日本のスポーツ界では
- ヘトヘトになり動けなくなるまでの練習
に耐えたら立派、というホトホト困り果てた常識が闊歩しクタクタ、フラフラで、思考力がなくても、なおかつ練習を続け、もともとなかった「根性」なるものを身につけさせたい、らしい(笑)。
- そんな練習をしても効果がなさそうなのに、なぜ極限状態でも練習が必要なのか ←考えたことがない?
- そんな練習で、その道の技術向上や精神の鍛錬に役立つか ←前の担当者もそうだった?
- 手っとり早く、そのあたりを走り回るのがすべての分野での基礎体力向上に必須か ←指導者として考えるヒマがない?
練習にかける時間の目標を達成するのではなく
- 技術力を高めること
- どうすれば集中力をあげられるか
- 敵は相手ではなく、むしろ自分自身にある
こういう積み重ねのほうが、もっともっと大切だと思われますが、そうできないところに、日本特有の問題が潜んでいるようです。
日本人の考えも、少しずつ変りつつありますが、まだまだ多くみられるこの手法についての私の考えです。
幼児期の教育
- 親の考えを一方的に詰め込む「しつけ」
大切とも言えますが、子供が外でみんなと異なる言動を見せた場合に、「社会が親を非難する風潮」があり、これに対する親の防御反応・保身行動と言え、別名は「しつけ」とも。
↑ 何も「しつけ」のすべてを否定しているわけではありませんが。
「うちの子供は他人と変ってはいません。みんなと一緒です。」
↑ これが日本の親の矜恃〔きょうじ:自負〕。
ここでは、子供の「人間としての自立心・自尊心・社会性」は低く扱われます。
- 「自分の子供の言動は正しいのに、他の子供と異なるというだけで社会的な非難を受けた」場合に、これとは闘わず子供のほうを叱責したがる。
- 「社会的イジメ」をそのまま許容して、子供に「しつけ」と称する圧力を課すことで親としての社会的な責任を逃れようとする。いわば「問題すり替え」。
こういう妙な圧力のもとで過ごした子供が将来どのように育つかを考えるのは、興味深いことです。
子供は「親が自分自身の生き方と異なる生き方を子供に強要している」ことなど、すでに見破っているのですが、知らないのは親だけという珍現象(笑)。
- 「子供の自立」の優先度は相当低い
そんな親の思い通りに親や世間の圧力下で過ごした子供が、はたして長じて立派な人間になるかですが、現実はどうか。
周辺との付き合いが減り、近所同士でのしつけがなくなり、親からまるで奴隷のように一挙一動を指示・支配された子供たちが、自分の思考力・社会性を失ったまま育ち、長じて知らず知らず犯罪に走るようになったのでは、と考えるとどうか。
その後の学校教育
- 今度は学校教育によるしめつけ
家庭内教育に失敗した親が、学校教育へ責任をなすりつけることがあり、無責任なことに「うちの子供を徹底的に教育し直してください」などと泣きつくこともあるらしい。
日本では、不良化防止のためと称して、こうしてヘトヘトになるまでスポーツで鍛えるという風習が定着しました。ようやく今回の主題が出てきたようです(笑)。
- 序列を守らせる教育
- 田中将大と斎藤佑樹
- 今度は企業の教育が待ち受けている
高等教育には期待しておらず、社内教育に総てをかけている、というと聞こえがいいのですが、企業内教育によって、妙な社風にすっかり染まってしまう危険があります。
ただし企業の存在価値が問われている現在、人間が本来の創造力を発揮せねばならないよう変質しつつあるようです。どんな悪条件下でも、必死でがんばっている人がいるのは、すがすがしいもの。
親の手のうちにある間はつかず離れずの関係を維持していますが、そこから離れた頃から自分で考えて行動しなければなりません。この時、今までの反動で何をしでかすか分らない人間が増えてしまい、むしろ犯罪が増えたとしたら、つらいですね。せっかく親が子供を「友だち」のように育てて仲良くしてきたつもりなのに、妙な「しつけ」を押しつけたため、子が親を馬鹿にしているなど、まるで親自身の子供時代そっくり!
総合判断
- 幼児期から自立心を
- その為には、家庭内での教育が大切
親(つまりは日本人そのもの)がより進化しなければなりません。日本人の「和を重んじる」という特長を失うことなく、「自立」する子供を育てるには、何が必要なのか、どうすればいいのか、答えのない試みがどうしても必要なのです。
プロの世界(野球やサッカー)のコーチたちも変りつつあります。ただし指導者達が、自分の色に染まるよう「一方的に指導」してきたのを、いきなり「相談待ち(相談があれば乗る)」方式へ変えるだけでは難しい。相手は千差万別の人間ゆえ、技量に優れたコーチというだけではつとまらず、専門分野ごとに充実したカウンセリング技量が要求されるでしょう。一言でいえば集団的な自立を目指した育成教育でしょうか。
「和」を強調しすぎて、「自立心」が芽生えないままだと「むしろ安全を求めているけれども、危険を選択してしまっている」のではないか、と恐(怖)れています。
結論などない問題でしたが、何らかの問題提起となったならば、さいわいでごぜ~ますだ(笑)。