最初になった唐辛子が真っ赤になりました。辛っそうです。
他のは青いまま収穫し、唐辛子味噌にしました。ご飯が進みそうです。
靖國にお参りして、遊就館を見学。
残暑厳しい日でしたが、多くの方が参拝に来られていました。
遊就館は2度目でしたが、いつ来ても日本人として考えさせられることが多く、特に太平洋戦争の展示は心に響きます。館内撮影禁止ですが、戦後65年が経ち戦争が風化してしまいそうな時代なので、広く伝えていく上でも、一般の撮影を許可すべきではないかと思いました。
タモリ倶楽部やブラタモリで東京の今昔が密かに(?)話題です。大東京漫画地図と東京から日がえり1-2泊旅行鳥瞰図のついた本書も、たんなる観光案内ではなく、明治から昭和初期の東京の暮らし、風俗を紹介しています。
丸の内も上野も渋谷も新宿も、当時はほとんど平地で100年で面影もなくなってしまってて、ビックリだしでも勿体ない感じもしますね。
明日は8月最後の日曜だし、靖國でも行こうと思ってます。
名古屋大工学部で元助教授にして小説家の森博嗣氏の、科学的思考力、文系・理系の違いについて考える著書。
自分のような理系人間には「そうそう!」という内容。本著の主旨でもあるのですが、世の中の人達を「文系」「理系」に分けてしまうのはあまりにも乱暴で、そこは数学や物理の嫌いな官僚や教育者が作った教育システムの弊害なのだと思う。実際、技術が好きな文系の人もいるし、文学な好きなエンジニアだってたくさんいる。ただ、著者が言うように、『文系の人が「理系の人間は変わっている」と思っているほど、理系の人は「文系の人間は変わっている」とは考えない。』と言うのは感じます(理系人間が変わりすぎなのかもしれませんが...)。
著者の思いは、(ちょっと偏っているとは思いますが)そんな科学離れの思考停止の社会のままでは、国家として良くないと言うもの。
確かに、過程よりも結論、裏付けよりも感情論ばかりの世論、報道においては、国民の思考は停止していて、結果、政府やメディアに振り回されてしまいます。
とは言え、今から国民総科学者なんて無理だし、今さら微積分を解いたってなんの意味もありません。著者は科学的であるためにまず身近なところから始めようと説いています。物事を疑うこと。割り切っているという自覚を持つこと。面倒なことに慣れること。
本著の締めくくりにもあるように、『科学は発展しすぎた、科学が環境を破壊し、人間は本当の幸せを見失っている、という指摘はよく聞かれるところである。しかし、この場合の「科学」とは、そのまま「社会」や「経済」と言い換えてもほぼ同じ意味であり、単に諷刺的姿勢で、警告を発している気になっているだけの物言いである。』核兵器や原発事故だけを取り上げ、核技術が全て悪だと言うのはナンセンスであり、そうなると思考が停止し、極論では包丁や花火だってNO!となってします。
要が、何事にもリスクがあり、それを誰が負い、どれくらい許容できるかを広く開示し議論すべきだと思います。そしてそのために科学は必要であり、リスクを減らせるのもまた科学なのです。
江戸総鎮守、東京の守り神の神田明神へ。元々730年に大手町の将門塚あありにあったそうですが、江戸時代に幕府によって、平将門公を祀る神社として、今の場所に移されたのだそうです。
さっきの湯島聖堂と違いきらびやかな感じで、庶民に愛されている下町の風情です。
残念ながら、今年5月の神田祭は震災のため中止になったそうですが、例年は周辺一帯を神輿が練り歩く大きなお祭りだそうです。
ちなみに銭形平次の碑もありました。発起人フジテレビ、関西テレビ他。
徳川綱吉によって建立された湯島聖堂に来てみました。儒教を広めるために学問所も一緒に建立され、江戸時代の教育の場所だったとのこと。孔子を祀る大成殿は江戸の大火事や関東大震災で何度も建て直され、現在の建物は昭和10年に造られたコンクリート製とのこと。学問成就の施設として知られるそうですが、さすがに受験生らしき人はいませんでした。