれほどの出来事、十字架の出来事があった、それはほんの二日前のことです。しかしいまその二日前のことをなにひとつ引きずることなく、キリストは復活されました。昨日の続きの今日ではない、新しい朝です。新しい命の中に主イエスはおられます。キリストは死なれ、陰府にまで下られた、しかし、もうそのことはすべてが過ぎ去ってしまった。キリストは肉体をもって新しい命の中におられる、その命のただなかで新しい朝にキリストは「おはよう」そう言って出会ってくださったのです。

復活のキリストと出会った婦人たちはまだそのことがはっきりとはわかっていません。

<墓は空>

 キリストと出会う前に、婦人たちはまず空の墓を見せられます。「空虚な墓」というのは復活という出来事において象徴的なことです。そこには亡骸があるはずでした。金曜日の主イエスの死から三日目です。十字架から降ろされた亡骸は、大急ぎで墓に入れられました。安息日が迫っていたからです。本来は亡骸に施すべき丁寧な処理をする時間がありませんでした。取り急ぎ亜麻布に包まれ墓に入れられた、その亡骸には時間の経過しただけの状況があるはずです。安息日に墓に行くことのできなかった婦人たちは、おそらく亡骸に施すべき処理をするために安息日が開けると大急ぎでかけつけたのです。婦人たちは主イエスの亡骸をねんごろに葬りたかったのです。それがせめてもの、主イエスへの誠意であると婦人たちは考えたのです。婦人たちの精一杯の善意でした。しかし、遺体はなかった。そこにあるべき、既に時間がたった、紛れもなく死のにおいをはなっているはずの遺体はなかったのです。

 天使たちは言います、「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」そう、婦人たちもすでに聞いていたのです。主イエスが苦しみにあって死に、三日目に復活をするということを。しかし、誰もそのことを分っていなかったのです。ただ精いっぱいの善意で、没薬や香料などをもって墓に駆けつけたのです。しかし、善意にあふれた婦人方は肝心なことは分っていなかった。<かねてから言われていた>キリストご自身から何度も聞いていたのに、その主イエスの言葉を分っていなかったのです。

 天使たちから復活の事実を聞いた婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、他の弟子たちに知らせるために走っていきました。婦人たちは走ったのです。一刻も早く知らせようと走ったのです。これはどういうことだろう不思議なことだと話し合いながら歩いて行ったのではありません。走って行った。おそらく婦人たちもこの時に論理的にこの出来事を理解していたわけではないでしょう。しかし、一目散に走って行った。ほとばしるような喜びの内に、もちろんただならぬことが起こったという恐れの気持ちもありながら、抑えることのできない感情をもって走った。ゆっくり歩いていくことなどできなかったのです。

<出会ってくださる復活の主>

 その婦人たちの前にキリストは立っておられました。「立っていて」という言葉は「出会って」というニュアンスでもあります。キリストは走ってきた婦人たちに出会ってくださったのです。復活のキリストは婦人たちと出会ってくださったのです。

 かねてから復活の話を聞きながら、そのことを信じていなかった婦人たちと出会ってくださった、なぜ信じなかったのか?と、主イエスはとがめることはなさらず、出会ってくださった。そして「おはよう」とあいさつをされた。そしてまた、「わたしの兄弟たちに告げよ」と言葉を残されます。「わたしの兄弟たち」とは誰か、兄弟ですから男性の弟子たちです。キリストを捨てて逃げ去った弟子たちです。婦人たちは、番兵が見張っている墓まで勇気を持ってやってきて精一杯のことをしようとしたのです。しかし、男の弟子たちは、おそらく息をひそめて隠れていたのです。衝撃的な出来事に茫然自失していたかもしれません。その弟子たちを「わたしの兄弟」と主イエスは呼ばれるのです。

 主イエスを裏切ったのは祭司長たちに主イエスを銀貨30枚で売ったユダだけではありませんでした。弟子たちすべてが裏切ったのです。逃げたのです。しかしなお、その裏切り者のかつての弟子たちを「兄弟」と呼ばれ、彼らもまた、自分と出会えるのだとおっしゃるのです。

<復活という現実>

 しかし、このキリストの復活の出来事は理屈で解明できることではありません。しかし、また復活はキリスト教会がねつ造した作り話でもありません。キリストは信者の心の中に思い出の中によみがえった、ということでもありません。キリストは肉体をもってよみがえられました、そして弟子たちと、出会ってくださった、逆に言えば、復活のキリストと出会った人々にとって復活は現実なのです。

 11節からは、主イエスの復活の出来事を隠ぺいしようとする人々の様子が記されています。弟子たちが夜中に来て遺体を盗んでいった、そのような噂を流すように祭司長たちが画策したことが描かれています。しかし、祭司長たちが画策しなくても、通常、死体が墓からなくなるようなことがあれば、死体が盗まれた、そう考えるのが、筋の通ったことです。論理的に納得できることです。

 復活は、人間の理解できる範囲で筋を通そうとしていくとき、けっして理解できるものではありません。合理的な説明はできないのです。しかし、復活のキリストと出会った人、いえ、復活のキリストに出会っていただいた人には紛れもない事実として復活は信じることができるのです。復活のキリストと出会うことのなかった番兵や祭司長たちは復活をもみ消そうとしました。そんな彼らにとって、依然としてこの世界は死に支配されたものでした。かねてから聞きながら復活を信じていなかった婦人たちも、主イエスを裏切ってひそんでいた弟子たちにもキリストは出会ってくださるのです。「おはよう」と言ってくださるのです。婦人たちが、弟子たちが立派だったからではありません。キリストはそんな夫人や弟子たちと出会うために復活してくださったのです。婦人や弟子たちだけではありません。私たちとも出会うために復活をしてくださいました。

<見ていないのに信じる>

 今日の聖書の場面では息をひそめて隠れている、そして裏切った自分を責めていたであろうペトロにもであってくださいました。そのペトロがのちに伝道者となり、こう語っています。「あなたがたは、キリストをみたことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」三年半、実際に主イエスと行動を共にし、間近に主イエスを見てきたペトロが、主イエスが天の戻られたのち、つまり地上でのイエスとお会いしたことがなくてなお主イエスを信じるようになった人々に対して語った言葉です。キリストを見てないのに愛し、今見なくても信じている。これは私たちのことでもあります。私たちは2000年前、復活のキリストと出会ったわけではありません。しかし、なお、復活のキリストは聖霊によって私たちと出会ってくださいました。肉体の目では見えなくても、わたしたもまた信仰によって確かに復活のキリストと出会いました。いえキリストの方から出会ってくださったからこそ信仰を与えられたのです。

<死の終わり>

 その復活のキリストは、すべての人々に告げ知らせるために出会ってくださいました。何を告げ知らせるためか?それは「死」が取り去られたことを告げ知らせるためです。

 さきほど、墓の中に主イエスの亡骸がなかったと申しました。当時の墓は洞窟でした。その洞窟は大きな石で閉ざされていました。その石の向こうに、亡骸があったのです。石で閉ざしたのは、もちろん亡骸を大事に保存するためでありました。しかし、心理的なことでいうと、石によって墓を閉ざす行為は、亡骸を、そしてその亡骸によって人間がいやがおうにもしらされる「死」という現実を人の目から隠すためでもありました。誰にでも訪れる「死」。その死を人間は石の向こうに洞窟の中に普段は目につかないように閉じ込めていたのです。しかし、「死」は破られました。キリストの十字架によって打ち破られました。石は転がされ、墓は空でした。キリストの復活、それは死への勝利宣言でした。その勝利宣言をするために主イエスは復活されたといえます。

 しかし、まだこの世界には現実には死が存在します。今日の午後、墓前礼拝に向かいますが、ここにおられる多くの方の肉親や友人方で、すでに地上を去られた人々とは、いまはこの地上であいまみえることはできません。大阪東教会の教会墓地がある服部霊園にはおびただしい数の墓石が並んでいます。そのおびただしい墓は空ではありません。その下にまぎれもなく死があります。その中にあってキリスト教徒の墓だけは空などということはないのです。キリストが死に勝利されたのに、キリストの墓は空なのに、なぜまだこの世界に死はあるのか。服部霊園の墓は空ではないのか?それはまだ終わりの時ではないからです。

 キリストは死のとげである罪を滅ぼされました。そして新しい時代が始まりました。しかし、完全にすべてが完成するのは終わりの日です。ヨハネの黙示録で語られるキリスト再臨の時です。その時までまだこの地上に肉体の死はあります。墓は空ではありません。しかしすでに私たちは復活の主イエスと出会っています。新しい命への扉は既に開いています。そしてやがて終わりの時にすべての墓は命に向かって開かれるのです。完全に死が取り去られるのです。それは絵空事ではありません。それは壮大な命の完成の時です。しかし、すでに復活のキリストと出会っている私たちには、そのさきがけとして、もうすでに命への扉は開かれています。今日、新しく一人の方が、その新しい命の扉を開かれます。洗礼によって扉が開かれます。輝く天使が、いま、その方の前の大きな石を取り除きました。そして新しい命がはじまります。復活の主イエスと新しく出会われます。私たちと共に「おはよう」という声を聞くのです。主イエスのその声を聞きながら、私たちは新しく歩んでいきます。イースターおめでとうございます!


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