根無し草のつれづれ

日々の雑感をひたすら書き綴ったエッセイ・コラム。また引用部分を除き、無断掲載の一切を禁ず。

映画『世界で一番美しい夜』

2008-05-29 23:35:15 | エッセイ、コラム
監督:天願大介、出演:田口トモロヲ、月船さらら、市川春樹、松岡俊介、美知江、斎藤歩、江口のりこ、佐野史郎、柄本明、角替和枝、三上寛、石橋凌、の映画『世界で一番美しい夜』を観てきました。


ストーリーは14歳の中学生の女の子・ミドリ(市川春樹)を語り部に、要村が出生率日本一である秘密をレポートという形で語る、という所から始まります。

西日本のどこかにある、要(かなめ)村は出生率が日本一であるという事から、総理大臣に表彰される事になり、村は沸いています。
その出生率の高さの秘密は、14年前に東京の新聞社からこの村にある支局に左遷されてきた男・水野一八(田口トモロヲ)の登場に端を発するものです。
因みに支局には一八(通称・いっぱち)も含めて3人しか社員がいません。

とあるスキャンダルで東京の本社から左遷されてきた新聞記者である一八は、記者としての習性から、赴任した村についてあれこれ調べ始めます。
しかし、自然は豊かではあるけれど、平和で漁業以外にこれといった産業もない要村に大した出来事や事件がある筈もなく、村の勢力図や人間関係を把握する程度の収穫しかありません。
小さな僻村である割りには、変わっていて濃いキャラクターの人物の割合が多いという、妙な事もあるにはあるんですが…。

そんな中、支局の同僚たちの行きつけのスナックのママ・輝子(月船さらら)についての良からぬ噂を聞いた、一八はその噂にスクープの臭いを嗅ぎつけ、彼女について調べ始めますが…というのがこの映画のプロローグになります。


予告編とタイトル、あるいはポスターから受ける印象、R-18という規制から、やや濃厚な性描写がある、でも心温まる感動作かな、と思って観に行ったら、エロティック・ファンタジーといった印象の作品でした。

中盤まではサスペンスの要素もあるような作品なんですが、気がつけば、軽いコメディ要素あり、ファンタジー要素あり、性描写あり、の映画にいつの間にか変容していきます。
そこにはシュールさも内包されています。

テーマは「ラヴ&セックス」といった所でしょうか。
男女のコミュニケーションとしてのセックスもいいけれど、原点に戻って子作りもしようよ、というメッセージがこもった作品のように感じました。
タイトルに「美しい」という言葉を入れていることから、性に対する一般の淫猥なイメージに対する監督のアンチテーゼもある気がしました。


ムチャクチャに面白いという印象の作品ではないんですが、160分という長さをそんなに感じさせないのは、そこはかとなく観客の意表を突くような話しの展開があって、飽きさせない作りになっているからでしょう。

すごくオススメという訳ではありませんが、観たら観たでなかなか面白い作品です。
劇場の性描写もピンク映画のカテゴリーになっていない割りには、過激と言えば過激なんですが、笑って済まされる程度のものになっています。

映画『ジョイ・ディヴィジョン』

2008-05-29 03:34:12 | エッセイ、コラム
監督:グランド・ジー、出演:ニュー・オーダー、ピーター・サヴィル、トニー・ウィルソン、アニーク・オノレ、アントン・コービン他、の映画『ジョイ・ディヴィジョン』を観に行ってきました。


“ジョイ・ディヴィジョン”とは“ニュー・オーダー”の前身になったバンドで、ヴォーカリストのイアン・カーティスの自殺によって一旦は消滅したバンドです。
その後ジョイ・ディヴィジョンの残されたメンバーはバンド名をニュー・オーダーとし活動を再開、一応は現在も健在のようです(解散した、いやしてないとメンバー間で見解が分かれているようですが…)。

90年代前半に“フレンテ”というオーストラリアのバンドが軽く流行った事があり、そのアルバムの中に「ビザール・ラヴ・トライアングル」という曲が収録されているのですが、その曲は恵比寿のギルティというライヴハウスで行われた、フレンテの来日公演でも演奏されていて、ヴォーカルのアンジーがその曲について、ニュー・オーダーがどうのこうの、と言っていたのを覚えています。
その曲は大好きな曲でもあったし、ラジオで原曲も聴いた事もあり、ニュー・オーダーというバンドにはさして思い入れはないものの、こういう曲を書くバンドにはどんな歴史があるのだろう、と興味を抱き観に行ったのが今回の『ジョイ・ディヴィジョン』という映画です。


作品は関係者のインタビューとジョイ・ディヴィジョンのステージ映像、イギリスの都市・マンチェスターの当時の様子やジョイ・ディヴィジョン縁の地の現在の様子などを交えながら、イアン・カーティスという人物や、ジョイ・ディヴィジョンというバンド、そしてマンチェスターという都市の変遷について迫るものでした。


あと5~10歳、年齢が高ければリアル・タイムで知っていたバンドだったかもしれませんが、78年~80年の活動期間では私にはあまりピンとはきませんでした。

ただ、イギリスなどの歴然とした階級社会がある国や、マンチェスターという一度はどん底を味わった都市から生まれてくる音楽には、比較的貧富の差の少ない日本からは絶対に生まれない「苛立ち」や「怒り」、ある種の「諦め」などが内包されていて根本的に重みが違うものだなぁっと思ったり、イアン・カーティスという人物は私生活では非常に真面目で繊細、ステージ上では人が変わったように独特のパフォーマンスをするなどの2面性を持っており、バンド活動の途中からは「てんかん」などの発作にも悩まされていて、たとえアーティストに不可欠な感受性の強さや繊細さ、表現能力が備わっていたとしても、こういう人前に出る職業の人は、気持ちの切り替え方が上手かったり、ある種の楽観性をも備えてないと、遅かれ早かれ壊れてしまうものなのだろうなぁ、という感想を持ちました。

イアン・カーティスという人物はジョイ・ディヴィジョンの2ndアルバム『クローサー』のヒットを受け、80年の5月、アメリカ・ツアーに出掛ける前日に、自ら命を絶つ訳ですが、やはりそれは精神的に繊細な人間が、短い期間に脚光を浴びてしまったが故のある種の必然の結果のような気がしました。

短い人生でも歴史に名を刻んで生きるのが良いのか、無名で脚光を浴びずとも長く生きるのが良いのかは、人それぞれの価値観によるでしょう。

しかし、現在の世の中、ある程度心が鈍感で、気持ちの切り替えが上手くないと、特に都市部では直ぐに精神に異常をきたしてしまうのではないんでしょうか。
なんだか明らかに世の中は狂った方向に向かっているなぁっと鑑賞後の電車の中で考えてしまいました。

映画『アフタースクール』

2008-05-27 00:49:05 | エッセイ、コラム
監督:内田けんじ、出演:大泉洋、佐々木蔵之介、堺雅人、常盤貴子、田畑智子、の映画『アフタースクール』を観てきました。


ストーリーは少しでも記してしまうと、面白くなくなるので敢えて記しません。

配役には、「中学校教師の神野」に大泉洋、その「友人の木村」に堺雅人、「アダルトショップの店長で私立探偵」に佐々木蔵之介、「妊婦」に常盤貴子、「謎の女性」に田畑智子という布陣です。


「レゴ」いうブロック玩具がありますが、それで作られた車の模型を一度崩して、同じブロックを使いながら、今度は飛行機を組み立てる様を、端でみているような作品でした。
ラストに向けて頭の中がグチャグチャになり、最後には鳩が豆鉄砲をくらったような感覚に陥ります。
それが面白いと感じるかどうかが、この作品の評価を左右する事でしょう。
キチンとスクリーンに目を向けていないと、途中で何が何だか分からなくなるので、これからこの作品を観に行かれる方は、2時間作品に集中して下さい。

私はてっきりコメディだと思って観に行ったのですが、いざ蓋を開けてみると、それは上質のエンターテイメント・ミステリーでした。
笑えるシーンもちょこちょこ挿入されてはいますが…。
そしてそこには甘酸っぱい郷愁感を感じさせる場面もあったりして、鑑賞後感もすごく良いです。
人は見た目だけでは分からなく、じっくり付き合ってみないとその正体は分からないものだ、という事も感じさせてくれる作品でもあります。
出来れば、タネが全て分かった上でもう一度観に行くとなお楽しめるかもしれません。


人によっては訳が分からないだけの作品かもしれませんが、私にはオススメの映画です。

川田亜子さんの自殺~やるせなくて、切なくて…~

2008-05-26 23:54:10 | エッセイ、コラム
元TBSの女子アナウンサーで、現在はフリーで活躍していた川田亜子さんが自殺というショッキングなニュースを午後に知る。

彼女が死を選ぶ2日前までのブログにザッと目を通してみた所、時折オヤっと思う鬱の兆候が行間に漂っていた。
それは自ら死を選んだ今だからそう思えるだけなのかもしれない。
どうにもこうにも、やるせなくて、切ないニュースだ。

暫く前にも彼女の後ろ向きな内容のブログが芸能ニュースに載った事だし、これから記者たちによる取材で、彼女が自殺した理由が色々な形で明らかにされていく事だろう。
それが全てホントの事だとは、信じられないが…。

彼女の最後のブログには今もコメントが付け続けられている。
内容は、「頑張れ! 頑張れ!」、というものが殆ど。
私も軽く短い追悼文を寄せてみたが、事務所によるチェックに引っかかってしまったらしく、現在の所、反映されていない。
自殺が周知の事実となっているのに、それが鬱による疑いが強いのに、事務所は綺麗事で済ませ、自殺者に鞭打つような「頑張れ」メッセージだけ公表して、どうしようというのだろう。
鬱という病気に罹患してしまった人にとっては「頑張れ」という言葉は禁句である。
本人が頑張りたくても、頑張れないのが、鬱という病気だから、励ましはプレッシャーにしかならなく、頑張れない自分を責めてしまうからだ。



この文章をどれくらいの人が読んでいてくれているかは現在の私には分からない。
ただ読者の皆さん、ちょっとでも心の調子が悪いな、と思ったら、迷わず、心療内科あるいは精神科の門を叩いて下さい。
鬱は適切な治療を受ければ治る病気です。
そして、鬱に罹患した友人や知人、肉親を持つ周囲の皆さん、鬱の事をもっと勉強して優しく見守り、彼らの話しを否定も肯定もせず黙って聴いてあげて下さい。
気が滅入り、繰り言が多いかもしれませんが、それがあなたがたに出来る事です。
そして、決して励まさないで!
もうこんな悲しい事は沢山です。



写真は今日歩いていて見かけた花壇の綺麗な花々。
彼女が彼岸で現世の苦しみから解放されて、こういう美しい世界にいる事を願ってアップさせて貰います。
神に召された、川田亜子さんのご冥福を謹んでお祈り申し上げます。

2008-05-26 07:33:34 | エッセイ、コラム
写真は昨日未明に紹介したユリの花の現在の様子です。
この青唐辛子みたいなものがユリの蕾です。
大きさは小指の先ほどでしょうか。

今年も無事綺麗な花をみせてくれると良いのですが…。

2008-05-25 01:38:47 | エッセイ、コラム
午後から雨が降り出す。
出掛ける用事がなければ雨もそんなに悪いものではない。
今降っているのはシトシト雨で、来たるべき梅雨を彷彿とさせる。

庭の植物たちが雨に濡れて、なんともなまめかしい姿態をさらしている。
植物は時に、人間よりも色っぽい姿をみせるから不思議だ。

5月もあと1週間。
6月に入ると、本当の梅雨がやって来る。
例年通りなら関東独特の九州にはない梅雨寒になる事だろう。
人生の半分を東京で暮らしているが、冬の夕暮れの早さだったり、梅雨寒だったりとどうしても慣れない事は多い。

やはり、幼少期から成長期を過ごした場所がたぶん誰にでも一番快適な環境という事だろうか…。


写真は去年の梅雨に咲いたユリの花。
今年も蕾を付けて開花を待っている。

映画『マンデラの名もなき看守』

2008-05-24 01:44:50 | エッセイ、コラム
原作:ジェームス・グレゴリー、監督:ビレ・アウグスト、出演:ジョセフ・ファインズ、デニス・ヘイスバート、ダイアン・クルーガー、の映画『マンデラの名もなき看守』を観てきました。


ストーリーは、南アフリカ共和国初の黒人大統領であるネルソン・マンデラが政治犯として投獄されていた27年間のうち、22年間を看守という立場からみつめ続けたひとりの人物による、ネルソン・マンデラという人間、南アフリカという国の変遷、そして変わりゆく自分自身とその家族、を描いた作品とでもいうべきものでしょうか。
主人公はジェームス・グレゴリーという実在した人物です。彼はネルソン・マンデラの看守を長期に渡って勤め、その体験を綴った手記『グッドバイ・バファナ』を出版しています。
この映画はこの手記がベースになっているようです。


基本的には淡々とした物語でしたが、私には非常に興味深い作品でした。

看守と囚人という決定的な立場を越え、時を経るごとに心の深い部分で交流を深めていく2人。
2人の交流は、看守・グレゴリーが一般の南アフリカ人の白人とはちょっと違った幼児体験を持っている事と、マンデラの誇り高く、教養豊かで、懐の広い人間性があって初めて実現出来たものだと思いますが、これは敵であり思想形態も全く違う筈の白人でさえも魅了してしまう、マンデラのカリスマ性も非常に大きかったのではないかと感じました。

基本的に静かな作風の映画ですが、現代史の隠れた1ページとして、まるで青い炎のようにとても強いメッセージ性を、はらんだ作品でもあります。
現在の所、確か首都圏の映画館6館でしか上映されていない作品(これから拡大上映される予定かは私には分かりません…)ですが、観ておいて損はない映画だと思いました。

因みに前の席にいた20代のカップルの女性の方はどうやら退屈だったらしく寝ていましたけどね(笑)。

映画『丘を越えて』

2008-05-20 01:40:15 | エッセイ、コラム
原作:猪瀬直樹、監督:高橋伴明、出演:西田敏行、池脇千鶴、西島秀俊、の映画『丘を越えて』を観てきました。


物語は下町育ちの女性・細川葉子(池脇千鶴)の目を通してみた、菊池寛(西田敏行)を取りまく人間関係、文藝春秋社、あるいは昭和初期のモダン風俗などの様子を描いたものです。

女学校を卒業した葉子はツテを頼りに文藝春秋社に職を求め、面接を受けに行きますが、社員に空きはない、と断られてしまいます。
しかし、当時のベストセラー作家であり文藝春秋社の社長でもあった菊池寛に気に入られ、文藝春秋社の社員ではなく彼の私設秘書として採用されます。
さらにそこに文藝春秋社の社員で朝鮮貴族の出身の馬海松(まかいしょう・西島秀俊)が絡んできて、という話しです。
因みにフィクションだそうです。


文学史には出てきますが、知っているようでよく知らない菊池寛の「仕事」の方が描かれているのを期待して、私はこの映画を観に行ったのですが、劇中ではそういった事よりも、彼の人間性や信条の方に焦点が当てられていました。
葉子や馬海松といった人物を登場させる事で、菊池寛という人間や、当時の日本の市井の人々の生活や、まだ二次大戦前で華やかだった東京の様子、あるいは植民地であった朝鮮半島の社会構成が垣間見える趣向になっています。
が、葉子と菊池寛と馬海松の人間関係に重きをおいて作品を描いてしまった故に、この映画が何をテーマにしているかが、ぼやけてしまった観がありました。

劇中では現在も本屋に並んでいる『文藝春秋』、『オール讀物』の出版状況から、『モダン日本』という当時としては先鋭的な雑誌の創刊に関するエピソードも登場します。
けれども、何故か芥川賞や直木賞の創設のエピソードついては全く触れられていませんでした。
菊池寛と言えば、芥川賞や直木賞でしょうに…。

しかし、この物語のあとに続く戦中の厳しい言論統制の時代はどうであったかは分かりませんが、きな臭い匂いがし始める時代に於いての、文藝春秋社のジャーナリズムに対する真摯で反骨的な姿勢に関してはキチンと描かれていたように思います。
ツールが変化しただけで基本的には現在と大差がない、当時の出版社の様子も興味深い所でした。

こういった事で物語が最後まで進んでいけば、普通の作品として観る事が出来たのですが、中途と最後に登場する、おそらく登場人物たちの心情、あるいは作品のテーマを投影させたのではないかとみられる、不可思議なシーンが登場し、これが作品とマッチしていれば良かったのですが、不幸な事にこれらが非常に浮いてしまっていたが故に、それによってこの作品の出来を決定的に左右してしまった感じがしました。
飽くまでも私見ですが…。


戦争前の、江戸情緒と西洋文化が融合した魅力ある「昭和モダン」や、当時の建物や流行歌は、劇中随所に登場するので、そういった事に興味がある方は劇場に足をお運び下さい、といった感じの作品です。

ネコ

2008-05-19 07:04:29 | エッセイ、コラム
現在朝の5時、こんな時間にエッセイを書き始めようとしているのは眠れなかったからに他ならない。
眠れなかった原因は幾つかある。
昨日、昼間に惰眠を貪っていた事、夕方に珈琲をがぶ飲みした事、昨夜が満月であった事、たぶんこういった事が重なって眠れなかったのであろう。

仕方がないので顔見知りのネコの話しでも書く事にする。

写真のネコとは彼が仔猫の頃からの付き合いである。
一応人間観察はしているようで、人を選び、危害を加えない人物だと判断すると、全く人間に対して警戒心を持たない、ネコとしては変わった性格の持ち主だ。
非常に人あしらいが上手く、撫でてあげると人間が好みそうな仕草をして喜ばせてくれる。
仔猫の頃から人懐っこい性格をしていたが、大人になるにつれさらにそれに磨きがかかったようだ。
これが彼の処世術である。

こういう性格なので、ネコ好きの人からは可愛がられるようで、ネコ社会の力関係から生息地を変えざるを得なくても、基本的には野良のスタンスは守りながら、外ネコとしてパトロンを上手く見つけ、餌にはキチンとありついている模様。
もう5、6年、野良で生きているのが何よりの証拠だ。


昨年の夏に見かけて以来、彼には逢っていなかったのだが、先日久し振りに再会を果たした。
得意の愛想を武器に、パトロンから餌を貰い、今年の厳しい冬も乗り越えた様子で、毛並みも肉付きも良い。

久し振りだなぁ、生きていたかぁ、良かったなぁ、と声を掛けながら撫でてあげると、相変わらず可愛い仕草をしてみせる。
そんな風に暫く彼と戯れていると、彼のパトロンのオバサンが自転車で帰ってきた。
彼が佇んでいたのはネコ好きのパトロンのオバサンの家の前だったのだ。
と、その様子を敏感に察知したネコは、今まで私にみせていた甘えた仕草を、さっと切り上げ、パトロンのオバサンの元に走り寄り、今度はオバサンに甘えて愛想を振り撒いている!
素晴らしい、ネコらしい現金さであった。
所詮、ネコなので、特に腹も立たず、逆に笑ってしまう私。

ふとこれだと思った。
ネコ故に期待もしていないから、怒りの感情も起きない。
今まで、友人などに対して怒りを覚える事の一つに、私が勝手に抱いた彼らに対する過度の期待があった事を思い浮かべる。
期待をしなければ、腹も立たない。
淋しい生き方かもしれないが、私にはこれくらいがちょうどよいのだと思う。
これからはなるべく他人に対して期待をするのを止めよう。

それが、現代社会で、都会で、生きていくには大事な事なのかもしれないな。
パトロンのオバサンにすりより餌をねだっているネコをみてふとそう思った。

イヌ

2008-05-18 23:24:41 | エッセイ、コラム
可愛がっていたF家のG・レトリバーの友犬マックが亡くなってから1年近く。
亡きマックの影を追い求めるが如く、散歩中のイヌに出逢うと必ずといっていい程、声を掛けるようになった。

基本的に飼い主さんも良い人が多く、イヌ自身が私に興味を持っていると、心良く触らせてくれる。
面白いのは飼い主さんがイヌに普通に喋り掛けている事だ。
私がイヌの注意を引くような音を出して気を引きつけると、

「どうする? ○○ちゃんコンニチハしていく?」

などと飼い犬に尋ねたりしているのだ。
飼い主さんにとって、イヌは小さな子供となんら変わらないんだなぁっといつも思う。

私がイヌに手の匂いを嗅がせ、頭を撫でると、

「ありがとうございます」

と私にお礼を述べたあと、飼い犬には、

「良かったねぇー○○ちゃん。可愛がって貰えて!」

なんて言っているのも微笑ましい。
私もイヌを撫でると嬉しいので、飼い主さんには、ありがとうございます、と言い、イヌには、じゃあな! などと言ってバイバイをする。
イヌを触ったあとはホントに気持ちが落ち着いて、さっき逢ったばかりのイヌの仕草を思い出してニコニコしてしまう。

肩書きやルックスなど関係なく、種を超えてハートとハートで通じあえる彼らとの交流は何とも気分が良いものだ。