窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

御所ヶ谷神籠石の謎③

2012年02月09日 | 史跡めぐり


  さて、依然として疑問なのは、なぜ御所ヶ谷神籠石があの場所にあったのかという事です。まず、海からの来襲に対する備えとしては不合理な位置にあるということは前述しました。上の写真は中門から少し東門の方に上ったところから京都(みやこ)平野を見下ろした景色ですが、ここにかつて官道が通っていたということなので、その防備のためということもあるかもしれません。しかし、地形を見る限り(下写真)、ここがそれほどの要衝であるとも思えません。



  時間の都合で行けませんでしたが、御所ヶ谷神籠石の西に採銅所という地名があります。その名の通り、かつてここでは銅を産出したそうです。記録によると、養老4年(720年)、宇佐神宮の放生会に奉納する御神鏡をここで採れた銅で鋳造したそうです。しかし、恐らく銅そのものはそれより以前から産出していたのではないかと思われます。金・銀・銅・鉄は古代において経済的も軍事的にも極めて重要な戦略物資です。ひょっとすると御所ヶ谷神籠石とは、銅山の防衛を目的としていたのかもしれません。

  ここでまた仮説を立てます。養老4年というのは元正天皇の治世です。元正天皇は天武天皇の息子である草壁皇子と天智天皇の娘、元明天皇の娘です。この年、国史『日本書紀』が完成しています。701年、対馬より金が献上され、それによって元号が大宝と改められました。この時の天皇は文武天皇でやはり草壁皇子の長子です。いずれも天武天皇の系譜になる天皇の治世に対馬からは金が献上され、宇佐神宮奉納のために銅鏡が鋳造されています。

  ここでふと思ったのが、「天智天皇と天武天皇は兄弟ではないのではないか」という説です。一説には天武天皇は天智天皇より年上だったという話もあります。ひょっとして、大海人皇子(天武天皇)は元々九州王権の王族だったのではないでしょうか。唐側の記録によれば、倭国の王の姓は阿毎(あま)氏といったのだそうです。即ち、大海人皇子とは「大いなる阿毎氏の皇子」であることを暗示しているのではないでしょうか。もちろん「阿毎」は唐側の当て字ですので、日本語での意味としては海人(あまと)となります。一方、「やまと」は「山人」かもしれません。もちろん、これは勝手な想像で鵜s。

  白村江の戦いの後、大海人皇子は中大兄皇子のヤマト王権に臣従することになったのだと思います。しかし臣従とはいっても、それは豊臣政権時代の豊臣秀吉と徳川家康の関係と同じで、ヤマト王権にとり九州王権の勢力は依然として侮りがたいものであったと思われます。そうでなければ、なぜ中大兄皇子が4人もの娘を(弟であるはずのところの)大海人皇子に嫁がせたのか説明がつきません。一方、大海人皇子も娘を一人、中大兄皇子に嫁がせています。明らかな政略結婚です。そして天智天皇の死後、壬申の乱(672年)という古代史最大の内乱に勝利し、大海人皇子は天武天皇として即位します。その後、天武天皇の妃である持統天皇と、先ほどの元明天皇(いずれも女帝)を除けば、称徳天皇(孝謙天皇重祚)まで皇統はずっと天武天皇の系譜が続くことになります。

  そのように考えると、708年に武蔵国より銅が献上された時、なぜ和銅と改元されたのかが分かります。この時の天皇は天智系の元明天皇(女帝)です。これまでの仮説によれば、朝廷に献上された金や銅は、決して初めてではなかったはずです。しかし、それらはいずれも九州王権、つまり天武系の勢力圏からもたらされたものであり、ヤマト王権にとって、つまり天智系の元明天皇にとって、武蔵国というヤマト王権の勢力圏から初めて銅が献上されたということが、改元に値する大変な慶事だったのだと思います。

  なお、元明天皇の治世、710年に平城京遷都、712年に『古事記』が完成しています。漢文・編年体で書かれた唐風の史書『日本書紀』は天武系の王朝の視点で編まれたものでした。一方、『古事記』がやまと詞に漢字をあて、よく知られているように稗田阿礼の口伝を記したものででした。これは天智系の元明天皇が、『日本書紀』に対抗するため、従来口伝が主流だったヤマト王権の歴史を記録にとどめさせたかったからではないかと想像します。

<つづく>

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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