沖縄の城巡りとしては、首里城、中城、勝連城、今帰仁城に続く5つ目、読谷村にある座喜味城です。
座喜味城は昨日ご紹介した護佐丸が中城に入る前に居城としたところです。琉球三山時代(1322年頃~1429年)の1416年(1422年という説もあります)、明日ご紹介する山北(北山ともいいます)の今帰仁城を攻略した中山の尚巴志は、山北を監視するため山北と中山の境に位置し、良港を備えた座喜味への築城を護佐丸に命じました。因みに、護佐丸は山北の初代国王である怕尼芝(はにじ)に滅ぼされた先今帰仁按司の曾孫です。山北攻略時、護佐丸は弱冠二十歳でした。
冒頭の写真を見ても分かるように、城が築かれた標高120mの台地は赤土層の脆弱な地盤でしたが、護佐丸はそれまでの居城であった山田城を崩した石材で丘を取り囲み、石積みの工夫によって二つの郭から成る連郭式の城を築き、築城の名手としての名を高めました。
座喜味城は、沖縄の城としては中規模のものです。しかし、脆弱な地盤を克服するため工夫された石積みによる城壁は、東シナ海を背後に美しい曲線を描き、一見の価値があります。護佐丸は1440年に中城に移るまでの18年間座喜味城に居城し、海外交易により第一尚氏を経済的に支えたと言われています。発掘調査では、15世紀~16世紀のものとみられる中国製の青磁と陶器が最も多く出土しており、座喜味城は護佐丸が中城に移った後も使用されていたと考えられています。
座喜味城には一の郭と二の郭にそれぞれ一つずつ、美しいアーチ門が造られています(上写真左)。中に門扉の跡がありましたので、かつては扉があったのでしょう。アーチ門のかみ合う部分には楔石がはめられています(上写真右)が、他の城には類例が見られないそうです。このことから、座喜味城のアーチ門は現存する中で、沖縄最古ものではないかと考えられています。いずれにせよ、座喜味城築城の技術はその後中城でも大いに生かされたことでしょう。
一の郭の北側には、間口16.58m、奥行き14.94mの石組みが発掘されており、この中に建物が建っていたと考えられています。しかし、瓦等が出土していないことから、恐らく建物は板葺か茅葺だったのではないかと推定されています。
生憎の曇り空でしたが、城壁からは首里や那覇、そして東シナ海に浮かぶ慶良間諸島、久米島、伊江島、伊平良諸島が眺望できるそうです。中城同様、やはりここも戦略上極めて重要な要害の地であったことが分かります。
座喜味城跡公園
沖縄県中頭郡読谷村字座喜味708-6
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした