「事件」から20年 天安門広場を離れて--元学生リーダーの思い/毎日新聞 ほか

2009-06-04 08:17:16 | 世界
変革への年代記:第3編 天安門広場を離れて--元学生リーダーの思い/上 ◇成長祖国に望郷の念 完敗認めぬ「トウ氏の子」
 望郷の思いをつづったブログはすぐに中国からアクセスできなくなった。中国の民主化を求める学生らが軍に鎮圧された89年の天安門事件。当時の学生リーダーだったウアルカイシ氏(41)は「開設して24時間もたたなかったのに。よほど嫌われているようだ」と、台北市内のホテルで苦笑いした。「亡命ノート」と名付けたブログで、天安門事件から20年を迎える自身の考えを中国に発信し、反応を聞くつもりだった。

 ウイグル族のウアルカイシ氏は事件当時、北京師範大学の学生だった。学生自治組織の結成に加わり、その代表として民主化要求運動をリードした。当時の学生たちは、後に「天安門世代」と呼ばれた。だが、ウアルカイシ氏は違う言葉で表現する。「トウ小平の子供」だ。

 トウ氏の指導の下、78年に「改革・開放」政策が始まる。平等な分配政策を優先する毛沢東時代の「均富論」から、条件に恵まれた地域や住民が先に豊かになることを認める「先富論」が政策の柱になり、中国社会は変容していった。

 「『改革・開放』で私たちの世代は少年期に変化や進歩を体験し、トウ氏の思考に触れ続けた。トウ氏が私たちのような青年をつくり上げ、天安門広場へと向かわせた」。ウアルカイシ氏は当時の思いをこう説明する。そして89年6月4日を迎えた。

 人民解放軍の戒厳部隊は戦車や装甲車で天安門広場に突入、4日早朝までに占拠していた学生を排除した。広場中心部の学生の排除は整然と行われたとされるが、そこに至るまでに多数の死傷者を出した。「隣にいた男子学生が頭を撃ち抜かれて倒れた光景が、目に焼き付いている」。ウアルカイシ氏は語る。

 中国当局は事件から9日後の同13日、学生リーダー21人を「反革命暴動罪」で指名手配した。その代表格であるウアルカイシ氏については、学生たちの前で演説する映像を中国中央テレビで流した。

 フランスに逃れた。留学先の米国で知り合った台湾人女性と結婚し、96年に台湾に渡った。3年後に台湾籍を取得し、政治評論家として活躍。現在はIT(情報技術)関連の会社を経営する。

 「政治ではあの老人(トウ氏)が勝ち、私たちが敗北した」。ウアルカイシ氏の事件を振り返る言葉だ。だが、完敗とは思っていない。学生を力で封じ込めた中国指導部だったが、民衆の不満を背景に市民社会の空間は広がり、経済の自由化を加速せざるを得なかった。その後に急激な経済成長を遂げた祖国をウアルカイシ氏は台湾でそう見ている。

    ◇

 世界に衝撃を与えた天安門事件から4日で20年となる。当時の学生らが目指した民主化は実現しておらず、貧富の格差拡大など多くの問題を抱えつつも、中国は大国化への道を歩んでいる。元学生リーダーらが20年後の中国にどのような思いを抱いているのかを探った。【台北で庄司哲也】

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変革への年代記:第3編 天安門広場を離れて--元学生リーダーの思い/中
 ◇停滞する民主化要求運動 経済発展と引き換えに
 少年の面ざしを残した男性が声を張り上げる。天安門広場に集まった学生たちの視線を一身に受け、学生リーダーは力いっぱいにこぶしを振り上げた。台北市内で5月24日に開かれた市民団体主催の記者会見。狭い部屋に設置されたスクリーンに、89年の天安門事件に行き着く民主化要求運動の様子が映し出されると、王丹氏(40)は20年前の自分の姿をじっと見つめた。隣に座るウアルカイシ氏(41)は照れくさそうな笑みを浮かべた。

 2人とも何かを追い求めるような、まっすぐな視線は変わらない。しかし、ふっくらとしたほお、落ち着いた所作に、20年の歳月が重なる。「天安門広場では私の右側にウアルカイシがいた。今も右側に彼がいる。とても感慨深い」。王氏はそう語った。「20年来、我々は民主の願いを追求してきた。時間がたち、擦り減ってしまったような感じは特にない」と振り返った。

 王氏は天安門事件後、2度にわたり投獄されたが、98年4月に病気治療名目で釈放され、渡米した。この年の6月に当時のクリントン米大統領が訪中するのを前に、中国側が摩擦回避を狙った措置とも指摘された。昨年、ハーバード大学で東アジア史の博士号を取得。9月から半年間、台湾の大学で中台関係史を講義する予定だ。

 「台湾の政治の発展は中国大陸より20年先行している。(台湾の人々が)中国大陸の民主化を支援する意思があるならば、私の専門を通じて貢献できるはずだ」。王氏はこう意欲を見せた。

 だが、王氏やウアルカイシ氏が追求してきた「民主の願い」は、天安門事件があった89年以降、学生たちによって大規模な運動に発展することがなくなった。土地の強制収用などに抗議する農民らの暴動が地方で多発しているものの、社会の変革を求める動きにはつながっていない。

 「中国共産党は経済や生活の自由を与える代わりに政治的な協力を求め、国民はその取引に応じてしまった」。90年代以降の急速な経済発展の中で民主化要求運動が停滞している状況を、ウアルカイシ氏はこう分析する。

 事件直後、中国に厳しい態度を取った欧米諸国も、中国市場への参入を犠牲にするような批判は控えるようになった。昨夏には中国の大国化を象徴するように北京五輪が開催され、開会式には主要国首脳が顔をそろえた。

 「開会式は見なかった。見れば複雑な気持ちになる。私も中国の20年間の変化は称賛に値すると思う」とウアルカイシ氏は率直に認めた。その上でこう付け加えた。「国民の監視や不公正なシステムなど中国にはまだ問題点が多い。国際社会は利益と引き換えに態度を変えるべきではない」【台北・大谷麻由美、庄司哲也】

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変革への年代記:第3編 天安門広場を離れて--元学生リーダーの思い/下
 ◇20年後の批判 犠牲者へ消えぬ罪悪感
 「20年たっても、中国を支配していた当時の指導者の示した残忍さが思い出される。中国で生きる人々に代わって、わが祖国に自由を与えるよう中国政府に呼びかけたい」。89年の天安門事件で女性リーダーとして注目された柴玲氏(43)が14年ぶりに事件に関する声明を香港の人権団体を通じて発表した。

 柴氏は事件後、大陸に10カ月間潜伏し、約200人の協力を得て香港からパリに逃れた。今は米国人の夫とインターネット関連企業を米国で経営する。民主化運動からは距離を置いてきた。

 今年4月、香港大学で開かれた天安門事件に関するフォーラムで、ある学生が「柴氏は逃げ出したリーダーで、他人の血で運動を終結させたと言われている」と発言した。事件後、柴氏に対して繰り返された批判の言葉を投げかけたのだ。

 学生リーダーの一人だった王丹氏(40)はすぐに反論の書簡を香港メディアなどに公開した。「柴玲に関しては不公平な評価がつきまとってきた。20年後にまた、彼女の弁護をしなければならない」と嘆き、「柴玲が天安門広場を離れる際も皆の中で最後だったことはビデオでも学生たちの証言でも証明されている」と強調した。

 中国国内では今、NGO(非政府組織)や人権派弁護士など20年前には存在しなかった民主の担い手が登場している。ウアルカイシ氏は「草の根レベルの民主は発展している。こうした無名の人々こそが民主化の主役であり、我々はもう脇役に過ぎない」と語る。

 一方、民主化を求める海外組織は路線の違いによる分裂や資金不足などの問題に直面している。事件当時の学生リーダーへの視線も厳しくなりがちだ。ウアルカイシ氏が3日、中国当局への出頭目的でマカオ入りしたのも、民主化運動の閉塞(へいそく)状況を打破する狙いがあったとみられる。

 今も重くのしかかる天安門事件の現実。ウアルカイシ氏がこんなエピソードを披露してくれた。99年春に初めて台湾を訪れた王氏が、自宅に泊まりにきた。夜通し語り合うなか、北京のある女性に電話を入れた。天安門事件で一人息子(当時17歳)を失った丁子霖さん(72)だ。丁さんは同じような境遇の女性とともに「天安門の母」という組織を結成し、指導部に事件の真相究明を求めている。

 「3人とも話しながら涙が止まらなかった」。武力鎮圧した指導部への怒りは消えないが、一方で自らが中心的な役割を果たした運動の中で多くの学生や市民が犠牲となったことに罪悪感も残る。王氏と語り合う時、この話題は避けて通れないという。ウアルカイシ氏がこう漏らした。「2人の『船長』が生き残ってしまった。この事実には一生苦しめられるのだろう」【台北・大谷麻由美、庄司哲也】

http://mainichi.jp/select/world/news/20090604ddm007030042000c.html

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中国:ウアルカイシ氏、マカオに出頭…天安門事件リーダー
【台北・大谷麻由美】89年6月4日に起きた天安門事件当時の学生リーダーで、中国当局から指名手配されていた台湾在住のウアルカイシ氏(41)は3日、中国当局への出頭を目的に台北から中国特別行政区マカオの空港に到着し、入国管理当局に連行された。民主活動関係者によると、同氏から「入国を拒否され、台湾への送還を通告された」との電話があったという。

 ウアルカイシ氏は事前に台湾の民主活動家に託した声明で「20年前の行為を違法だと認めたわけではない」と強調。「出頭という方法で帰国する手段を選んだ」と述べた。天安門事件から20年がたつなか、出頭には事件への関心を集める狙いがあるとみられる。

 声明は、中国が帰国を希望する元学生リーダーの入国を認めていない点について「国民の権利を保障する法律に合致していない」と批判。今後は法廷で、天安門事件での中国政府の責任を追及していく考えを明らかにした。中国政府が天安門事件に関与したとして指名手配している21人のうち、亡命生活を送っているのは14人。帰国しようとしたのはウアルカイシ氏が初めて。

http://mainichi.jp/select/world/asia/news/20090604k0000m030113000c.html
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天安門事件の民主化運動リーダー、マカオで入境拒否
【台北=野嶋剛】89年の天安門事件当時、民主化運動を中心的に担った台湾在住の元学生リーダー、ウアルカイシさん(41)が3日、「中国政府に出頭するため」として中国の特別行政区であるマカオに入ろうと試み、当局に拒否されたことが分かった。同日深夜時点でマカオ空港に留め置かれている。

 ウアルカイシさんは中国のウイグル族で事件当時、北京師範大の学生だった。事件直後にフランスに亡命。台湾人女性と結婚して台湾に定住し、米国系企業に勤務。中国の民主化について発言を続けてきた。中国当局からは指名手配されている。

 ウアルカイシさんは、3日夜に台北で天安門事件追悼イベントに主賓として参加する予定だった。ところが「私はマカオに行き、中国政府のマカオ事務所に出頭することを決めた」「20年間家族に会えていない。出頭という方法で帰省を勝ちとる。出頭は20年前の行為が間違っていたと認めるものでは絶対にない」というメールを複数の知人あてに送り、同日午後の便で台北からマカオに向かった。

 マカオ空港でウアルカイシさんは朝日新聞の電話取材に対し「私は台湾の旅券を持っており、マカオに入る権利がある。マカオ当局は台湾に送還すると言っているが私は拒否している。私の身柄を北京へ送るよう要求している」と話した。
http://www.asahi.com/international/update/0604/TKY200906040001.html

ウアルカイシ氏の処遇を懸念 在米の元中国学生指導者
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クローズアップ2009:天安門事件20年 再評価、封じ込め
<世の中ナビ NEWS NAVIGATOR>

 中国の民主化を求める学生らを軍が武力鎮圧した89年の天安門事件から4日で丸20年。事件後に市場経済化を加速させた中国は、大国としての地位を築きつつあるが、政治改革の停滞で貧富の格差拡大や汚職に対する不満も高まっている。こうした中、事件で失脚した趙紫陽・元共産党総書記の回顧録が香港などで出版された。事件の再評価をめぐる議論が高まれば共産党の求心力低下につながるのは確実で、中国指導部は影響を食い止めることに躍起になっている。【北京・浦松丈二、台北・大谷麻由美、鵜塚健】

 ◇趙氏回顧録、影響を警戒 当局「騒ぎ」扱い
 05年1月に死去した趙氏の回顧録「改革の歴程」(英語版タイトルは「国家の囚人」)は、軟禁状態にあった00年ごろに口述した内容を親しい友人たちが録音したテープが基になっている。約30時間にわたる録音テープは秘密裏に国外に運び出され、最初に英文翻訳で出版された。趙氏の政治秘書を務めた鮑〓(ほうとう)氏は「中国当局による妨害を避けるためだった」と外国メディアに語った。

 回顧録の中で趙氏は、学生との対話の機会や汚職の調査チームをつくろうとしたが「李鵬(首相、当時)とその仲間に阻止された」と悔しさをにじませる。また、最高実力者であるトウ小平氏の自宅で趙氏が強硬方針の撤回を求めたものの、戒厳令の布告が決まったことを明らかにしている。

 「上層部は回顧録が内外に与える影響を非常に心配している」。中国政府系シンクタンクの研究者は最近、回顧録の影響を分析し、上層部に報告するよう命じられた。特に、回顧録の基となった趙氏の肉声がインターネット上に流れたことが懸念されているという。

 中国当局は事件20年を前に趙氏の肉声や関連記事を掲載した海外メディアのホームページに国内からアクセスできないよう規制。海外メディアの取材対象になりそうな元活動家らを拘束するなど情報統制を強化している。

 中国政府は天安門事件について2日、「党・政府は早くに明確な結論を出している」(秦剛・外務省副報道局長)と改めて強調した。事件後、刺激を避けるように「政治風波(騒ぎ)」との表現を多用し、発生当時の「動乱」を使うことは少なくなったが、学生のデモを再評価する動きは出ていない。

 武力鎮圧についても「(混乱を避けることで)中国経済は大きな発展を遂げた。この事実は『特色ある社会主義の道』が中国の国情と幅広い国民の根本利益に合致することを証明している」(秦氏)と正当化する。

 事件で海外に亡命した民主活動家が帰国を希望していることにも逮捕を含む厳しい対応で臨む方針だ。ただ、事件当時の学生リーダーだったウアルカイシ氏が3日、中国当局への出頭を目的にマカオ入りしたことについて中国当局は沈黙を保っている。この問題でさらに国内外から天安門事件に対する関心が高まることを警戒していることは確実だ。風化が指摘されるものの、天安門事件は今も中国指導部にとって重い足かせとなっている。

 ◇国際社会、弱まる人権批判
 天安門事件の直後、国際社会は中国政府に対し、厳しい対応を見せた。米国は対中武器禁輸などの経済制裁に踏み切り、西欧諸国も追随。1カ月後のG7主要国首脳会議(仏アルシュ・サミット)では、中国政府を強く非難する政治宣言を採択した。日本は対中円借款協議を一時凍結。しかし、中国政府が翌90年、民主化運動の政治犯を段階的に釈放すると、協議再開で合意し、いち早く姿勢を転換した。

 中国は人権問題を政治的な取引にも使ってきた。事件当時の学生リーダー、王丹氏は2度投獄されたが、98年のクリントン米大統領の訪中前に釈放され、米国に出国。昨年は、政権転覆扇動罪で実刑判決を受けた市民活動家の胡佳氏に、欧州議会が人権賞(サハロフ賞)を授与するなど中国と国際社会の人権認識には依然ずれがみられる。昨年3月に起きたチベット自治区での暴動も武力鎮圧され、抗議のために北京五輪聖火リレーを妨害する行為が世界で起きた。

 ただ欧米諸国が、経済成長で存在感を増す中国との関係悪化を懸念する側面が強いのも事実だ。五輪のボイコットは最小限にとどまるなど、人権問題での批判が弱まる傾向も見られる。

 ◇趙氏「悲劇回避できず」
 趙氏の回顧録に沿って天安門事件の流れを追った。

 「学生運動は胡耀邦氏の追悼から始まった」

 民主化に積極的だった胡耀邦前総書記(当時)が89年4月15日に死去。北京の大学生たちの追悼活動は民主化要求デモに発展していった。4月26日付党機関紙「人民日報」はデモを「動乱」と位置づける社説を掲載した。

 「社説の以前と以後とでは状況が変わった。社説が転換点だった」

 デモは過激化していった。最高実力者、トウ小平氏の自宅で5月17日、党政治局常務委員ら最高幹部を集めた会議が開かれた。戒厳令を求める楊尚昆国家主席(当時)に反対し、趙氏は社説の撤回を求める。

 「外国メディアでは戒厳令に(常務委員5人のうち)賛成3、反対2という報道があるが、そんな問題は無かった。立場で言えば賛否が2対2で中立1だが、実際は正式な表決はなかった」

 トウ氏は表決することなく戒厳令を決定。6月3日夜、中国軍による鎮圧が始まった。

 「家族と庭で涼んでいたら、銃声が聞こえてきた。世界を震撼(しんかん)させる悲劇は回避できず、ついに起きてしまった」

 趙氏は失脚後、自宅で軟禁状態に置かれた。政治改革についての思いも募った。

 「一つの国家が現代化を実現するには、議会民主制という政治制度を必ず実行しなければならない。さもなければ、その国の市場経済は健康的なものにならない」

http://mainichi.jp/select/opinion/closeup/news/20090604ddm003030111000c.html
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社説:天安門事件20年 民主も人権も道はるか/毎日新聞
http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20090604k0000m070158000c.html

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