マララ・ユスフザイさん。ノーベル平和賞受賞 会見・全文

2014-10-11 20:59:31 | 世界
 価値あるノーベル平和賞受賞者に選ばれて名誉に思います。この賞を受ける初めてのパキスタン人、初めての若者であることを誇りに思います。

 インドのカイラシュ・サティヤルティさんとともに受賞できて、本当に幸せです。

 子どもの権利のために、児童労働や虐待と闘う素晴らしい仕事に心を動かされます。

 子どもの権利のために、とてもたくさんの人が取り組んでいることをとても幸せに思います。私は一人ではありません。彼は本当にこの賞にふさわしい方です。

 彼とこの賞を分かち合うことができて、光栄に思います。

 私たちは2人ともがノーベル平和賞の受賞者です。一人はパキスタン、もう一人はインドの出身。一人はヒンドゥー教、もう一人はイスラム教をあつく信仰しています。これはパキスタンとインド、そして異なる宗教の間にいる人々に愛のメッセージを与えてくれます。そして私たちはお互いに支持し合っています。

 肌の色や話す言語、信仰する宗教が何かではなく、人間同士、互いに尊敬することが重要なのです。

 そして子どもや女性、すべての人々の権利のために闘うべきなのです。

 まずはじめに私の家族、大切な父や母の愛情や支援に感謝したいと思います。父がいつも言うように、何か特別なことをしてくれたわけではありませんが、父がしたことは私の翼を切らないということです。

 ありがたいことに父は翼を切るのではなく、羽ばたかせ、目標を達成させてくれました。そうやって、女の子が奴隷でなく、人生を突き進む力を持っていることを世界に示しました。

 女性は母親や姉妹、そして妻であるだけではありません。アイデンティティーを持ち、評価されるべきです。男の子と同じだけの権利を持っているのだということも。

 たとえ、私の兄弟たちが「マララはとてもよく扱われているのに自分たちはそうではない」と思ったとしても、それで良いんだ!

 私がどうやってノーベル平和賞(受賞)を知ったか、話したいと思います。かなりドキドキします。

 化学の授業で電気分解の勉強をしていたんです。ちょうど10時15分のこと。ノーベル平和賞の発表はもう終わっていました。自分が受賞するとは考えていませんでした。10時15分にもなっていたので受賞しなかったと確信していたのです。

 すると突然、先生が教室に入ってきて私を呼び、「重要なことを伝えたい」というのです。本当にびっくりしました。先生は「ノーベル平和賞おめでとう。子どもの権利のために働いている偉大な人と一緒よ」と言ってくれたんです。

 たまに感情を表現するのが難しい時があります。でも、私は本当に名誉に思いました。より力強く、勇気を感じました。この賞は身に着けたり、部屋に置いたりするだけの金属片ではありません。私が歩みを進め、自らを信じ、支援してくれる人々がいて団結していることを知るための励みとなるのです。私たちはすべての子どもたちが良質な教育を確実に受けられるようにしたいと願っています。それ故に、今回の受賞は私にとって本当に素晴らしいことなのです。

 ノーベル平和賞を受賞したと知ったものの、学校に居続けて授業を終えよう、物理のクラスに行こうと決めました。英語の授業に行き、勉強しました。普段通りの一日でした。先生方や同級生たちみんなが私の受賞を喜んでくれて、本当に幸せでした。学校や先生方、同級生たちに心から感謝しています。私を励まし、支えてくれます。私は本当に幸せです。

 ノーベル平和賞をとったからといって、試験の役には立たないでしょうね。自分のがんばり次第ですから。それでも、私はみんなが支えてくれるということがとてもうれしいのです。

 受賞したことでおしまいではありません。私が始めた活動の到達点ではなく、始まりに過ぎないと思います。すべての子どもたちに学校へ行ってほしい。いまだに5700万人もの子供たちが教育を受けられず、小学校にすら通えていません。すべての子どもたちに学校へ行って、教育を受けられるようになってほしい。

 私自身、(パキスタンの)スワート渓谷で同じ境遇にいました。ご存じの通り、そこはタリバーンの支配下にあり、学校に行くことが許されていませんでした。当時、私は自分の権利のために立ち上がり、声を上げると言いました。ほかの誰かを待つことはしませんでした。

 私には二つの選択肢がありました。一つは声を上げずに、殺されるのを待つこと。もう一つは声を上げ、そして殺されること。私は二つ目を選びました。当時はテロの恐怖があり、女性は家の外に出ることが許されず、教育は完全に禁じられ、そして人々は殺されていたわけです。学校に戻りたいがために、私は声を上げる必要があったのです。自分もまた、教育を受けられなかった女の子の一人でした。学びたかった。勉強して、将来の夢を実現したかった。

 普通の子どもと同じように、夢がありました。あのころ、私は医者になりたいと思っていました。今は政治家になりたい。良い政治家に。

 学校に行けないと聞き、もう医者になれることはないと思いました。将来、こうなりたいと思うような人物に決してなれないということです。きっと13、14歳で結婚するような人生を送るんだろうなって。学校に行かず、本当にやりたい仕事ができない。それならば、と声を上げる決心をしました。

 自分のことを伝えることで、世界中の子供たちに、自分たちの権利のために立ち上がろうと呼びかけたかった。他人が行動するのを待っていてはいけない。子どもたちの声はずっと力強い。子どもは弱者かもしれない。でも、だれも何も言わない時に声を上げれば、みんなの耳に届くほど、大きく響かせることができるのです。誰もが耳を貸さなければいけない。だから世界中の子どもたちに言いたい。自分たちの権利のために立ち上がりましょう。

 私がいただいたこのノーベル平和賞ですが、ノーベル委員会が私にだけ与えたわけではないはずです。伝えるべきことがありながら、声を上げられない子どもたち、すべてに授けられた賞なのです。私は彼らのために語り、彼らとともに立ち上がり、自分たちの思いを伝えようという彼らの運動に加わります。子どもたちの声に耳を傾けなければいけない。子どもたちには権利があるのです。良質な教育を受ける権利や児童労働から逃れ、人身売買の被害にあわないですむ権利。そして、幸せな人生を過ごす権利があるのです。だから私はこれらの子どもたちに寄り添う。今回の賞はまさに彼らのためのもの。子どもたちの勇気に与えてくれたのです。

 最後に、尊敬するカイラシュさんと電話で話したことをお伝えします。名字をきちんと発音できなくてごめんなさい。カイラシュさんとだけ呼んでもいいでしょうか。

 つい先ほど彼と電話で、全ての子どもが学校に通い、良質な教育を受けることの大切さについて話しました。また、どれほどたくさんの災いが世間から知られないまま、子どもたちに及んでいるかについてもです。子どもたちが良質な教育を受け、これらの被害にあわなくてもすむよう、2人で一緒に行動しようと決めました。

 ほかにも、カイラシュさんがインド出身、そして私がパキスタン出身ということで、両国の強い関係を築き上げようとも決めました。ご存じの通り、両国の国境は緊迫し、状況は私たちが望まない方向へと進んでいます。インド、パキスタンの関係が良好であってほしい。緊張状態にあるのは本当に残念です。「対話をし、和平について語り合い、進歩し、開発を進めることを考えてほしい」、なんてことを思わないといけないなんて本当に悲しい状況です。どちらの国も戦いではなく、教育や開発、発展に取り組むことが重要です。それがお互いにとって良いことなのですから。

 だから2人で決めました。カイラシュさんには尊敬するインドのモディ首相に12月のノーベル平和賞授賞式に出席するようお願いしていただきます。そして、私も尊敬するパキスタンのシャリフ首相に出席をお願いすると約束しました。

 私からも両首相に、ぜひ参加するようお願いします。心から平和を信じています。寛容と忍耐を本気で信じています。両国が発展するためには平和で良好な関係にあることがとても重要なのです。謹んでお願いします。どうか、お二人が聞き届けてくれますように。

 皆様の支援に心から感謝しています。自分はまだノーベル賞に値しないと言ってきました。今もまだそう信じています。

 これまでやってきた活動に対するご褒美ではありません。これからも継続できるようにと私を勇気づけるための賞なのでしょう。自らを信じ、自分がひとりぼっちではなく、数百、数千そして数百万人もが支えてくれると知るための。

 いま一度、みなさまにお礼を申し上げます。

よろしければ、下のマークをクリックして!


よろしければ、もう一回!
人気<strong></strong>ブログランキングへ

コメント (1)   この記事についてブログを書く
« 10月10日(金)のつぶやき その... | トップ | 10月11日(土)のつぶやき その1 »
最近の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
真善美の探究 (Unknown)
2014-10-12 20:19:27
【真理と自然観】

《真理》

結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居らず, この世界・感覚・魂の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》

目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を再び具現させる基盤としての目的経路の原因・因子が再び具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。志向は複数あり意識中にある凡ゆる感覚的対象に支配される。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でも因子の具現に対応した感覚的対象(条件)がない場合はこの志向は生じない。但し意識を介さず機構に直接作用する物が存在する場合もある。


《生命観》

『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

『再具現性を与える機構としての己と具現の方向を決定する志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』


生命は過去の意識の有り様を何らかの形に変換し保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して再具現の機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。


*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され, その志向が再具現の機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。

『志向(作用)→肉体・機構』



然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)



【世界創造の真実】

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。

愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。

しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」

神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。



【真善美】

真は空(真の形)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。


善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。

△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)

千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。


美は活活とした生命の在り方。

『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』

予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互してこれを成し遂げようとする生命の在り方。




コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

世界」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事