大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録5章1~16節

2020-07-12 12:38:22 | 使徒言行録

2020年7月12日大阪東教会聖霊降臨節第七主日礼拝説教「神を欺くことはできない」吉浦玲子

【聖書】

ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、 妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。

それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。 ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。

使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、

ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。 そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。

人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。 また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。

【説教】

<神は厳しいお方か?>

 生まれたばかりの教会に試練が降りかかりました。それは教会の外からは、ペトロたちの逮捕に象徴されるような迫害という形を取りました。しかしまた教会の内側にも問題が起こりました。それは教会員の不信仰という問題でした。使徒言行録に記されている教会の外と内の両面からの試練は、この地上にある教会が2000年に渡り経験してきたことでもあります。キリスト教の歴史の長い地域にある教会であっても、日本のようにまだ開拓期といえる歴史の短い地域の教会においても、たえず外から内から試練が起こります。

 アナニアとサフィラは教会内部の不信仰者として最初の不名誉な名を残しました。ちなみに今日の聖書箇所の前、4章の最後の部分を読みますと、経済的に豊かな多くの信徒たちが自分たちの土地や家を売って教会に捧げていたことが記されていました。今日とは教会の置かれている状況がいろいろな意味で異なっていましたので、このような原始共産制のようなあり方は今日ではできないわけですが、心からなる捧げものを当時の信徒たちがなしていたことが分かります。しかし、それはけっして強制ではなくあくまでも自発的なものでありました。そしてまたそれは、多く捧げて教会内で名誉や地位を得るためというような名誉欲・権力欲に基づいたものでもありませんでした。ただ彼らは心を一つにして、豊かな者も貧しい者もそれぞれのあり方で神に仕えていたのです。

 そのような教会のあり方の中で、アナニアとサフィラという夫婦は売った土地の代金の一部を教会に捧げました。先ほども申し上げましたように、土地を持っている者はそれを売って全額を教会に献金しないといけないというような強制はなかったのです。代金の一部であれ全額であれ、それぞれの都合に合わせて捧げれば何の問題もなかったのです。

 しかし、今日の聖書箇所を読むと、どうも彼らは、土地の代金全額を偽って献金をしたようです。ペトロは言います。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。」

 翻って、アナニアとサフィラにしても、正直に、土地代金の一部であることを言って献金したら何の問題もありませんでした。金額の大小、すべての代金をささげたかどうかが問題ではありませんでした。彼らの心がどこにあったのかということが問題でした。彼らは、神に誠実に捧げるという心ではなく、他の信徒たちに「自分たちは土地代金全額を捧げた」と見栄をはりたい心で献金を捧げたのです。神への誠実ではなく人間への見栄による行為でした。

 アナニアは神への罪のためにその場で息絶えてしまいます。さらには、遅れてペトロの前にやってきた妻のサフィラもまた息絶えてしまいます。ここで少し考えてしまいます。人間への見栄があったにせよ、曲がりなりにも、捧げ物はなされたのです。一部ごまかしがあったとしても、彼らが神に向かって捧げたことは事実です。彼らのしたことは、ずるいといえばずるいし、100%誠実なことではありませんでしたが、そこまで悪いことだったのでしょうか。命まで絶たれるほどのことなのでしょうか?

<心の中をご覧になる神>

 以前、「信徒の友」という雑誌だったかと思うのですが、ある牧師の文章が載っていました。お読みになった方もあるかと思います。ある日の礼拝のあと、その牧師は、どうも自分は千円札のつもりで一万円札を間違って席上献金の袋に入れて献金してしまったようだと焦っていたそうです。いまさら献金袋を取り返して千円に変えることなどはできないし、牧師がどうしようどうしようと、うろたえていたら奥さんが平然とおっしゃったそうです。「心配しなくていいわ。神様はあなたから今日、ちゃんと千円を受け取られたわ」献金袋に実際に入っていた金額に関わらず、あなたが神に捧げた金額は間違いなく千円なのだと奥さんは牧師であるご主人に痛烈におっしゃったのでした。奥さんは神の前における姿勢をしっかりと理解しておられたのでした。献金袋に仮に一万円が入っていたとしても、捧げる心が千円であったのであれば、それは千円を神に捧げたことなのだと奥さんはおっしゃって、牧師であるご主人はその言葉を肯わざるを得なかったと書かれていました。

 福音書には有名なレプトン献金の話があります。ある貧しいやもめの婦人が当時の貨幣でいうともっとも少額のレプトンという銅貨を二枚献金しました。一日の平均的な給与の128分の一が1レプトンです。2レプトンは、今日の感覚でいうと100円ちょっとの金額です。しかしそのお金はその婦人にとって生活費全部でした。当時の神殿の献金箱は良く響く作りになっていたそうです。献金箱にお金持ちたちは多くの金額を入れました。献金箱の音を聞けば周りの人はたくさん献金されたことが分かったのです。お金持ちたちは盛大に献金箱を響かせて誇らしげに献金しました。一方でレプトン銅貨2枚だけを入れた婦人は目立たないようにひっそりと献金をしたと思われます。しかし、その献金の様子をご覧になった主イエスは、「この婦人は誰よりも多くの献金をした」とその婦人をほめたたえました。お金持ちたちはあり余るほど持っているものの一部を捧げ、この婦人はわずなな持っているもののすべてを捧げました。しかし、注意しないといけないのは、主イエスはこの婦人が有り金全部を入れたことをほめたのではないのです。その婦人が神に信頼して、いまここですべてを捧げたとしても神が自分を顧みてくださることを知っていることを見抜いておられたのです。おそらくその婦人はこれまでもいくたびも神に助けられてきたのでしょう。その感謝の思いを捧げたのです。実際のところ、2レプトンのうち1レプトンを捧げてもう1レプトンを持っていたとしても、もちろんそれはけっして悪いことではありません。持っているものの全部か半分かが問題ではなく、その婦人の神への信頼の深さを主イエスはご覧になっていたのです。

 土地の代金をごまかして捧げたアナニアにペトロは言います。「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」アナニアは正直に土地代金の一部ですと言って捧げれば何の問題もなかったのです。アナニアは神をごまかすことは容易なことだと考えていたのです。神の力を見くびっていたのです。千円を献金した牧師の心も、生活費すべてを捧げた婦人の心も神はご存知でした。自分の心の内を神はすべてご存知であることをアナニアは知らなかったのです。容易に神などは欺ける、騙せると思っていたのでした。それは神への決定的な冒涜でした。

<キリストと共に>

 アナニアとサフィラは神を冒涜したため命を失いました。こういう記事を読みますと、恐ろしい思いになります。「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」とありますが、たしかに怖いことです。私は神の前で誠実であるかと、自分を顧みてびくびくする思いにもなります。あからさまに神を欺くつもりなどは毛頭なくても、どこかで神様を軽んじたり結果的に欺いていたりしないか不安になります。

 ところで今日の聖書箇所の後半は使徒たちによって多くの奇跡がなされたということが書かれています。多くの病人が癒され汚れた霊に悩まされている人々が救われました。これは使徒たちが超人的な力をもって奇跡をなしたというわけではありません。心を一つにして祈り、奉仕をする教会にはイエス・キリストの力が及ぶということです。3章でペトロやヨハネがイエス・キリストの名によって足の不自由な人を癒したように、ここでも使徒たちの人間の力ではなく、キリストの力が働いていたのです。心を一つにしたキリストを信じる群れにはキリストの力が及ぶのです。キリストの力が及ぶところには素晴らしいことが起こるのです。それは教会という共同体においてもそうですし、私たち一人一人の日々にあってもそうです。

 難病で幼い娘さんを失ったお母さんがありました。最初難病であるとは病院でも診断がつかず、お母さんは娘さんがわがままを言って大げさなことを言っていると思っていたそうです。やがて、さすがに様子がおかしいことに気づき、いくつかの病院をまわってようやく診断がつきました。厳しい治療を娘さんは頑張りましたが、やがて天に召されました。お母さんは、ずいぶんと自分を責めました。もっと早く娘の苦しみを分かってあげればよかった、ああすればよかった、こうしたらよかった、自分は母親失格だったと嘆いたそうです。しかし、しばらくして思い出しました。天に召される直前、幼い娘さんはとても明るくむしろ残されるお母さんのことを心配していたのです。お母さんは洗礼を受けたクリスチャンだったのですが、娘さんの闘病の時は看病で精いっぱいで心に余裕がありませんでした。でも後から振り返るとたしかに娘さんはイエス様のことを信じていました。そしてまた、イエス様が娘さんと共におられたことを確信しました。娘さんは幼くてまだ死の意味を知らないから明るくふるまえたわけではなく、娘さんの傍らにたしかにイエス・キリストの臨在があり、娘さんを支えておられたことをはっきりと思い起こしたのです。「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない」という詩編51編の言葉がありますが、ただキリストが私たちと共にいてくださる、そのことのゆえに、私たちは力づけられ、どのように困難な時でも、平安に歩みます。その時は余裕がなく、怒涛のように感じても、たえず苦しみや不安に襲われているように感じても、実はそこにキリストが共にいてくださり、いつも励まし、支えてくださっていたことを振り返ると分かるのです。

 私たちは弱く、また、罪深き者です。アナニアとサフィラのように神をも欺く心を持っています。神ではなく人間ばかり見る者です。しかしそのような私たちのためにキリストは来てくださり、いまも共にいてくださいます。聖霊として私たちの内側にいてくださいます。私たちは聖霊を軽んじることなく生きるとき、神を欺くことはできなくなります。聖霊によってキリストの臨在を感じる時、私たちは罪深い者であるにもかかわらず、神と隣人に対して誠実な者と変えられます。そして祝福を与えられます。レプトン銅貨二枚も捧げることのできない、神への信頼の薄い者であっても、なお、私たちからキリストは離れられません。献金袋に間違って一万円入れてしまったとしょんぼりする牧師のように情けない信仰であっても、なお神は軽んじられません。

 神への信頼薄く小さな信仰しか持てない私たちのためにキリストは来てくださいました。十字架にかかり死んでくださいました。私たちの信仰を豊かなものとしてくださいました。そしていまもキリストは共におられます。キリストの奇跡の力を私たちにも与えてくださいます。聖書に記されている教会の姿は過去のものではありません。弟子たちの姿は私たちの姿です。いま、キリストの力は私たち一人一人に及んでいます。私たちもまたキリストの名によって豊かに神の栄光を顕すことができるのです。そして聖霊によってキリストの力を少しずつ知らされていくとき、私たちの神への信頼はさらに増し加えられていきます。私たちは恐れることなく平安に喜びをもって神と共に生きていきます。



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