BUZ LIFE

毎度ご乗車ありがとうございます。

チョコレートパフェ

2005年10月31日 | Weblog
授業の合間に、食べてしまった・・・チョコレートパフェ!100円の割引券を友人が持っていたので、せっかくだからと食べに行った。バニラアイスと生クリーム、バナナなど絶妙な組み合わせで、非常においしい。幸せ。すごく幸せ。甘いものは大好き。

しかし、パフェ、と名のつくもの、ひょっとして食べるの初めてかも、と気づいた。高い、値段が。だから今まで敬遠してきた。家族と食べに行っても、妹は遠慮無しに、値段に関係なく自分の好きなものをたのむ。でも、自分は高いものは、我が家から金がたくさん出て行く、もったいない、という考えが頭を駆け巡り、最も安いものしか頼んでこなかった。自分の食べたいものを我慢して。それでもあまりつらい我慢ではなく、家により多くの金が残る事に満足した。なぜか、どうしても頼めなかった「高い」もの。自分の食べたいものを、注文できない。必ず値段を見て、一番安いもの、いっても2番目に安いものしか注文しなかった。たとえ数十円の違いでも。もちろん葛藤はあった。あーたのみたいな、と。それでも、やはり「安い」ものが勝つ。金が多く使われる事に抵抗が、そして、自分の好きなものを頼めるという贅沢、幸せに、抵抗があったのかもしれない。

それでも今日は、友達に誘われたので、頼んでしまった。チョコレートパフェ。会計は100円引きで550円。やはり、頼めなかっただろう、こういう機会でなかったら。

早慶戦!

2005年10月30日 | Weblog
六大学野球で一番盛り上がるであろう早稲田VS慶應というこのカード。神宮球場で13時から試合開始ということで、10:30に外苑前駅に集合する。ここで一人来ない。10分経って、もしかして事故に巻き込まれたの!?なんて心配は微塵もしなかったけど、一応電話。意外と元気な声、もうあと少しなのかなと安心したら、ベッドの上で話してやがった。まあ、想定の範囲内、と言うことで、さっさと神宮へ向け歩き出す。

11時ころに神宮入り。本日は学生の為に外野席はあけずに、内野席のみとのこと。早速内野席へ入るとすでに結構な人が席に座っている。われわれも、応援指導部に指示されながら、席を確保する。まあまあ、な席。グラウンドでは早稲田の選手が練習している中、内野席でもすでにチアが踊ったり、「み~な~さ~ん、き~の~う~の、ほ~そ~き~か~ず~こ~が~」なんてわけのわからないコントが始まったり、応援歌をうたわされたりで、結構あきない。途中早稲田のチアが慶應サイドにやってきて踊りを披露。友人は早稲田の方がいい、なんていうけど、はたして、どちらが人気なのだろうか。

12:30頃にはエール交換という事で、双方の応援歌が歌われ、旗手が重そうな旗を持ちにらみ合う。エール交換中は、場内の移動禁止、とすこし厳粛に行われる。

そして13時、いよいよ試合開始。慶應は先攻。1回表に、四球、バント、2塁打と続きあっさり1点先取。これはもしかすると、もしかすると・・・!?実は昨日の早慶戦は早稲田が勝利しており、もし今日慶應が勝てば一勝一敗となり決着は月曜日に持ち越し、そうすると学校の授業が2限以降休講になるのだ。幸先良い滑り出し、明日は、眠れる森へとご招待、の経済思想の歴史から解放か、と期待に胸が膨らむ。

とおもった矢先、1回裏、なんといきなり先頭打者HR!ボールはきれいに外野スタンドへ。一瞬あ然呆然、でも、まだ1回だし、と安心する間もなく2回までに3失点。まだまだ、と願う気持ちは、沈黙した打線に押しつぶされ、結局試合は4-1で完敗。明日の授業は何限からだっけ、と考えながらも、楽しませてくれた選手に感謝。

応援は、自分の学校が攻撃中は観客総立ち。いろんな応援歌をうたい、盛り上がる。応援指導部員も各通路にちらばり、観客に応援するよう促す。学ランを身にまとい大変ご苦労なことである。そして得点したときにはなんといっても「若き血」!観客全員が肩を組み、熱唱する。自分が慶應生であると実感するときであり、たとえ慶應生でなくとも、「俺って慶應生だったよな」と錯覚してしまうほどだという。

観客数は早慶どちらも同じくらい。学生だけでなく、一般の人も数多く見受けられた。この試合、実はNHKでも放映されたいたのだという。やはり早慶戦、注目の試合である。春は優勝決定戦であったこともあり、非常に盛り上がった。秋は・・・まあ順位はともかく、みんなが一丸となって楽しめ、ちょっと早慶どうしで敵対してみる(普段はあまりないが)イベントとして、早慶戦は非常に価値あるものである

祝!引越し2周年!

2005年10月28日 | Weblog
今日、10月28日は何を隠そう、今の住居に引っ越してきて丸2年目!そう、ちょうど2年前の今日、この横浜の地へとやってきた。その日の事はよく覚えている。引越しの前日に、家には何もなくなってしまったため、ホテルに宿泊。普通に平日であったため、ホテルから登校という偉業を成し遂げた。そして、いつもと変わらぬ学校生活。学校が終わり、帰り道。今日からは帰る道が違うのだ。といっても、途中までは同じ経路。いつも乗り換えの為に降りる駅を通り越す。いよいよ、新居へ向かって新たな通学路へと踏み入れた。もう、この駅でしょっちゅう降りることもないだろうな、と思うとさびしい。

最寄の駅で下車。と、ここで困った。そういえば、この駅から新居へ歩いた事ない・・。そもそも新居へは引っ越す前に一度しかいったことない。そのときは別の駅から行ったが、このときもよくわからなかった。まあ大体の方向は分かるので、適当に歩き出す。小さくはない駅なので、歩道橋を使うか、下の横断歩道で行くか早速迷う。結局は不正解の横断歩道を使い、いきなり遠回り。天気は雨。強く降っている。新居初日に盛り上がらない。それでも、早く家に着きたい。でも慣れない道、辺りを必要以上見渡しながら、ゆっくりと歩く。

近づいてきた。しかし、ここからは、大雑把な方向ではたどり着かない。より精度の高い道の選択が必要だ。新居の近くのビルにいる。でも、どこの出口から出れば、新居に着けることやら。で、また不正解の出口を選び、二度目の遠回り。

あと少し。見えてきた。この新居に、この先帰ってくるのだ、毎日。少し感動。やっとのことで到着。雨はずっと降り続いていたため、靴はびっしょり。初日に限ってついてない。恐る恐るエントランスを入り、エレベーターで12Fまで昇り(実は新居はマンション)、玄関のドアを開けた。ちゃんとつけた。ドキドキワクワクの新・通学路であった。この先、この道を使って通うのか。少し楽しみだが、今までの通学路が早くも懐かしく感じられた。

家の中は、ダンボール箱のジャングルであった・・・。

「大崎」行き山手線

2005年10月27日 | Weblog
文化祭手続きのためにいつもとは違うキャンパスに授業後向かう。その帰り道、乗った山手線は「大崎」とのLED表示。「新宿・池袋方面」とは違い、品川の一つ先、「大崎」駅でこの電車は「終点」となる。山手線が途中で止まる。機械的に何の思考もなさげに同一方向を永遠に回りつづけている山手線にも「終わり」があったのだ・・・!

当然のことといえば当然かもしれない。「大崎」どまり、というもはや山手線の機能を果たさない電車はそれでも定刻にホームに入線してきた。さすがにすいている。乗り込まずにわざわざ一本見送る人も結構見受けられる。すいているから、と、わずかな時間の快適を望み、乗り込む。あたりまえだが、普通の山手線。しかし、そのときはやってきた。

「次は、終点、大崎」アナウンスが入る。駅につく。乗客が降りる。全員。慣れない表情の乗客は、きれいさっぱり車内からいなくなり、もぬけの殻となった山手線車両が残った。いったい何時間走りつづけてきたのだろう。何人、何十人、何百人、何千人のいや、何万人の人を運びつづけたのだろう。大仕事を成し遂げた車両はそのまま大崎駅にしばらく停車。誰も乗っていない山手線、とは非現実的な話だが、この山手線に終わりを与えると、乗客を寄せ付けない、いつも乗りなれているはずなのに、遠い存在として扱われる車両となる。次の仕事はいつだろうか。しばらくは、機械に不必要かもしれないが、休息の時間となる。あたりまえに循環すると思っていた乗客に多少の不便を強いながら、またいつもとは違う姿の山手線を見る人に多少の思考を強いながら。

次に来た山手線は満員。この電車に乗り込み、大崎を後にする。いつもの山手線。この山手線は「新宿・池袋方面」。この電車も「大崎」行きを表示し、いつか、乗客をすべて降ろすときが来るのだろう。

10月下旬

2005年10月26日 | Weblog
嫌いじゃないけど、この季節。太陽がおちるのがやたら早い。夕刻、ものすごくさびしさを感じてしまう。夏だったらまだ明るくて、蝉がうるさいのに・・・。これから冬至に向かい、日の短さはさらに加速する。5限があって授業が終わると真っ暗な外。嫌いじゃないけど、この季節。

「一緒に卒業しような」~生徒ら1100人追悼ミサ(抜粋)

2005年10月25日 | Weblog
横浜市都筑区の私立サレジオ学院で24日、学校前で乗用車にはねられて亡くなった生徒二人の家族や全校生徒など約1100人が集まり、二人の追悼ミサがあった。会場の壇上には二人の遺影とともに、生徒ひとり一人が折った千羽鶴や二人が熱中した卓球の台も飾られた。生徒らは聖書を朗読したり、聖歌を歌うなどして二人の冥福を祈った。祭服を身にまとった校長は「私たちはかけがえのない二人を失った。でも、事故から何かを学び、悲しみや怒りを乗り越えなければいけない」と述べた。
その後、代表の男子生徒二人が「仲の良かった君が事故に遭ったと知り、すぐに『無事か』と携帯でメールを送ったんだ。天国でメールを見てくれていますか」「楽しいときもつらいときもずっと一緒にいてください。そして、一緒に卒業しような」などと弔辞を読み上げた。会場内には生徒がすすり泣く声が漏れた。
事故後、学校側は心理的ショックを受けた生徒らに外部のカウンセラーなどを呼んで対応しているという。

10月25日付朝日新聞朝刊より。

歯医者~dentist

2005年10月22日 | Weblog
今日も歯医者。午後一番に予約を入れてあったので、すんなりと診察室へ。今日は歯の掃除と、虫歯の処置。右の下の歯に虫歯。でも10ふんくらいですぐ終了。歯は結構汚れていたようだが、さすがはプロの腕、こちらもそんな長い時間かかることなく、白くなっていた。

風邪

2005年10月19日 | Weblog
久しぶりにひきました。それも突如。本当に突如。何の前ぶりもなく、友人の家でグダグダして、起き上がったら、具合い悪くなっていました。熱が出て最高39.4。寝ていたのですがこの高熱でうなされて起きてしまいました。その起きた時間は23:30ころ。自分は自分の起きる朝の3:50だと思って起きたのですが、まだ家族が全員起床。変だな、と思って時計をみてびっくり。相当うなされて起きました。これでは寝れないので薬を飲んでまた床に。朝起きてみると、薬のお陰か、なんとかバイトに行けそう。昨夜慌てて呼んでおいたタクシーで出勤してしまいました

鬼子母神社祭り

2005年10月16日 | Weblog
今日は鬼子母神社に行ってきました。場所は山手線目白駅から徒歩10分強のところ。行く際にまず、目白駅で降り損ないそうになる。目白駅なんて普段降りない駅だし、大して大きくもない駅なので、ついつい。しかし、扉が閉まる2秒前に下車。ぎりぎりセーフ、集合時間に遅れていたので、これ以上のタイムロスはいただけない。

なぜ鬼子母神社に行ったかというと、お祭りが催されていたからである。お祭りなんて、考えてみるとかなり久しぶりかもしれない。いつ以来かな、と過去を振り返るもここ数年の話ではなさそう。いい年してお祭りなんて、と思ったが、いざ会場内に足を踏み入れるとやはりテンションが上がる。

境内には多くの人が集まっている。大半は近所の方だろう。そして、右の写真のようなものを持った人たちが練り歩く。掛け声や、なにやら独特な打楽器を鳴らしながら、ゆっくり行進して行く。ひとたびそれに巻き込まれると、道が狭いゆえ通行が不可能になる。そんなときはただじっと、目の前の行列が過ぎ去るのを待つ。何も急ぐ事はない。独特な、そのリズムに耳を傾ける。待機していると、真後ろの、民家のおじいさんも、打楽器を一緒に鳴らしている。身体的に、行列に加わる事はできないようだが、それでも、懸命に参加。それにきづいた隊列の一部がおじいさんの前でとまり御礼をする。

境内には出店もたくさんでていた。焼きそば、お好み焼き、やきうどん、からあげ、チョコバナナ・・・。定番といえば定番。価格帯は300~500円。ちょっと高めな気がするがここは都内のど真ん中。唯一大判焼きが100円と良心的。あとは、射的やらピッチングやら、当てくじやら。祭り、だなと実感する。

もちろん本殿に行きお賽銭。無宗教はこういうときに便利、ちゃっかりお願いごとを。

それにしても、驚いた。都内にまだこんなお祭りがあったなんて。地域の人が参加し、受け継がれてきたであろう、独特なリズムを奏で、行列をする。東京は、近所づきあいがない、冷たい人が多い、隣にすんでる人が誰かも分からない・・・そんな様子は微塵も感じられなかった。

そして神社を中心としたお祭り。日本に特有な行事であろう。地域を守ってくれる神に感謝し、地元民でその意を祭りの形で表す。地方ではまだまだこういった祭りは健在であろう。そして東京のど真ん中でも。日本の誇るべき文化といっていいだろう。

祭りは22時をまわっても続いていた。