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窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

忍野八海に寄ってきました

2014年07月28日 | 史跡めぐり


  7月26日、富士吉田へ向かう道すがら、有名な忍野八海に寄ってきました。

  忍野八海とは富士山麓の伏流水から湧き出た湧泉群のことで、八海の名は富士講の一環としての湧泉めぐり「八海めぐり」に由来するそうです。国の天然記念物であり、昨年世界遺産に指定された富士山の構成資産のひとつでもあります。



  国道138号線よりずっと下って行ったのですが、大昔この地域は忍野湖という湖だったそうです。それが干上がって盆地となり、残った湧水の出口が忍野八海になります。古くから飲用水、農業用水として利用され、現在も激しく湧き出る清らかな水は名水百選にも選ばれています。



  八つの泉全部をめぐることはできませんでしたが、上の写真は、そのうちの五番霊場に数えられる「涌池」。直径約12m、深さ約5mの円錐状の泉で、平均水温13度の水が毎秒2.2㎥湧き出ています。直視深度は3m、光の影響でコバルトブルーの神秘的な色合いを見せています。



  涌池の周囲は土産物屋や食事処が立ち並び、世界遺産に指定されたこともあってか、多くの外国人観光客で賑わっていました。



  湧池の奥には「榛(はしばみ)の木資料館」があり、有料(2014年7月現在、大人300円)で三番霊場「底抜池」を含む旧豪族の屋敷跡を見学することができます。外の観光客の多さの割に、資料館の中は非常に静かだったのですが、こちらの方が見る価値があるように思いました。

 

  水車小屋(写真左)と隠居屋(写真右)。18世紀ごろの建物と推定されているそうです。

 

  さらにその奥には母屋があり、中には農耕具や養蚕・紡績・機織りに使われた様々な道具が展示されています。



  「底抜池」。東西14.4m、南北8~10mの楕円形の池です。底抜池と言っても、一番深い所でわずか1.5mしかありません。しかし、池の底は泥が厚く堆積しており、実際の深さは分かっていません。この池に物を落とすと行方が分からなくなると言われ、それゆえにここで物を洗うことは神域を汚すものと信じられていたようです。確かに、池の奥には神々しい大木がそびえていました。

忍野八海

山梨県南都留郡 忍野村忍草



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彦根城(金亀城)③

2014年05月27日 | 史跡めぐり


  ついに本丸、天守までたどり着きました。三層四階(地階含む)の複合式望楼型天守、小ぶりですが、それでも想像していたよりは大きかったです。切妻破風、入母屋破風、唐破風などを多用し、最上階には花頭窓、高覧付廻縁を巡らすなど、見る角度によって様々な表情を見せる、大変美しい天守です(下の動画をご覧ください)。



  天守は姫路城のような通し柱を用いず、各階を積み上げる方式を採っており、この時期としては望楼型でも古い形式です。調査の結果、元々は1607年(慶長12年)頃に建てられたものであることが判明しています。この天守もまた移築であり、前述の『井伊年譜』によれば、大津城であったと伝えられています。他の城の建築物を移築するという手法は、この時代よく見られたことです。



  天守内部の「武者溜」。



  天守より琵琶湖を望む。



  西の丸三重櫓。本丸に隣接する西の丸北西に位置する、続櫓。小谷城天守を移築したものと伝えられています。



  井戸曲輪。本丸から黒門へ降りていく途中に設けられた小さな曲輪。当時は瓦塀で囲まれていました。中には塩を備蓄する塩櫓と雨水を浄化して貯水する井戸がありました。籠城に備えるため、最も大切な塩と水を備蓄する施設であると同時に、黒門を守る防衛施設でもありました。



  井戸曲輪下の石垣は、高さが19.4mあり、彦根城の中で最も高く堅牢な構造となっています。



  楽々園。彦根藩4代藩主、井伊直興によって建立された藩主の下屋敷です。元々、槻(けやき)御殿と呼ばれていましたが、現在では建物を楽々園、庭を玄宮園と呼んでいます。



  楽々園の名は『論語』の「仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ」に由来し、民の楽を楽しむという仁政の意味も込めているといわれています。



  ここは松原内湖に面した広大な干拓地であり、最大時には現存する建物の10倍ほどの規模を誇りました。

<おわり>

彦根城

滋賀県彦根市金亀町1-1



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彦根城(金亀城)②

2014年05月26日 | 史跡めぐり


  表門山道。訪れた皆さんは、結構この階段でバテておられたようです。このところ習慣的に運動するようにしていたのは幸いでした。



  城は防御を目的に築かれるものですから、石段も形が不ぞろいだったり、段の高さや幅がまちまちです。したがって、結構疲れるんですね。



  鐘の丸。築城当初、鐘楼がここにあったため、鐘の丸と呼ばれています。ここにはかつて大広間や御守殿がありました。



  天秤櫓。大手門山道と表門山道の合流地点を見下ろすように築かれた堅固な櫓。中央に門を配し、両端を二階建ての櫓が守りを固めています。その姿が天秤のように見えることから、天秤櫓と呼ばれますが、日本の城郭でこのような形式の櫓を持つのは彦根城のみです。井伊家の歴史書である『井伊年譜』には、この櫓が長浜城大手門を移築したものであると記されており、解体修理の折にも移築されたものであることが確認されていますが、長浜城大手門であったかどうかは不明です。



  天秤櫓は1854年(嘉永7年)に大規模な修理が行われており、その結果、写真右側が築城当時の石垣である「牛蒡積み」であるのに対し、写真左は切石を積み上げた「落とし積み」となっています。牛蒡積みは一見粗雑ですが、堅固な石垣です。



  天秤櫓にかかる廊下橋。非常時にはこの橋を落とし、敵の侵入を防ぎます。

 

  その他にも天秤櫓には防御のための工夫が凝らされています。例えば、門には敵が扉に梃を差し込むのを防ぐ「蹴放」(写真左)と門扉を持ち上げようとしても押さえつける「まくさ」(写真右)が仕組まれています。



  天秤櫓より佐和山(正面)を望む。眼下の建物群は表御殿を模した彦根城博物館です。

 

  時報鐘。鐘の丸では鐘の音が城下に届かなかったため、さらに上の太鼓門櫓手前に移されました。現在は時報鐘の管理棟が聴鐘庵というお茶屋さんになっています。



  太鼓門櫓・続櫓。本丸の表を固める櫓門で、これも移築と伝えられます。



  表側は堅固ですが、裏側に回ると高覧つきの廊下によってむき出しになっている珍しい造りです。

<つづく>

彦根城

滋賀県彦根市金亀町1-1



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彦根城(金亀城)①

2014年05月25日 | 史跡めぐり


  以前から行きたいと思いつつ、なかなか行けなかった彦根城へ行ってきました。別称である金亀城は、以前ご紹介した松山城の別称でもありますね。



  徳川家康の重臣、井伊直政は、1600年(慶長15年)関ヶ原の戦いの軍功により、近江(滋賀県)東部に18万石を与えられ、西軍の総大将であった石田三成の居城、佐和山城に入城しました。しかし、三成が整備したとはいえ中世山城で不便だったため、直政は当初磯山(米原市)へ移ることを考えていたようです。しかし、直政はそれを待たずして死去、遺志を継いだ家臣の木村守勝が幕府に願い出て、1603年(慶長8年)、佐和山と向かい合う金亀山に築城を開始しました。



  彦根は古くから中山道、北陸道が交わり、琵琶湖に接する(当時は彦根城の際まで琵琶湖の内湖でした)水陸の要衝でした。まだ大坂に豊臣氏が健在な時代であり、彦根城は天下普請による非常に堅固な城となりました。城下町は大規模な土木工事により湿地帯を埋め立て、計画的に造られました。



  外堀跡。元々は水掘で、並行する車道を含んだ幅がありました。この外堀は松原内湖からさらに琵琶湖まで通じていました。



  いろは松。表門橋に向かう、中堀の沿道の松並木です。元々47本あったことから、いろは松と名づけられましたが、現在残っているのは33本(内12本は補植)です。



  二の丸佐和口多聞櫓。中堀に開く四つの門のひとつ。守るに易く、攻めるに硬い枡形の構造になっています。現在の多聞櫓は、1769年(明和6年)~71年にかけて再建されたものです。



  馬屋。近世城郭でこれだけ大規模な馬屋が残っているのは、全国に例がありません。



  馬屋はL字型をしており、21頭の馬を繋ぐことができました。



  馬のいる馬立場。前方の馬つなぎ柱2本と後方の押柱2本で区画されており、馬つなぎ柱には手綱通しの金具が上下二段に設けられていました。上部には桁を渡し、猿耳を取り付けて馬の胴部を回す腹掛けを固定していました。

  床は板張りですが、その下をすり鉢状の漆喰製叩きとし、底の方に排泄物を処理するための甕を配置しています。



  表門橋付近の、内堀に沿った石垣。日本本土の城郭の石垣は通常直線で、強度を保つためある程度の長さで折り曲げてありますが、この石垣は堀に沿って流麗な曲線を描いています。僕の知る限り、このように曲線を描いた石垣は本土では珍しいのではないかと思います。



  表門橋。明治初期の写真や文献をもとに、2004年(平成16年)に再建されたものです。



  登り石垣。「西生浦倭城」でご紹介したように、文禄・慶長の役の際、日本軍によって朝鮮半島南東沿岸部に多く築かれた、俗にいう倭城で多く用いられた帯状の石垣です。日本国内では非常に珍しいもので、松山城や洲本城にその例が見られるのみです。

<つづく>

彦根城

滋賀県彦根市金亀町1-1



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カリバタ英雄墓地公園(Taman Makam Pahlawan Kalibata)

2013年09月14日 | 史跡めぐり


  ジャカルタ郊外のカリバタ英雄墓地公園に立ち寄りました。



  ここはインドネシア独立戦争(1945年~1949年)で戦死した将兵および独立戦争に参加した将兵の追悼施設です。



  広大な敷地に、性別・宗教・種族の別なく独立戦争への戦績のある者が埋葬されています。上の写真はキリスト教徒の墓です。

 

  カリバタ英雄墓地には、日本の敗戦後もインドネシアに残り、独立戦争を戦った元日本兵も埋葬されています。残留日本兵の数は数千人にのぼると推計されています。僕が行ったときには、2名の日本人名を確認することができました。

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南禅寺③

2013年07月05日 | 史跡めぐり


  最後は天授庵。天授庵は無関普門禅師を奉祀する南禅寺の開山塔で、山内でも最も由緒ある寺院とされています。



  1336年(暦応2年)、『元亨釈書』で有名な南禅寺第十五世、虎関師錬が光厳天皇に願い出て、翌年に開創しました。現存の天授庵は、1602年(慶長7年)に復興したものです。



  本堂前庭(東庭)。枯山水庭園ですが、幾何学模様の石畳に緑苔を配した珍しい造りになっています。



  書院南庭。鎌倉末期から南北朝時代の様式であり、開創当時に作庭されたものと考えられています。



  ちょうど睡蓮が開花しており、見頃でした。

南禅寺

京都府京都市左京区南禅寺福地町



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南禅寺②

2013年07月04日 | 史跡めぐり


 本坊(写真左)。本坊とは、住職の住む僧坊のことです。写真右は、南禅寺第八代管長、嶋田菊僊による「瑞龍」の書。「瑞龍」とは南禅寺の山号です。



  予約すれば「滝の間」で清涼の滝を眺めながら抹茶を頂くことができるそうです。



  本坊の左側には方丈へと続く唐破風の大玄関があります。



  国宝でもある方丈。1611年(慶長16年)に内裏の清涼殿を移築して再建されたものと伝えられています。残念ながら撮影不可でしたが、内部は再現された狩野派による豪華な襖絵で彩られていました。方丈庭園は小堀遠州の作とされ、江戸時代初期の代表的な枯山水庭園です。



  寒山拾得(かんざんじっとく)像。「寒山」も「拾得」も唐代の僧の名前です。奇行で知られ、中国の臨済宗の寺、寒山寺に伝わる二人の伝承を元に絵画などの題材に使われることが多いそうです。左側の絵巻物を開いているのが寒山、右側が拾得です。



 方丈の奥は小方丈となっており、こちらは伏見城からの移築と伝えられています。小方丈には昭和40年代に作庭された庭園が数多くあります。上の写真は如心庭。解脱した心を表す庭で、「心」の字形に石を配置しています。



  1967年(昭和42年)作庭の六道(りくどう)庭。六道輪廻の戒めの庭です。六道とは「六道珍皇寺」でも述べたとおり、仏教で衆生(しゅうじょう:生きとし生けるもの)が死後に赴くとされる6つの世界「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界」のことです。



  蓬莱神仙庭。蓬莱は仙人が住むとされる霊山のことです。南禅寺の地も古くから神仙佳境の地とされてきたそうですが、それはここが「脱殺穴」の穴であることと関係があるのかもしれません。



 鳴滝庭。



 華厳の庭。南禅寺垣と呼ばれる竹垣で有名です。



 『風水パワースポット紀行』で著者が特に良いと述べていた龍吟庭。



  茶席、不識庵(写真左)と窮心亭(写真右)。不識庵は1954年(昭和29年)、亀山法皇の650年御忌の際、茶道宗�衆流八世宗有宗匠から寄進されたもの。窮心亭は1968年(昭和43年)に宗�衆流一門から寄進されたものです。

  「不識」とは、その昔、達磨大師が梁の武帝(在位502年~549年)と対面した際、「私の前にいるのは誰か」と問われ「識らず」と応えたという故事に因むものです。即ち、真の自分を言葉で説明しつくすことはできず、真の自分を知るためには心を窮めていかなければならないという、いかにも禅らしい話です。



 還源庭。

<つづく>

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南禅寺①

2013年07月03日 | 史跡めぐり


  京都・山科にある南禅寺は、1289年(正応4年)、亀山法皇の求めに応じて無関普門禅師によって開山された、日本最初の勅願禅寺です。別格として京都五山、鎌倉五山の上位に位置する格式をもつ臨済宗の禅寺として有名です。

  応仁の乱(1467年)によって伽藍を焼失しましたが、天海と並び徳川家康の懐刀といわれた崇伝が1605年(慶長10年)入山したことによって再建が進みました。



  「高島/宝当(ほうとう)神社」や「鷲林寺(じゅうりんじ)」でもご紹介した山道帰一氏の『風水パワースポット紀行』によると、南禅寺は風水で「脱殺穴」という地形の、気が集まる「穴」に位置しています(上写真。クリックすると拡大します)。脱殺穴には「心身脱落」という意味があり、まさに日本最高の格式を持つ禅寺に相応しい立地といえます。南禅寺を京都五山の第一位としたのは後醍醐天皇、さらに別格としたのは足利義満ですが、昔の人は今よりも風水を重んじたでしょうから、こうしたことを十分理解していたのかもしれません。

風水パワースポット紀行
クリエーター情報なし
メディア総合研究所




  さて、冒頭の写真は中門、その左隣が勅使門です。中門を潜るとほどなくして巨大な三門が見えてきます(写真上)。この三門は、藤堂高虎によって1628年(寛永5年)に寄進されたものです。



  三門を潜り、直進して突き当たるのが法堂。現在の法堂は1909年(明治27年)に再建されたものです。



  須弥壇の中央が釈迦如来像、右側が文殊菩薩像、左側が普賢菩薩像です。天井には、日本画家、今尾景年作と伝えられる幡龍が描かれています。



  法堂から右手に進むと、煉瓦造りの水道橋、「水路閣」が見えてきます。水路閣は1881年(明治18年)に当時の京都府知事北垣国道の発案により、工学博士田辺朔郎を康司主任として起工、1890年(明治23年)に竣工しました。



  琵琶湖疏水事業の一環として造られたもので、延長93.17m、幅4.06m、水路幅2.42mあります。明治維新からわずか20年ほどの時期に日本人のみによって設計・施行された近代水道橋として、土木技術史の点から見ても大変貴重な遺物なのだそうです。



  南禅院。亀山法皇が南禅寺開山の際に寄進した離宮の跡で、いわば南禅寺発祥の地です。



  亀山法皇作庭と伝えられる庭園は鎌倉時代末期の面影を残しており、静寂で落ち着いた雰囲気です。



  方丈は1703年(元禄16年)、桂昌院の寄進により再建されたもので、中央に亀山法皇御木像が安置されています。襖絵の水墨画は狩野養朴と如川隋川によるものだそうです。



  庭園の東隅には、亀山法皇の御廟があります。

<つづく>

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鷲林寺(じゅうりんじ)

2013年07月01日 | 史跡めぐり


  阪急夙川駅からバスで17分、鷲林寺バス停から曲がりくねった急な坂道を約10分。六甲山地の麓に真言宗・六甲山鷲林寺はあります。飲み過ぎで運動不足の体にはちょうど良い浄化となりました。

  鷲林寺は833年(天長10年)、空海(弘法大師)によって創建されました。お寺に掲示されていた「鷲林寺縁起」によると、観音道場を開くための地を求めていた弘法大師が廣田神社に宿泊されていた時、夢枕に仙人が現れ、この地を教示されたそうです。それに従い大師が入山したところ、「ソランジン」と呼ばれる大鷲が現れ、大師の邪魔をしました。大師は加持を行い、大鷲を桜の木に封じ込めました。その経緯から「鷲林寺」と名づけられたのだそうです。



  1578年(天正8年)に荒木村重の乱が起こると、織田信長により焼き払われ、昭和に入ってようやく復興されました。そのため、現在の建物はみな新しいものです。



多宝塔。



八大龍王。



弁財天池。



  七重石塔。13世紀終わりから14世紀頃に造られたとされる石塔で、武田信玄が得度した際、毛髪をここに埋めたと伝えられています。



  さて、山道帰一氏の『風水パワースポット紀行』によると、鷲林寺をとりまく地形は風水でいう四神相応という好適地に当たるのだそうです(上の写真をクリックすると拡大します)。すなわち、玄武に当たる六甲山から流れてくる気の溜まる明堂という位置に鷲林寺があり、ここがちょうどパワースポットとなるわけです。弘法大師が鷲林寺を開いた時の伝説も何かこの地が持つエネルギーと関係があるのかもしれません。



  さらにその先には、甲山が案山となって、気が流出するのを防いでいます。理由は分かりませんが、何となく気になって撮影した上の写真、これが甲山です。

鷲林寺

兵庫県西宮市鷲林寺町4-8



風水パワースポット紀行
山道 帰一
メディア総合研究所


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機張倭城

2013年06月07日 | 史跡めぐり


  こちらは釜山広域市機張邑竹城里山にある城で、文禄の役の際、黒田長政が築いたと言われています。



  昨日ご紹介した西生浦倭城と比べると、城というより小規模な砦と言った方が良いかもしれません(上の図をクリックすると拡大します)。竹城里倭城、豆毛浦倭城とも呼ばれています。



  しかし、正面に見下ろす入り江を始め、四方を見渡せる小高い丘の頂上(海抜64m)に築かれており、ここが要地であることは一目で分かります。城の総面積は8,595㎡(2,600坪)、石垣の周囲960m、現存する石垣の高さは4m~5mほどです。本丸を含む6つの曲輪に囲まれた輪郭式の縄張り。東側と西側の外郭は空堀で囲まれていました。

 

  本丸の入口。

 

  天守台と天守台から背後の丘陵を望む。正面の入り江は船を停泊させるのに適した地形で、川にも通じている良港であり、ここを守備するほか、西生浦倭城と釜山倭城の中間に位置するこの城は交通の要衝を抑える役割をも果たしていたのではないかと思います。

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