大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2017年2月26日主日礼拝説教 マタイによる福音書26章57~68節

2017-03-03 14:27:24 | マタイによる福音書

説教「神を裁く人間」

 三年前に母が召されてからのち、もう実家もありませんから、故郷に帰ることはなくなりました。故郷への思いは人それぞれで、必ずしも故郷を素直に懐かしいと思える人ばかりではないでしょう。さまざまな事情で故郷に帰ることのできない人もいます。また、ふるさとは遠くにありて思うものという言葉もあります。

 現実的な故郷がその人にとってどのようなものであれ、人間にとって帰っていくことのできる場所があるというのは支えになることです。どのようなことがあっても、帰っていくことができる。受け入れられる、そんな場所があるのは力強いものです。

 キリスト者の帰るべき場所は、いうまでもなく「天」です。私たちは地上を歩みながら故郷としての天を持っています。そしてまた日々祈りによって帰っていく神の御もとがあります。私たちは帰っていくのです。神の御もとへ。

<無力なイエス>

 ところで、教会に一日おりますと、いろいろな人がきます。また、郵便物以外のいろいろなものがポストに入ります。だいたいは近辺のお店の宣伝が多いのですが、以前にも少しお話ししましたが、新興宗教のビラというのも時々入ります。キリスト教の教会だとわかっていながら入れるのですから、伝道熱心といえるかもしれません。嫌がらせかもしれませんが。

 あるビラにはこう書いてありました。「キリスト教はその教祖がたかだが30歳くらいで死刑になって死んでいる。いくらなんでもそんなに若死にしたような無力な教祖の起こした宗教に力があるわけない」と。イエス・キリストは教祖ではありませんし、十字架の死は復活につながるものです。そのビラにいくらでも反論はできるのですが、主イエスをご存じない人から見たらこういう見方もできるという参考にはなりました。

 今日の聖書箇所は、主イエスの裁判の場面です。ここに描かれているイエス様の様子はたしかに力ある様子には見え難いものです。無力といってもよいようなお姿です。これまで読んでまいりましたマタイによる福音書では力強く福音をお語りになる様子がありました。湖を鎮めるような奇跡を起こされる様子もあり、たくさんの病気を人々を癒される様子がありました。驚くような神の奇跡の業を主イエスはなさいました。そんなイエス様を人々はある時は熱狂して迎え、また追いかけました。そもそも、そんな群衆の主イエスへの熱狂への、祭司長や律法学者たちの嫉妬、妬みが今日の聖書箇所の裁判への伏線としてありました。

 祭司長や律法学者にとって主イエスはなんとしても葬り去らねばならない相手でした。自分たちを差し置いて聖書を語り、神の国を語り、自分たちの権威を無視して自分たちを批判して活動をしている主イエスをゆるすことはできませんでした。民衆から支持されている主イエスは祭司長たちにとって自分たちの足元を脅かす存在でした。いま、時は、過ぎ越しの祭りの最中でした。もともとは祭りの最中に主イエスを捕えるのはやめておこうと考えていた祭司長たちでしたが、ユダの裏切りによって、すんなりと主イエスを捕えることができました。あとは死刑にするだけというのが本日よまれた聖書箇所の状況でした。

 その状況においての主イエスのご様子は、かつての様子とは打って変わった弱弱しい様子でした。新興宗教のビラに、死刑にされた無力な教祖と書かれていましたが、たしかに無力に見えるお姿です。

 裁判自体について言いますならば、実際に、当時の法律や慣習に照らし合わせてみて、夜に突然行われたことやその審議のあり方が、法的手続きとして妥当であったかどうか、それは疑問です。この裁判については、さまざまな学者によって、さまざまに研究され、議論されているところです。

 そもそも当時の裁判においては律法にもとづき証人は二人以上が必要とされました。最初、何人もの偽証人が現れたとあります。しかし、彼らはいうことが、ちくはぐで、二人以上で話が一致せず、証拠としては採用できないものだったようです。そんななかで、ようやく二人の者が一致する内容を語りました。それは主イエスがエルサレム神殿を打ち倒すと語ったという告発でした。そして倒した神殿を三日あれば立てることができる、こうもイエス様はお語りになったと告発しました。これは確かに主イエスがお語りになったことでした。神殿の崩壊については主イエスは語っておられました。ヨハネによる福音書に記されています。もともと主イエスがおっしゃったのは、これは目に見える神殿ではなく、十字架の死の三日後に自分は復活することを語られたのでした。そして、そのとき、人間の心の中にまことを神殿を建てるという意味で主イエスがおっしゃったことでした。しかし、主イエスの言わんとされた本当の意味がわからなければ、神殿に対する冒涜ととれる言葉です。これに対して大祭司は「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」と問いますが、主イエスは黙り続けておられた、とあります。主イエスは、神は、沈黙しておられたのです。

<神の沈黙>

 ある方はおっしゃいます。神の沈黙は神の意志の固さを表している、と。人間は神が沈黙しているように感じる時、勝手なことを考えます。神が黙っておられるとき、神などいないと人間は思うこともあるでしょう。あるいは沈黙している神は無力な神だと思うこともあるでしょう。弁舌さわやかに、大祭司たちにがつんといえる神こそ力ある神と感じるかもしれません。

 しかし、人間は、信仰をもって神に聞かない時、仮に神がどれほど語られてもそこに神の声を聞き取ることができません。そしてまた神は聞き取ることのない人間の前で沈黙をなさるのです。神の沈黙の前で人間は自分の好きに振る舞うのです。しかしその神の沈黙は人間を見捨ててさじを投げた沈黙ではありません。先ほど申し上げたように、神の意志の固さを表す沈黙です。人間を救うという神の意思を表す沈黙です。

 主イエスは、十字架にかかり罪の贖いの業をなさることを決めておられた。父なる神の御業を為す意志が固かった。その意識の硬さゆえに沈黙をされたのです。不利な証言がなされようとも主イエスは口を開くことはありませんでした。主イエスが黙られ裁判が硬直状態となり、大祭司は再び言います。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」それに対してイエスは「それはあなたが言ったことです」とお答えになります。これは不思議な言葉です。ギリシャ語でも「あなたが言った」となっています。これは「あなたが言っているのであって私が言ったわけではない」という否定的な回答とも取れますが、むしろ大祭司の言葉を肯定されたと取る方が良いでしょう。口語訳ではここは「そのとおりです」となっています。そしてひきつづき、主イエスはご自身の再臨のことを語られます。御自身が世界審判者としてふたたびやってこられることをダニエル書7章などを下敷きにした表現で語られます。自分はメシアであり、世界審判者としてやがて来る者だとここで主イエスは宣言されています。

 沈黙されていた主イエスはここでみずからのメシア宣言をなさいました。

 メシアがメシアであると宣言なさったそのことのゆえに死刑判決が下されました。主イエスの奇跡を見ても福音を聞いても、主イエスを神から来た者であると信じることのできなかった人間は主イエスご自身のメシア宣言を聞いても、それは神を冒涜する言葉にしか聞こえないのです。

 神を神として信じることのできない人間は神を裁き、神に死刑宣告をすることができるのです。私たちも折々に神を裁きます。この神は私たちに何をしてくれるのか?大したことをしてくれないではないか。自分中心に考える時、私たちは神を裁いています。神への信頼のない時、私たちは私たちの中で神を殺すのです。

人間から死刑判決を下された主イエスは、たしかに新興宗教のチラシに書いてあったように無力で情けない神に見えます。力のない神に見えます。実際、唾を吐きかけられ、こぶしで殴られ、平手で打たれる神です。「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と侮辱される神です。

 ここに描かれているのは弱く見える神の姿と神を裁く醜悪な人間の姿です。しかしなお、ここにも神の硬い意志が貫かれています。さきほど主イエスの沈黙は神の意志の強さを表すと申しました。そののちにつづく主イエスのメシア宣言もまた神の意志を貫くものでした。最初に沈黙されていた主イエスは「メシアなのか」という問いに対しても沈黙なさっていれば大祭司たちは決定的なことはできなかったかもしれません。しかしここでみずからがメシアであること、自分が再臨なさることを宣言されたがゆえに主イエスの死刑は確定したのです。ここでも十字架へ向かう意志の固さは貫かれています。神の、主イエスの、人間への憐みの心は貫かれています。この醜悪のようにしか見えない場面を通して、なお神の愛が貫かれています。神の弱さは人間の強さより強いそうパウロがいった神の愛の強さがここにあります。

<本当の強さとはなにか>

 長く教会に来られている皆さんのよくご存じの放蕩息子の話がルカによる福音書にあります。当時のユダヤの社会では本来はありえない父親の生前に財産分与を息子はしてもらいました。この財産の生前分与自体、実に親不孝な無礼なことでした。しかもそれから家を出て行った息子は、財産を使い果たして放蕩して帰ってきます。その帰ってくる息子をまだ遠くから気づいて父親の方から走り寄って首を抱き、接吻したとあります。これは普通に考えて、子供に甘い、愚かな父親の姿です。本来、親はこの息子を厳しく叱らないといけない。この息子の性根は鍛えられ直されないといけない、人間はそう思います。しかし、この父親は実に愚かにもこの息子を抱きしめて受け入れるのです。

 これは単なる甘い父親を描いた物語ではありません。単純に優しい優しい神様を描いた話でもありません。しかし、この放蕩息子の父親として描かれている神は人間には愚かに見える姿でなお人間を愛してくださる神です。まだ父が生きているというのに財産分与を要求して家をでていく、つまり父の存在を無視し、言ってみれば生きている父親を無用な者と考えて、心の中で父親を殺した息子を受け入れる神なのです。

 神のみじめに見える姿、弱く見える姿は、人間によってみじめに弱くされた姿です。愚かな人間によって愚かにされた姿です。神を殺そうとする人間によって殺されたかに見える神です。しかし、愚かに見える神は、一人で十字架におかかりになる神です。父なる神の怒りをおひとりで受けられる神です。人間には絶対に耐えることのできない父なる神の怒りをお受けになる神です。主イエスに死刑の判決をくだしたとき大祭司たちは自分たちが勝ったと思ったでしょう。財産を手にして家を出て行った息子は自分は自由を得たと思ったでしょう。

 しかし、神を裁き、無用な者とした者たちにあるのは罪による死でした。自由な命ではなく死でした。

 一方で、父なる神の怒りを十字架によって受けられ私たちの救いを成し遂げられた主イエスは、わたしたちを神を殺した私たちに永遠の命をあたえてくださいました。そしてまた主イエスは、父なる神の御もとに私たちの場所を作ってくださいました。神を裁き、また神を無用な者と考える者たちのために帰っていくべき場所を作ってくださったのです。

 ですから私たちは帰っていくことができるのです。神を裁き無用な者と考えていた私たちを神は待っていてくださいます。私たちがまことに悔い改めて帰っていくとき、まだ遠くにいる時から走り出て私たちを迎えてくださいます。傷ついてうずくまっているときは探して助け起こしてくださいます。そして、まことの命を与えてくださいます。父なる神の家へ、なつかしい故郷へと抱きしめて連れて帰ってくださいます。


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