大阪東教会礼拝説教ブログ

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使徒言行録4章1~22節

2020-06-28 11:43:46 | 使徒言行録

2020年6月28日大阪東教会聖霊降臨節第五主日礼拝説教「誰に従うのか 」吉浦玲子

【聖書】

ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、 二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。 しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。

次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、

今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、

/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/

です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。

わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。

【説教】

<夜と昼>

 聖霊降臨の日に立ちあがった教会に最初の試練が降りかかりました。神殿で人々にイエス・キリストのことを話していたペトロとヨハネが逮捕されてしまったのです。祭司や権力者は、ペトロやヨハネが、自分たちが策略をめぐらして殺したイエスのことを話しているので「いらだった」と書いてあるようにじりじりした思いを持ちました。一方で、ペトロとヨハネの話を聞いて信じた人は多く男の数が5千人にもなったとありますから、その人々の雰囲気に押されて祭司たちもその場では手荒なことはできませんでした、彼らをとりあえず、牢に入れました。「既に日暮れだったからである」とあります。

 日暮れということで、振り返りますと、主イエスを死刑にするための裁判は夜中に行われました。裁判は当時の決まりでは夜には行えなかったにもかかわらず、権力者たちは違法に裁判を行ったのです。今日の聖書箇所の場面では、議員たちがエルサレムにいなかったということもあり、夜の裁判とはなりませんでした。しかし、日暮れ、夜、闇というのは人間の罪を象徴するものです。人間の罪の本性は、明るい人目のある昼ではなく、夜にうごめきだすのです。イスカリオテのユダが主イエスを裏切り出て行ったのも夜でした。権力者たちが軍隊を引き連れて松明を掲げて主イエスを逮捕するためにやってきたのも夜でした。人間の罪が明らかとなる夜へと向かう頃、ペトロとヨハネは牢に入れられました。

 そして夜が明け、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まり、また大祭司の一族も集まりました。サンヘドリン、最高議会と呼ばれる会が招集されたのです。ペトロとヨハネは、今日でいえば最高裁判所にいきなり引き出されたようなものです。田舎者で、無学な漁師に過ぎない彼らは、本来ならば一生目の前でその姿を見ることはなかったであろうユダヤの権力者たちの真ん中に立たされました。これはそれだけで震えあがるような出来事です。かつて彼らの先生であった主イエスがまさに権力者たちによって裁判にかけられている時、裁判の行われている屋敷の外でペトロは「イエスなど知らない」と言いました。直接、権力者に問われたわけではなく、一緒にたき火にあたっていた人に問われただけでペトロは震えあがったのです。そのペトロが今日はぐるりと周りを権力者たちに取り囲まれています。しかし、今日のペトロは震えあがりませんでした。イエスなんて知らないとは言わなかったのです。

 「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った」とあります。かつて主イエスが「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。(ルカ12:11-12)」とおっしゃったように、ペトロは聖霊から言うべきことを示されました。罪の闇の前で、聖霊によって、神の光の守りの中に置かれたのです。

<大胆な答弁>

 まずペトロは「今日わたしたちが取り調べを受けているのは病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば」と語りだします。単刀直入に自分たちがしたことは<良い行い>であると言うのです。自分たちはなんら悪いことはしていないというのです。実際彼らがやったことは生まれながらに足の不自由だった人を癒したということだからです。しかし、聖霊は単にペトロに自分の身の潔白を語らせているわけではありません。いえむしろ、それを語るとペトロの今後には不利となることがらも語らせます。つまり権力者たちが最も聞きたくないイエス・キリストの出来事を語らせます。ペトロは自分の潔白を越えて、その善い行いである生まれつき足が不自由だった人に起こった癒しが、イエス・キリストによるものであることを語りました。そしてさらにペトロの目の前に今いるあなたたちはそのイエスを殺したが、イエスは復活をなさった、そして救いはそのイエス・キリストからしか得られないことを一気に語りました。

 これはこれまで使徒言行録で読んできたこれまでの二回のペトロの説教と主旨としては同じです。しかし、語っている相手が、主イエス殺害の首謀者たちであることが異なります。たしかにこれまでのペトロの説教を聞いていた民衆たちも、指導者たちに扇動され、あるいは自分たちのローマからの独立という希望を裏切られたという怒りから主イエスを「十字架につけろ」と叫びました。しかし、違法な裁判を主導して、最終的にはローマ総督のピラトまで巧みに脅し利用した権力者たちのイエス殺害への加担の度合いは民衆に比べてとてつもなく大きなものといえます。

 であるからこそ、彼らはそのイエスという男に関わることは、すべて抹消してしまいたいのです。イエスの残党たちの口はなんとしても封じたいのです。ですから彼らはペトロとヨハネを逮捕したのでした。彼らは、この二人を見くびってもいたのでしょう。イエスはたしかに多くの奇跡をなしました。議論においても律法学者もサドカイ派も主イエスには太刀打ちできませんでした。しかし、ペトロとヨハネはそのイエスの手下に過ぎず、たいしたことはないと思っていたのです。実際、この裁判の場で、ペトロもヨハネも無学な普通の人であることを改めて彼らは知ったのです。そのような連中はかるくひねりつぶせる、そう思っていたところ、予想外に、大胆な言葉を語るペトロに面食らいました。しかも、実際に足をいやしていただいた人がそばに立っており、権力者たちは何も言えませんでした。

 人間はたしかな真理を突きつけられて、それを受け入れることができないとき、黙りこくるか、嘘に嘘を重ねて反対をするかどちらかです。権力者たちはこの場面ではひと言も言い返せなかった、つまり黙りこくったのです。一般的にも、自分に突きつけられた真理を受け入れられない時、人は往々にして黙秘をするか偽証をします。私たちは神から示されることに対して、それが正しいことはうすうす分かっていても聞こえないふりをすることがあります。聞こえないふりをして何も答えないのです。あるいは、それは違うとあれこれ言い返す時もあります。いずれにしてもそのようなとき、心に平安のない、なにか重いものが残ります。そのことに気づかないふりをしていても、やがて、そのことに遅かれ早かれ、私たちは結局のところ向き合うことになります。神がそのように導かれます。

<神の前に正しいか>

 さて、言葉に窮した権力者たちは、いったんペトロたちを退出させて相談をします。権力者たちはペトロたちを罪に問うことはできないことは分かっていました。「彼らが行った目覚ましいしるしはエルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定できない。」彼らの頭にあることは、それが真実であるかどうか、良いことか悪いことかではなく、自分たちの立場でした。聖書や神にもっとも詳しいはずの彼らの判断基準は神ではなく、人びとからどう見られるかであり、自分たちの既得権益を守れるかどうかでした。生まれつき歩けなかった人が歩けるようになった、その素晴らしい出来事をなさった神の方に彼らは顔を向けていませんでした。自分の立場が第一でした。人間は、神を見ていなければ、人間だけを見て、判断するしかないのです。

 「しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後、あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」民衆の反応にうろたえている権力者の姿は、滑稽ではありますが、一方でそれでも彼らは自分たちの力を信じていました。自分たちが脅せば一介の無学な田舎者に過ぎないペトロたちは黙るだろうと考えたのです。しかし、ペトロたちは「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか考えてください」と堂々と答えます。

 私たちは、ここで、ペトロたちを脅そうとした権力者たちのことを愚かに感じます。一方で、<神の前に正しいかどうか>という言葉の前で、自分のことを問う時、いつも胸をはって自分は正しいとは言えないのではないでしょうか。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか考えてください」この力強いペトロのように、たしかに私たちは神に従いたいのです。しかし、この地上に生きていくとき、ペトロたちが堂々と権力者たちに対峙したようには生きていけない時もあるのではないでしょうか。実際のところ、生きていくとき、会社や組織やさまざまなこの世のしがらみのなかで、これは神に従うことなのかどうなのかということがらに遭遇して、判断に苦しむ時もあるのではないでしょうか。日々の生活の中で、判断に苦しむこと、あるいは判断に苦しみながらやらざるをえないこともあるのではないでしょうか。

 私が大学を卒業して最初に入社した会社で新入社員研修を受けていた頃、入社して三ヶ月目くらいでしたが、ある日、会社に報道陣が押し掛けてきました。当時勤めていた会社の幹部がアメリカで産業スパイとして逮捕されたのです。手錠をかけられ腰縄をつけられ連行される姿がテレビに映っていました。社会人になったばかりの私にはショッキングな映像でした。日本のマスメディアにも大きく取り上げられました。コンピュータの基本ソフトを巡るかなりきわどい企業間の駆け引きの中での事件で、単純な意味での産業スパイとはいえないところもありました。ただ、逮捕された人、関係した人々は、当時、それが正しいことと思ってやっていたのかどうかは分かりません。当時、同期の新入社員もこの事件を受けて会社に不利にならないようにソフトの書き換え作業をさせられた人もいます。そこには正しいかどうかと問われたとき、まっ黒とはいえないまでもグレーの状況があったと思います。当時、もし私がその作業を担当させられていたらどんな気持ちだったかと思います。そのとき私はまだクリスチャンではありませんでしたが、クリスチャンであったなら、「あなたは神の前に正しいのか」と問われてどう答えていたかと思います。

<かならず助けは来る>

 ここで、もう一度ペトロと権力者たちのやり取りを振り返ってみます。ペトロたちは、ここで語ったのは、イエス・キリストの証でした。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」救いはイエス・キリストから来る、他からは来ない、ペトロが権力者の前で語った言葉を集約するとこの一点になります。自分たちを不当に拘留し、憎しみを向ける権力者たちにペトロは自分たちの正当性よりも、まず救いを語ったのです。たしかにあなたたちは罪を犯した、しかし、あなたたちもまたキリストへの信仰によって、救いに入れられるのだと語ったのです。

 もとより無学な田舎者であったペトロは、天下のすべての宗教を知っていたわけでも、神学的な高度な理論を持っていたわけでもありません。しかし、彼は確信を持っていました。かつてイエスなんて知らないと言った彼は、復活のキリストと出会い、聖霊をいただきました。そして、自分がまことに神に愛され、罪を赦され、かつての情けない弱い自分を聖霊によって変えていただいたという確信があったのです。それは揺るがない確信でした。聖霊によって与えられた確信でした。単なる知識や経験則や宗教的訓練から来るものではありませんでした。内側からわき出る力によるものでした。

 そしてその力は、愛と救いへの力でした。ペトロは権力者たちに彼らの犯した罪を語りましたが、それは彼らを裁くためではありませんでした。彼らをも、キリストの救いへと導きたかったのです。彼らにも神の素晴らしい業を知ってもらいたかった。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」とペトロは言いました。彼らにも自分と同じように復活のキリストと出会い、聖霊をいただく素晴らしい歩みをしてもらいたかったのです。だから話さずにはいられなかったのです。もちろんその言葉は耳触りの良い言葉ではありませんでした。甘い優しい言葉ではありませんでした。罪を指摘する言葉でもあったからです。しかし同時にそれは愛と救いへの言葉でした。

 私たちもまた聖霊に満たされる時、愛と救いへの言葉を聞きます。不当な目にあっても、判断に苦しむような局面に立たされても、力ある言葉を聞く時、必ず助けがきます。愛と救いの神は私たちを悩みや不安の中に孤立させられません。私たちを愛と救いによって包んでくださいます。



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