根無し草のつれづれ

日々の雑感をひたすら書き綴ったエッセイ・コラム。また引用部分を除き、無断掲載の一切を禁ず。

T君とstephen(ステファン)

2009-07-22 23:13:03 | エッセイ、コラム
1995年3月、タイ・バンコク。

その時、私はタイ王国の首都バンコクの安宿街「カオサン」にいた。

日本の大学の春休みの「卒業旅行」シーズンにもかかわらず、「パキスタン航空」というバングラデシュの航空会社の便「ビーマン・バングラデシュ」と安さを競う、国際線のオープン・チケットで帰りの予約を入れず、単なる勢いで日本を出たため、復路の予約が取れずバンコクで足留めを喰らっていたのだ。

宿の外観や内装とは真逆に世界的にも有名なブランド名を名前に冠する、1泊300円くらいの安宿に泊まり、日系の旅行会社に頭を下げて無理矢理予約を確保した1週間後の日本行きの便を待つために、残り少なくなった旅行費用を騙し騙し遣いながら、ただジッと自分が乗る飛行機が飛び立つ日が来るのを待っていた。

たまたま宿泊したその宿は日本人バック・パッカーのたまり場的な場所で、そこのサロンにはバンコクを拠点にしベトナムやインドに出掛けて行く私と同年代(私もまだ20歳代前半!!)の日本人の若者が集い、暇だった私はよく彼らと話しをして毎日時間を潰していた。

と、そこにひょっこり現れたのが今でも付き合いのあるT君である。
彼は我々が滞在する宿とは別のゲスト・ハウスに泊まっていた。

私が滞在していた宿には「掲示板」があり、現在のようにネット環境が整って無かった当時は、そこの掲示板を利用し、旅先で知り合いになり、またバンコクで会おうとする者たちや、日本を別々に出てバンコクで合流する者たちが、その掲示板を利用し海外での連絡を取り合っていたのである。
T君もまたそういう中の1人で、友人とカオサンで待ち合わせをしている、との事だった。

彼は、バンコク経由でインド旅行をし、その帰路でのバンコク滞在。
T君がインドからバンコクの空港に着いた所で、ふと宿のルーム・シェアをしようと気紛れに思い立ち「ステファン」なる白人男性に声を掛けたそうだ。

このステファンが、アジアを長期旅行するバック・パッカーを絵に描いたような人間で、かなり個性的な人物。
さらに体調を崩していて…という具合で、T君もノリで声を掛けルーム・シェアを申し出て部屋を同じくしているものの、どうも後悔している様子だった。

退屈を持て余している人間にとって、こんな面白い話題はない。
その日から、毎日T君が日本行きの便に乗るまで、T君以外誰もみた事もないステファンの話題が、彼との挨拶代わりとなった。

「今日のステファンどんな感じだった?」

という具合。

記憶が正しければ、ステファンは自然治癒力を信奉する白人で、やれ身体を治す為メディテーション(瞑想)を始めただの、一般人には奇行にしかみえない行動に走っていたようなのである。
そのステレオ・タイプな白人バック・パッカーっぷりに宿で同じく暇している日本人仲間とゲラゲラといつも笑っていた。

ある朝T君が

「ステファン調子はどお?」

と訊いた時には

「う~ん、40パーセント・リカバー(回復)した」

なんて答えたそうである。

ある日、T君がいつものようにやって来て開口一番

「ヤバい。とうとうステファンが『尿療法』始めやがった!」

と我々に報告した時には、サロンにいたみんなで腹がよじれるくらい笑い転げたものだ。


ホントにギリギリのお金しか持たず出国した私は海外でも貧乏でT君には煙草を恵んで貰ったり、タイスキをご馳走して貰ったりした。

ある時は日本人のバック・パッカーの女の子が「ゴー・ゴー・バー」と呼ばれるタイの『女性が最も簡単な方法でお金を稼ぐ』為の『前段階』の「怪しいお店」に社会勉強で行きたい、と言い出し、それなら「パッポン」というタイ随一の歓楽街に夜に出掛けようと、学生同士で盛り上がり、私はT君にお金を出して貰い、その手の「怪しいお店」にも一緒に連れて行って貰いその雰囲気だけを楽しみ帰って来たりもした。

ツクツクと呼ばれる3輪タクシーに完全なる定員オーバーで乗り込み、パッポンへ繰り出す途中の路上で、それを面白がった白人からは写真を撮られてしまった。
もしあの写真がキチンと写っていたら、どこかの国のどこかの家には我々の青春の1ページが画像記録として残っている事だろう。
私はとりあえずピース・サインをして「平和」を訴えておいた(笑)。


その後、ステファンがどうなったのかはよく覚えていない。
確認の為に先日T君に電話したのだが、私の方がその事をよく覚えているくらいだった。

ステファン…まだ彼は母国(北欧だった)と世界を行ったり来たりして、「終わらない旅」の途中なのだろうか。
それとも母国で真面目な人生を歩んでいるのだろうか。
私には知る術はない。

私はそう何回も海外1人旅をした訳ではないのだが、帰国後連絡を取って東京で再び会い、今でも付き合いのあるのはT君だけである。
あとは電話や手紙の挨拶だけで関係は途切れてしまった。


1995年早春。
この前のようでありながら、でも遠い昔。



写真は夕刻の「カオサン通り」。