JR廿日市駅裏の元山手テニススクールの地には中国サナトリウム廿日市病院が昭和9年(1934)に創設されていた。サナトリウムとは結核治療など長期的な療養を必要とする人のための療養施設だったようである。昭和47年頃の住宅地図には廿日市病院が載っておりこの頃まで別の病院施設としては存続していたようだ。創設当時の絵葉書をみると病院の前面は一面の田んぼであり、現状からは伺い知ることができない。更新の活力になります! ポチッとね!
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自分の住む町、知らないことが多すぎる~。
廿日市病院は知っていたのですが、中国サナトリウムは今回初めて知りました。
それがテニスコ-トの裏だったのかはわからないのですが、サナトリウムがあったということは空気がきれいだったのでしょうね~。
この付近も数年のうちにガラッと変わっていくのでしょうね。
ご主人は庄原出身の事業家、田部華吉氏で、ご主人の留守中に水主町の家で被爆されました。火焔の中、市役所近くの公会堂裏の泉水池で、他人から一時預かった赤ちゃんを抱き、何時間も人々と泥水をかけ合いながら生き延びられました。焼跡を草津まで歩き、やっと乗れた満員の電車で廿日市へ。ご主人の従兄、田辺菫吉氏の経営される中国サナトリウム廿日市病院へ避難された様子が詳しく書かれています。
礼子さんはその後庄原に帰られ、原爆症に苦しみながら、昭和50年に76歳で亡くなられたそうです。
廿日市病院もこういう多くの人の歴史が刻まれた場所だと思います。
当時は栄養、衛生状態が悪く長期的な療養を必要とする人のための療養施設だったのでしょうが、原爆投下後、当地に医療施設が少なかったために廿日市病院も被爆者の救護活動をされていたのでしょうね。
廿日市町委発行の「熱い波」には田辺先生の救護活動された様子が各所にみられます。