昨日紹介した田の神像の周辺を散策していると松ぼっくりのような形状のものが沢山垂れ下がった見たことがないような木があった。ネットで調べてみるとクマシデのようで垂れ下がっているものは果穂というようである。葉の変形の果苞の根元には小さな種子があり果苞が翼のようになって風に運ばれ遠くに飛散するようである。
昨日紹介した田の神像の周辺を散策していると松ぼっくりのような形状のものが沢山垂れ下がった見たことがないような木があった。ネットで調べてみるとクマシデのようで垂れ下がっているものは果穂というようである。葉の変形の果苞の根元には小さな種子があり果苞が翼のようになって風に運ばれ遠くに飛散するようである。
今年は水不足気味であったがやっと田植えが終わったので、宮崎県や鹿児島県などでみられる田の神像がある小瀬川沿いのカフェテラス北山を訪れた。カフェテラス北山のカシミールカレーは具の肉や野菜もゴロゴロと大粒であり、スパイシーな香りとコクと深みで汗をかきながら今回も美味しく頂いた。
先日来紹介している玖島小学校跡の校庭片隅に百年記念碑と閉校記念碑が残されていた。百年記念碑は明治6年(1873)に玖島小学校の前身である有護舎が創立されて昭和48年(1973)の百周年記念に建立されたようである。閉校記念碑は平成27年(2015)3月31日の閉校に伴って建立されたようである。
先日来紹介している「玖島花咲く館」のくじま知ルーム(歴史展示資料室)のショ-ケース内に懐かしい廿日市の銘酒であった家納喜酒造の「家納喜」磁器酒樽・桝酒と地御前の銘酒であった勝谷酒造の「勝力」盃が展示してあった。
昨日紹介した玖島花咲く館内のくじま知ルーム(歴史展示資料室)のショーケース内に、大正15年(1926)頃玖島で酒醸造が行われていた資料が展示してあった。玖島酒造合資会社が弥栄菊を醸造していたようであるが、展示資料以外に詳しいことは定かでない。
昨日紹介した玖島小学校跡の校舎は玖島の里づくり交流拠点施設「玖島花咲く館」として活用されている。旧校舎1階にはくじまルシェ、カフェ玖島学園、くじま知ルームなどがあり、くじま知ルーム(歴史展示資料室)では旧小学校で使用されていたものや教室内の一部が復元、玖島出身の大田洋子、枝正義郎などの資料展示、地域で使用されていた民具などが展示されていた。
平成27年(2015)に閉校した玖島小学校跡で元校門の左側門柱には「玖島小学校/玖島中学校/津田高校玖島分校」、右側門柱には「玖島学園」とあり、昭和27年(1952)頃に保育園、小学校、中学校、高等学校分校が揃っており玖島学園と総称していたようである。現在、玖島小学校跡は玖島の郷づくり交流拠点施設「玖島花咲く館」として活用されている。
羅漢渓谷の小瀬川沿いにある雪が所々残る旧国道を歩いていると道脇に石仏が祀られたお堂がみられ、石仏には天明八年(1788)申九月と刻されていた。人里から離れた山中であり江戸期の地誌によると栗栖村の山中で木地屋が稼業していたことが記されているので、天明の飢饉の際資力のあった木地屋によって建立されたのではなかろうか。
羅漢渓谷の小瀬川沿いの国道186号線で山が迫って拡幅不能ケ所は別ルートで開通しており、雪の残った旧国道を久しぶりに歩いてみた。国道時代名残りの国道186号ルート標識と注意標識が残されていた。旧国道脇にはバブル期に設けられたものであろうか庭園風に造られた某店の天然水(湧水)汲み場があるが現在は訪れる人もないようで荒れ気味である。
先日紹介した謎の石像については帰り際に見たので、再度訪れてカフェテラス北山のオーナーにお尋ねしたが、前所有者時代のもので良く分からないとのことであった。宮崎県や鹿児島県でみられる田の神像のようであるが古い時代のものではなさそうだ。
カフェテラス北山のカシミールカレーは具の肉や野菜もゴロゴロと大粒であり、スパイシーな香りとコクと深みて汗をかきながら美味しく頂き癖になりそうな味である。
羅漢渓谷の小瀬川沿いにあるカフェテラス北山の駐車場脇に見たことが無いような石像2体がみられた。両石像共に杓子を持っているのでネットで調べてみると他地方でこのような像が田の神として祀られているようであり片方はスリコギを持っているようである。
当地域では見たことが無い像であり石質も当地方で産出するものではないので他地域から移設されたのではなかろうか。
飯山地区内に郵便ポスト、掲示板と見たことがない黄色のポストが設置されており、ポストには防災ポストと記されていた。緊急避難するときに所定の用紙に避難先を記してポストに投函するようで、超限界集落地といわれる地に設けられているようである。
飯山地区にある河内神社を参詣したら山鎮神事、世計神事など秋祭りの祭礼が行われたようである。拝殿に架けられている注連縄や神木に巻かれた藁蛇が細い縄で作られており在住者が少なくなって作成が難しくなっているようである。
昨日紹介したこしき峠からかつて針山集落の中心部とされていたところを遠望。針山集落には昭和49年の戸別地図をみると20数軒が居住されていたが、現在は県道119号沿いに4軒の空き家がみられるのみである。かつて画像向うの家は商店を手前の家はバイク店をされており、商店の向う側には中道小学校があったところであったのであるが・・・
中道地区手前にある針山地区の尾根越えに建立されているこしき峠碑で江戸期の地誌に井手として「下こしき」と絵図に「コシキ」地名がみられる。
佐伯町誌などではこのこしき峠に向かう「こしき坂」で、頼山陽が若き日津和野を経て有馬温泉に行くときに『甑坂』「行覚渓雲脚下生 危巌夾水一橋横 登登峡路天将黒 聞断渓童搗紙声」と詠ったとされている。はたして津和野街道からはずれたこのような脇道を通ったのであろうか・・・ また、浜田往還の浜田市旭町の越木坂で詠ったとの説もある。