カンムリワシ、ワシは名ばかり、言うばかり

20年前探せばカンムリワシがいて、10年前そこにはカラスがいて、いま両方ともいません。よって最近ではそれ以外の話題に。

ヘトヘトになるまで練習

2015年06月24日 06時20分04秒 | スポーツ

日本のスポーツ界では

  • ヘトヘトになり動けなくなるまでの練習

に耐えたら立派、というホトホト困り果てた常識が闊歩しクタクタ、フラフラで、思考力がなくても、なおかつ練習を続け、もともとなかった「根性」なるものを身につけさせたい、らしい(笑)。

  • そんな練習をしても効果がなさそうなのに、なぜ極限状態でも練習が必要なのか ←考えたことがない?
  • そんな練習で、その道の技術向上や精神の鍛錬に役立つか ←前の担当者もそうだった?
  • 手っとり早く、そのあたりを走り回るのがすべての分野での基礎体力向上に必須か ←指導者として考えるヒマがない?

練習にかける時間の目標を達成するのではなく

  • 技術力を高めること
  • どうすれば集中力をあげられるか
  • 敵は相手ではなく、むしろ自分自身にある

こういう積み重ねのほうが、もっともっと大切だと思われますが、そうできないところに、日本特有の問題が潜んでいるようです。

日本人の考えも、少しずつ変りつつありますが、まだまだ多くみられるこの手法についての私の考えです。


幼児期の教育

  • 親の考えを一方的に詰め込む「しつけ」

大切とも言えますが、子供が外でみんなと異なる言動を見せた場合に、「社会が親を非難する風潮」があり、これに対する親の防御反応・保身行動と言え、別名は「しつけ」とも。

↑ 何も「しつけ」のすべてを否定しているわけではありませんが。

「うちの子供は他人と変ってはいません。みんなと一緒です。」

↑ これが日本の親の矜恃〔きょうじ:自負〕。

ここでは、子供の「人間としての自立心・自尊心・社会性」は低く扱われます。

    1. 「自分の子供の言動は正しいのに、他の子供と異なるというだけで社会的な非難を受けた」場合に、これとは闘わず子供のほうを叱責したがる。
    2. 「社会的イジメ」をそのまま許容して、子供に「しつけ」と称する圧力を課すことで親としての社会的な責任を逃れようとする。いわば「問題すり替え」。

こういう妙な圧力のもとで過ごした子供が将来どのように育つかを考えるのは、興味深いことです。

子供は「親が自分自身の生き方と異なる生き方を子供に強要している」ことなど、すでに見破っているのですが、知らないのは親だけという珍現象(笑)。

  • 「子供の自立」の優先度は相当低い

そんな親の思い通りに親や世間の圧力下で過ごした子供が、はたして長じて立派な人間になるかですが、現実はどうか。

周辺との付き合いが減り、近所同士でのしつけがなくなり、親からまるで奴隷のように一挙一動を指示・支配された子供たちが、自分の思考力・社会性を失ったまま育ち、長じて知らず知らず犯罪に走るようになったのでは、と考えるとどうか。

その後の学校教育 

  • 今度は学校教育によるしめつけ 

家庭内教育に失敗した親が、学校教育へ責任をなすりつけることがあり、無責任なことに「うちの子供を徹底的に教育し直してください」などと泣きつくこともあるらしい。

日本では、不良化防止のためと称して、こうしてヘトヘトになるまでスポーツで鍛えるという風習が定着しました。ようやく今回の主題が出てきたようです(笑)。

  • 序列を守らせる教育
ついでに妙な上下関係をもたたき込み、これがしばしば行き過ぎた暴力事件を生み、傷害事件・対外試合の自粛へと発展します。
朝鮮半島ほどではなくても、日本には序列を守らせることから発生する「イジメ」が存在します。
すべての人がそうだとは思いませんが、「責任ある立場の人が、自分の責任を全うするために用いると思われるこの序列洗脳」が、若者の間で「絶対的な上下関係」を作りあげ、組織的な暴力事件に発展するのだと分れば、しばらくの間、対外試合を自粛するだけでは、何の解決にもならないのです。PL学園野球部監督の場合

この序列意識には
「小さい組織の中で優れた技量を発揮した子供が、天狗になる」のを避けるために指導者が発明した
という側面があり、多くの人に支持され、指導される側にも徹底して浸透し、場合によって組織的な犯罪を生む温床なのかも知れません。

指導者が「教え子が自分より優れた技量をもつのは許せない」と考えるようになるのは、その指導者が凡庸だからという理由だけではなく、悪質な環境下で禄を食む年数が長い指導者なら誰にでも芽生えてくる、自己保身の技術なのでしょう。そうすると相当、根が深い問題なのか。

これが最高潮に達すると、共産党が「自分より立派な人間を総て粛正・農村送り・死刑に処した」文化大革命や、同国人を問答無用とばかり弾圧した天安門事件のような、中国共産党による大々的な国家犯罪に至ります。
  • 田中将大と斎藤佑樹
ご存じの通り甲子園の高校野球決勝では再試合を含め田中と斎藤の投げ合いが続き、斎藤が栄冠をつかみました。その後斎藤は早稲田大へ進み、田中はプロ野球の楽天へ入団しました。

 今思えば、妙な大学時代の序列という「ぬるま湯」に浸かりながらもそれなりの成績を収めた斎藤と、プロ〔楽天〕入りして野村監督の下で徹底的に技術と意識をたたき上げられた田中との間には、4年間で相当大きな差が生まれていました。
 4年後に斎藤がプロ〔日本ハム〕入りしてから、この差は縮まるどころか、むしろ大きく開いてしまい、今〔2015年現在〕では斎藤が常に「戦力外の恐怖」と闘い、田中は巨額の年俸を得るほど成長し2014年からMLBヤンキースへ入団しながらも「ケガの恐怖」と闘っております。

同じ「闘い」にもかかわらず、極端な差がでていますが、いったい何が違ったのでしょうか。

ここでは2人の人間性にまで踏み込むことはできませんが、野球に限っていえば、もう誰が見ても明らかなように、若い頃には斎藤に軍配が上がり、長じて田中に軍配が上がっています。この先どうなるかはなんとも言えませんが、本人の実力もさることながら、「教育の質の違い」があったのではないか、と考えてよさそうです。

大学野球でも何かをつかめた人はたくさんいたでしょうが、斎藤の場合、その生ぬるい湯に適応しようとするあまり、奇妙な序列に埋もれてしまったのではないか、とその才能を惜しむのは残酷でしょうか。

社会へ育った人たち
  • 今度は企業の教育が待ち受けている

高等教育には期待しておらず、社内教育に総てをかけている、というと聞こえがいいのですが、企業内教育によって、妙な社風にすっかり染まってしまう危険があります。

ただし企業の存在価値が問われている現在、人間が本来の創造力を発揮せねばならないよう変質しつつあるようです。どんな悪条件下でも、必死でがんばっている人がいるのは、すがすがしいもの。 

親の手のうちにある間はつかず離れずの関係を維持していますが、そこから離れた頃から自分で考えて行動しなければなりません。この時、今までの反動で何をしでかすか分らない人間が増えてしまい、むしろ犯罪が増えたとしたら、つらいですね。せっかく親が子供を「友だち」のように育てて仲良くしてきたつもりなのに、妙な「しつけ」を押しつけたため、子が親を馬鹿にしているなど、まるで親自身の子供時代そっくり

総合判断

  • 幼児期から自立心を
日本の風土では、年齢による序列が大切かも知れないので、見かけ上はそれでいいのですが、幼児期から「自分はどう考えるか」を訓練して、「この時期からある程度、自分と社会」の接点を考える教育をもっともっと大切にすべきではないでしょうか。
  • その為には、家庭内での教育が大切

親(つまりは日本人そのもの)がより進化しなければなりません。日本人の「和を重んじる」という特長を失うことなく、「自立」する子供を育てるには、何が必要なのか、どうすればいいのか、答えのない試みがどうしても必要なのです。

プロの世界(野球やサッカー)のコーチたちも変りつつあります。ただし指導者達が、自分の色に染まるよう「一方的に指導」してきたのを、いきなり「相談待ち(相談があれば乗る)」方式へ変えるだけでは難しい。相手は千差万別の人間ゆえ、技量に優れたコーチというだけではつとまらず、専門分野ごとに充実したカウンセリング技量が要求されるでしょう。一言でいえば集団的な自立を目指した育成教育でしょうか。

「和」を強調しすぎて、「自立心」が芽生えないままだと「むしろ安全を求めているけれども、危険を選択してしまっている」のではないか、と恐(怖)れています。 

結論などない問題でしたが、何らかの問題提起となったならば、さいわいでごぜ~ますだ(笑)。


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