説教「さあ、行きなさい」
<待っておられた主イエス>
キリストを裏切った弟子たちは、ガリラヤで復活のイエス・キリストと出会いました。すぐる週お読みしました婦人の弟子たちに現れた復活の主イエスが、「行きなさい」と言われたので、弟子たちはガリラヤの山の上で主イエスと出会いました。つまり主イエスは、弟子たちを招かれたのです。キリストはご自分を裏切った弟子たちを招き、出会われました。それもご自身の方が先回りしてガリラヤにむかって、弟子たちを迎えられたのです。先にガリラヤで待っておられた。自分がそこに行くから、皆で待っていなさいということではなく、先に主イエスが待ってくださっているのです。ヨハネによる福音書21章でも復活の主イエスは漁をしている弟子たちを岸辺で待っておられました。主イエスは、漁からかえってきた弟子たちのために朝食の準備までして待っておられました。そこに主イエスの深い愛があります。
今日の聖書箇所では、ガリラヤでお会いした主イエスに対して、彼らはひれ伏したとあります。これは礼拝をしたということです。イエス・キリストに対して礼拝をした、つまりこれは教会の出来事を語っているのです。わたしたちもこの朝、復活のイエス・キリストを主として礼拝をしています。これは私たちの物語でもあります。
<疑う者もいた>
しかし、ここにたいへん重要なことが記されています。「しかし、疑う者もいた。」
目の前に復活の主イエスを見ても、ほんとうにこれはよみがえりの主であろうかと疑った弟子たちがいたということです。釘の傷跡をもったお姿のままで目の前におられるイエス様を見てもなおこの方は復活されたのだろうかと疑う者がいたということです。11人のうちの何人かが疑ったのかもしれませんし、あるいは皆が心の中で多少疑っていたのかもしれません。
これが教会の現実だということです。わたしたちの現実だということです。皆が皆、100%の信仰を持っているわけではありません。ゆるぎない信仰を持っているわけではありません。この朝も、いまここに、よみがえりの主が共におられる、その臨在のうちに私たちは礼拝をお捧げしていますが、しかし、本当によみがえりの主はおられるのか、人間はいつも疑うのです。すべての人間が疑うといってもいいでしょう。ほんとうにここはキリストの臨在される教会であろうか、キリストは本当に復活して出会ってくださったているのだろうか、復活という信仰の根幹にかかわる部分で私たちは自信がなく、疑いながら、集うのです。それが教会なのです。
そのような自信のない、疑い深い私たちがなおキリストに招かれて礼拝をしている、自信のない信仰者が集まって、教会を形成している、教会と言うのは2000年に渡り、そのようなものでした。信仰と不信仰がまぜこぜになって、信じる者と信じない者が共にあって、また一人の人間の中でも信仰は揺れ動く、そのようなすべての人々をキリストは先回りをして迎えてくださり招いてくださるのです。そしてそのひとりひとりにキリストは近寄ってきておっしゃいます。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」
<大宣教命令>
一切の権能とはこの世界の命と死、歴史、すべてにかかわることを支配する権能ということです。みじめに十字架の上で罪人として死なれた主イエスは、いまや支配者として父なる神から権能を授かって弟子たちの前に立っておられます。その支配者たる主イエスは弟子たちにおっしゃいます。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」
自分を裏切った弟子達、いま目の前に自分を見ながらもなお疑う者もいる弟子たちに主イエスは大胆に命じられます。「行きなさい」と。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」
すべての権能を授かっておられる方が、教会にむかって、洗礼を授ける権能を与えられたということです。つまり教会の役割はまず第一に洗礼を授けるということであるのです。これはかつて、ペトロの信仰告白の場面でも語られたことです。マタイ16:16で「あなたはメシア、生ける神の子です。」とペトロが信仰を告白しました。そのペトロに対して「わたしはこの岩の上に教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」と主イエスはおっしゃいました。教会は実にキリストがこの地上の岩の上に建てられる命の砦であるということです。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
教会が地上でつなぐこと、洗礼を授けられ新しい命へとつながれたことは、天上においてもつながれている、その教会の洗礼の業は天につながっているということです。大阪東教会のすべての業は天につながっているということです。それは長老会が決定したり牧師が執行したりするその業が天につながっているということです。目に見えることがらは、人間がなしているように見えて教会の業は天につながっているのだということです。そしてそれは突き詰めると、新しい命、キリストが復活によって現わされた死に打ち勝った命にかかわることなのです。
教会が伝道をしていくということは単に教勢を上げるとか、規模を拡大していくということではなく、新しい命に生きる人々を生み出していくということです。その働きには必ず祝福がついてくるのです。教会が新しい命の業に仕えて行くとき必ず祝福があるのです。
なぜならキリストは「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とおっしゃっているからです。キリストを裏切って捨てて行った弟子たちに対しておっしゃったのです。そしてまた「疑う者もいる」弟子たちにおっしゃったのです。今日を生きる疑いやすい信仰の薄い私たちにもおっしゃっているのです。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる、と。
世の終わりとは、キリストの再臨の時です。いつもと言うのは毎日毎日ということです。絶えずということです。わたしたちがキリストのことなど忘れているその瞬間にでも、ということです。
キリストが共におられることを忘れる時、わたしたちの業は人間の業になります。この世的な事業になります。それは非常にしんどいことになるのです。自分の力でがんばる事業、活動になるからです。
<あなたのガリラヤからはじめる>
ところで、主イエスはガリラヤで弟子たちと会われました。なぜガリラヤなのでしょうか?それは弟子達がガリラヤの出身だったからです。また主イエスと弟子たちの宣教の始まりがガリラヤだったからです。これはマタイによる福音書の26章などを共に読んでいた時にも申し上げたことですが、復活の主イエスと出会って、新しく生きていく、教会の業をなしていく、それは、まったく新しい場所で始めるものではないということです。もともとの自分たちの生きて来た場所、そこで新しく始めるのだということです。復活の主イエスと出会ったから、弟子たちはまったく新しい土地に行って、まったく新しいことを始めたわけではないのです。自分たちのホームグランドからはじめるのです。もちろんそれはある意味、難しい面もあるのです。まったく新しい所で新しく始める方が困難もありながら、気楽な所もあるのです。
ガリラヤは自分たちが勝手を知っている場所ではありますが、失敗もした場所です。そしてまた地味な場所です。復活の主と歩むということは、いきなり華々しい活動を開始するということではないということです。自分の持ち場で、一見、今までとは代わり映えのしないことをやるということです。これは教会の伝道ということに限らず私たちの日々もそうです。
ここにおられる方も、洗礼を受けたから、信仰を持ったらから、キリストと共に歩むから、突然、別の職業についた、いきなり人間関係が変わった、劇的に生活が変わったということではおそらくなかったかと思います。もちろんそういうことがまったくないわけではないもしれません。しかし、基本的にはキリストと共に歩むというとき、まったくこれまでやっていたなかった新しいことを始めるということでもありません。なんだか代わり映えのしない、昨日と変わりばえのしない場所で、代わり映えのしない人間関係の中で、いってみれば地味な生活を続けていくのです。弟子たちが漁師として魚をとっていたように、わたしたちもわたしたちのそれぞれのガリラヤでそれぞれに昨日と同じ漁を魚を釣る日々の業を行うのです
しかし、そうであっても、そこにはすでに先回りして待っておられるキリストがおられます。そしていつも一緒におられます。世の終わりまでいてくださいます。ですから代わり映えのしない場所が変えられていくのです。相変わらず、失敗ばかりしていると感じる自分自身も自分の気付かないうちに変えられていくのです。昨日と同じ今日だと思っていても実は変えられていく、わたしたちのガリラヤが変えられていくのです。わたしたちの日々も変えられますし、また教会も変えられていくのです。キリストの祝福のうちに変えられていくのです。代わり映えのしない日々のなかに奇跡が起こるのです。
そしてまたキリストはおっしゃいます。19節で「あなたがたは行って、すべての民を自分の弟子にしなさい」と。すべての民を、というのはすべての国民を、ということです。ちなみにマルコによる福音書では全世界にと記されていますが、このマタイによる福音書はユダヤ人への福音ということを意識した福音書です。第一章はキリストの系図から始まっていました。ユダヤ人としてキリストはお生まれになった。ユダヤの旧約聖書から連なるその歴史のなかで神の物語はあった、旧約聖書で預言されていたことの成就としてキリストは来られた、それが系図によって現わされていました。ユダヤ人ということを他の福音書より強く記しているのがマタイによる福音書です。そのマタイによる福音書の最後は、行け、すべての国民のもとに行けと言う言葉で終わっているのです。ユダヤ人の歴史の中からはじまったこの福音はユダヤ人の中に、イスラエルに、パレスチナ地方に留まるものではない、全世界へ向かうのだと語られているのです。全世界へ行け、そう語られているのです。そしてそのことは成就したのです。イスラエルからはるかに離れたこの極東の島国にも福音は伝えられました。
それは、キリスト教会の伝道戦略とか、政治的なことと絡んださまざまな事情によってキリスト教が伝わったということではありません。多くは迫害や戦乱の中でクリスチャンが散らされて広がって行ったのです。大伝道者パウロは当初はまだまったくヨーロッパに行って宣教することは考えていない時期にヨーロッパへ渡ることになりました。使徒言行録に記されていますが、別の宣教を考えていたのにその道が閉ざされてヨーロッパに渡ることになります。やがてローマで宣教したいという願いをパウロは持ちますがそのローマへ向かうのは囚人として護送されてローマへと向かったのです。皮肉と言えば皮肉です。「行って、すべての民を弟子とせよ」そのキリストの思いは、人間個人の思いを越えて成就しました。もちろん、個々の局面を見れば人間や教会の戦略はありました。たとえば宗教改革ののち、ローマカトリック教会はヨーロッパにプロテスタント教会が広がったことを契機に、世界宣教に乗り出します。その世界宣教の時期に、日本にもキリスト教は伝えられました。それは植民地時代、ヨーロッパ各国の世界戦略という政治的な動きとも重なっていたとも言われます。しかし、やはりその人間の思いを越えて、いや人間の思いを利用してといってもいいでしょう、福音は広がりました。「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」この言葉は成就したのです。神が働かれ、人間が個人の思いを越えて「行って」福音は伝えられたのです。
<新しい日々へ>
ガリラヤで復活のキリストと出会った私たちもまた「行きます」。それは個人個人にとっては、直接的な伝道とか宣教ということではないかもしれません。ガリラヤから始めた私たちは、しかし、やがて「行く」のです。気がつくと違う人生を歩むことになるのです。
復活の主イエスと歩む人生は、日々新しいのです。日々新しくされる人生なのです。わたしたちも変えられていきます。そしてやがて考えてもいなかった所に、行くことになるのです。それが物理的に地理的に遠いところに行くということではないかもしれません。ずっと同じ場所同じ土地にいてなお変えられていく、新しくされていく歩みである場合もあります。しかし、いずれにせよ、それは孤独な歩みではありません。危険な歩みではありません。もちろん困難はあります。キリストの十字架を背負う歩みです。しかし、キリストがいつも共にいてくださるのです。すべての民を弟子にする、そこには交わりがあるということです。交わりを生み出していくということです。愛の共同体が起きるということです。わたしたちは新しい愛の交わりに向けて世の終わりまで出掛けて行くのです。そこには奇跡があります。復活のキリストが共におられるのですから、奇跡が起こるのは当り前のことです。わたしたちの日々にも、教会にも奇跡が起こります。2000年に渡って奇跡は起こり続けたのです。ですから、喜びを持って私たちは世界へと出て行きます。キリストと共に新しく生きて行きます。
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