根無し草のつれづれ

日々の雑感をひたすら書き綴ったエッセイ・コラム。また引用部分を除き、無断掲載の一切を禁ず。

視線の先

2007-04-29 13:27:42 | エッセイ、コラム
寝る前に服用した風邪薬の影響からか寝汗をかき、その
不快さから夜半に目覚めてしまう。
時刻は午前三時。
不快さを解消するためシャワーを浴び、火照った体を冷や
すため、庭に出て冷気にあたる。
濡れた髪をタオルで拭いながら、あぁ気持ちイイー、と一
人ごちていると、何者かの視線を感じる。
視線を感じた方に目をやると、そこには一匹の猫の姿が。
何時からそこにいたのかは不明だが、塀の上に座り、私
の方をじっと見つめている。

びっくりするじゃないか!、とひとり言とも猫にともつかな
いような言葉を発し、そして今度はちゃんとその猫に向か
って「ニャン」と“猫語”で話し掛けてみるがまるで無反応。
逃げる様子もみせないが、かといって積極的にこちらに寄
ってくるでもなく、ただ落ち着いた調子でジッと私の方を見
つめている。

たぶん80年代ブリティッシュ・ロックが好みで、その中でも
“ポリス”をこよなく愛する猫なのだろう。
ひょっとしたら首からiPodをぶら下げていたかも知れないが、
それは暗くてよく確認出来なかった。

でも、猫に、それも夜中に突然出没するような猫に、

“I'll be watching you”

と言われた所で特に嬉しくもないのだ。


生まれて初めて猫のことを不気味だと感じた夜だった。

クラムボン 「トレモロ」

2007-04-26 19:12:54 | エッセイ、コラム

久し振りにベンフォールズファイブを聴いた流れで、クラムボ
ンの『JP』も聴く。
バンドの1stアルバムらしく、荒削りながらもイキオイに満ちた
内容で好きな一枚だ。
その中に収録されている「トレモロ」という曲にハッとする。


どんなことにも 終わりは訪れる
永遠ってときも 確かにあったけど
君と初めて会ってから 動き出した毎日も
やがて終わる日が来ることを 知っていた

足音を聴かせて 泣きごとも言わせて
つもりつもって 土にかえるまで
消えてしまうまで

クラムボン 「トレモロ」 詞:原田郁子 アルバム『JP』に収録


たぶん別れた恋人のことを想って書かれた詞だと思う。
時は別れた直後のヒドイ状態の時か。
「君」と出会った瞬間は世界が違ってみえて、楽しい思い出も
沢山あって、それだけに別れてしまうのはつらくて、でもそれ
はどうしようもなく、ただ仕方のないことで…、彼女の心境は
そんな所だろうか。

注目すべきはラスト3行。
「足音を聴かせて」と元恋人のことを想い、「泣きごとも言わせ
て」と弱音を吐いたあとで、その状態は「土にかえるまで」「消
えてしまうまで」と期間を限定している。
ここに作者の、自分の弱々しい状態はずっと続くわけではなく
て、時期がきたら立ち直ってみせる、という決意をみたような
気がした。
そんな個人的な解釈の上で改めてこの曲をみてみると、一見
普通の失恋ソングに思えるこの曲が、ネガティブさのなかにも
ポジティブさを伴ったもののように思え、隠れた名曲として評価
も変わってくる。

さらにこの曲の歌詞カードの下方には見落としてしまいそうなく
らいさりげなく

“Dedicated to S.S.”

という文言がある。
即ち「S.S.(というイニシャルの人物)に捧ぐ」。
この一言でこの曲はリアリティーが増し、詞に深みが出ている
のだった。
この曲は原田郁子さんが身を削って書かれたものなのだろう
か…。


クラムボン オフィシャルサイト↓
http://www.clammbon.com/top.asp


試聴などはこちら↓から
http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=942891

 


 


庭の春

2007-04-25 17:14:00 | エッセイ、コラム
雨に濡れながらオダマキの花が咲く。
淡いピンク色の花は、昔ダブリンの公園でみた花嫁のよ
うに、柔らかで無垢な美しさをまとっていた。

もう何年も前、散歩中に

「どうぞご自由にお持ち下さい」

の張り紙をみつけ、ありがたく頂いてきたオダマキの苗
が幾つもの季節を越え、今年もまた花をつけてくれた。

THE BIRD AND THE BEE

2007-04-15 15:13:15 | ダイアリー
さっき
“THE BIRD AND THE BEE”
なるユニットの
「Again & Again」
という曲がラジオで流れていた。
時々ラジオでかかっていて気になっていた曲ではあったがその後特に調べもせずほっといた曲だった。
ラジオで聞いている時には曲調やムーグの使い方などから昔よく聴いていたステレオラブの新譜かな、と漫然と思っていたのだが、なるほど“THE BIRD AND THE BEE”というまったく違うユニットであったか。

サイトでみるとジャケットにも見覚えがある。
多分、CDショップで目に入っていたからだろう。
気になっていながら、なぜ今日までチェックしてないのか不思議だ。
情報に対してどこか鈍感になっている自分がいる。
これではいけないなぁ…。

「♪アゲナ・ゲン、アゲナ・ゲン」
頭の中でこのフレーズがリフレインしている。


http://<WBR>www.to<WBR>shiba-<WBR>emi.co<WBR>.jp/th<WBR>ebirda<WBR>ndtheb<WBR>ee/


http://<WBR>listen<WBR>.jp/st<WBR>ore/al<WBR>bum_00<WBR>946368<WBR>25250.<WBR>htm

ユメネコ

2007-04-10 18:11:15 | エッセイ、コラム
明け方、猫を抱いて眠るイメージの中で目覚める。
撫でるとフワフワした毛が心地よく、抱くと柔らかな感
触で温かな体温が感じられる猫だった。
アパート住まいで動物は飼えないので、腕に残る猫の
感覚はむろん夢の中のものである。
しかし、妙にリアリティがあり、けれどそれはいま散歩
道で遭う顔馴染みの猫たちとも、むかし実家で飼って
いた猫とも明らかに違う猫の姿で、はて?夢に登場し
た猫のイメージはどこからやってきたものだろうか、と
起き出すには早い早朝のベッドで考える。
考えることしばし、はたと一匹の猫の記憶がよみがえ
ってきた。

十数年まえのまだ学生だったころ一回だけ遭ったこと
のある猫。
朝コンビニに行った帰りに出遭った猫で、ノラ猫には珍
しく、「おいで」という私の呼びかけに逃げることなく、む
しろ積極的に近寄ってきた仔猫だった。
近くに寄ってきた所で頭を撫でて抱き上げ、そして膝の
上に置くと、喉をゴロゴロ鳴らしながら寝付いていた。
どんな理由で別れてしまったのか分からないが、まだ
親の温もりが恋しい年頃だったのだろう。
そうやって猫を膝に置いて数分間、私の膝の上で安心
しきった表情を浮かべ眠る猫をみて、なんだか妙に心
がくすぐったい気持ちになったのを憶えている。
もともとコンビニに弁当を買いに行ったこともあり、いつ
までもそうしているとせっかく温めてもらった弁当も冷め
てしまうので、おかずを少し分け与え、『またな』と頭を
ひと撫でして立ち去ったのだが、その後二度とその仔
猫をみかけることはなかった。

なぜその猫のことをよく憶えているかと言えば、それは
その猫にノミをうつされ閉口したからだ。
猫好きの私もさすがに学習して、それ以来ノラ猫を不用
意に抱くことはやってない。

最近は猫の寿命も長くなったと聞くが、既に十年以上前
のこと、仮に奇特な人に拾われ可愛がられたとしても、
その猫はおそらくもう天寿をまっとうしていることだろう。
ノラのままだったとしたら、寿命はもっと短かった筈。
そうして実体はなくなり、霊魂だけになった猫が、自らの
生涯を振り返る上でふいに私のことを思い出し、私の夢
の中に気まぐれに現れ、自らの幻をみせたのかもしれな
かった。
記憶のイタズラと簡単に片付けてしまうには、触覚にも
訴えかけるえらく現実感のある猫の夢だったので、たぶ
んあの夢はあの時の仔猫が、たわむれに私にみせたも
のだろう。

ちょうどいまごろの桜が花から若葉に移り変わる季節の
ことだったか、朝の空気はまだ肌寒かった。




うす紅の砂時計の底にて

2007-04-08 13:04:45 | エッセイ、コラム
朝イチで都知事選の投票に行き、その流れで井の頭公園
を散歩する。

ピークは過ぎてはいるものの、まだ桜の樹には花が残って
いて、風が木々を撫でる度に頭上からハラハラと花びらが
舞い散り、やや薄暗い木立ちの中、その花びらに幾筋もの
朝の木漏れ陽がスポットライトを浴びせかけ、それはとても
荘厳で幻想的な光景を作り出していた。
本当に息を呑む、表現のしようがない美しさであった。

かつてミュージシャンの松任谷由美は、九段にある老舗ホ
テルのラウンジから桜の花びらが降る様を観察し、「経(ふ)
る時」という曲の中でそれを「うす紅の砂時計の底」と表現
したものだが、いやはやミュージシャンという人種はなんと
感性が豊かな人たちなのだろうか、と舌を巻く思いである。

突如、朝の井の頭公園に出現した「砂時計」を堪能し散歩
を終える。

都内有数の桜の名所も、人が少ない朝であれば、こういう
光景にも出会えるのであった。