BUZ LIFE

毎度ご乗車ありがとうございます。

Friends

2008年03月31日 | Weblog
僕には、これからも、また会って、また飲んで、またおしゃべりして、またたまには旅行に行って・・・そんなことを共にしたい友達がいます。

向こうがどう思っているかはしらないが、なんて幸せなことだろう、とつくづく思います。

ありがとうございました。これからも、よろしくお願いします。

行くぞ!40年!!

2008年03月31日 | Weblog
ってな勢いはまったくありませんで。

えー、本日を持ちまして、学生という身分ではなくなります。あと30分くらいか。そして、明日から”社会人”という身分になりまして。

不安と絶望と、不安と不信と、不満と不安と、絶句と焦燥と、絶望と焦燥と、不安と不満と・・・。

希望、夢、野望、抱いている余裕は、少なくとも今はない。

これから先定年まで約40年間、まとまった休みはなくなる。今まで当たり前のようにあった夏休みや冬休み・・・なんだっけ?って感じで7月も8月も、9月も10月も、11月も~も~も~!!!!なんか果てしないよね、40年と言う響き。まだ、22年しか生きていないんだよ。その倍、社会人やれと。その間ずっと働けと。

まったく実感できないんだよね、40年間。「まるで入社式が昨日のようだ!」なんて数日後に言ってるような幻想を抱いたりして。

いや~しかも勤め先が勤め先なだけに・・・不安も2倍3倍2乗3乗・・・!

でも、予想よりつらくないんじゃないか、意外と旅行行けちゃったりするんじゃないか、意外と深夜にDVD観れたりするんじゃないか、と期待してみちゃったり。

あま~い!!!!!!!!!!!!!!絶対あま~~~~い!!!!

恐らく現実を知って、息も絶え絶え、毎日青ざめた顔で、それでも日経新聞必死に食らいついて読みながら電車で出勤しているんだろう。いや、詠んじゃおうか。「あたらしく きくとかいて しんぶんと いうわりにじぶんが 死んでいる」

意味わかんねっ!!

ってか予想つかねっ!!!どうなってんのよ、自分の1日後1週間後1ヵ月後1年後一生後!

「お前が好きだ」

恋愛なんてしてらんないよね。変愛はしたりして。「お前が好きだワン!」犬に恋。ポメラニアンとか?結婚式はそう、仲人チワワ、指輪は鎖・・・みたいな

鎖!?くさり、り、り、り~~~!??!?

そうだった、明日から会社につながれるんだった。そうだった、朝ははよから終電まで・・・。

緊張してきたわ~。どんだけ怒られるんだろ、どんだけ焦るんだろう、どんだけ泣けるんだろう・・・。

でもまじめな話、今の家に住んでいる限り少しはすくわれるかも。

一人で静かになれる公園がある。何かを紛らわすにはターミナル駅の雑踏が。そう、深く考えるには喫茶店だって。気晴らしに映画館も。いや、温泉施設もあるな。ショッピングしたければ多種多様な店がそこらじゅうに。

これら全て徒歩圏内。

ま、とりあえず、明日の入社式を乗り越えよ・・・。

卒業式・園遊会・卒コン

2008年03月30日 | Weblog
気付いてみると大学を卒業していた。卒業式が終わっても、なんの実感もないのだが。

大学時代、だいたいは満足行くものであった。

【サークル】
数あるサークルから今のサークルを選び抜くのはそう簡単ではなかった。でも間違いではなかったと今では胸を張ってそう言える。同期はもちろん、先輩や後輩にも恵まれ、2年のときは会計の役職に就けた。やはりこの役職の学年が一番楽しかったかな。他の人と折り合うことの難しさ、組織の中で自分のやりたいことを貫くことの難しさを思い知らされたが、同時に自分が目の前にある問題を解決すること、あるいはあてがわれた仕事をこなすこと、自分の仕事が評価されることにここまで熱くなれることを知って多少の自信にもつながった。

【旅行】
国内・海外とわりと多く旅行には出かけた。ここで突然、国内・海外別行ってよかった旅行先ランキングー!

○国内
1.沖縄の竹富島(ハイビスカスの赤い花と白い砂の道が印象的)
2.福岡(なんといっても道路にあふれる、赤と白の・・・)
3.佐渡島(真っ青な日本海と、鎌を杖代わりに歩くおばあちゃん)

○海外
1.エジプト(ベッキー王の誕生を目の当たりに!)
2.エディンバラ(タイムスリップしたような街並み)
3.内モンゴル(タイムスリップしたような生活)

山形・秋田・和歌山・鳥取・島根を残した国内。結局行きそびれたベトナム・・・。

【アルバイト】
他人に負けないくらいアルバイトをしてきた。

一番最初は大学1年の5月からやった路線バスの乗降人員調査。前日の夜は初のバイトということで異様に緊張し、まったく眠れなかった。しかし、実際やってみるととてつもなく面白く、その後他の営業所で1回、同じ営業所で2年後に1回、やることになった。職場の人が本当にいろいろ面倒をみてくれ、楽しく仕事をさせてもらった。彼らの一員になっているいうだけで、非常に誇らしく、有頂天になったものだ。ちなみに他の営業所は家から2時間。最初電話で問い合わせたとき難色を示されたが、「行きます」と押し切り、雇ってもらった。

次は1年の夏休み。高速バス車両の洗車、まあそうたいしたことはないだろうと申し込んだら、とんでもない激務。連日30度を越す猛暑の中での肉体労働。3日ともたず辞めていく人が多い中で、「一度決めた契約だから」と意地でも2ヶ月やり通した。「ここで持てばどこへ行っても大丈夫だよ」といわれ多少体力に自信がついた。現場の男社会、みたいな職場環境で、怒鳴られながら、怒られながら、仕事をし、温室育ちの自分にはとてもいい経験になった。

そして9月にはその後3年半、卒業まで勤める事になるアルバイトとの出会い。このバイトがなければ大学生活はもっとつまらないものになっていただろう。詳細は別記事参照。

大学2年の夏休みには貸し切りバスの車掌というアルバイトにも挑戦。一日15時間勤務、と想像以上にハードであったが、群馬や長野などいろんなところへいけたのは楽しかった。でも職場に馴染めず、もともとその予定だったし、夏休み限りで退職。後々考えてみると、馴染めなかったのは仕事がうまく出来なかったからであり、それは日が浅いから仕方のないことであったのだが、それに気付かず辞めてしまったのは時期尚早だったかな、と。少々後悔した。

大学3年の夏休みには個別指導のアルバイトも並行して。夏休みになるとバイトをして激務な生活をしないと物足りなくなっていた。で、毎年疲労のあまり夜な夜な嘔吐を1~2回は。この個別指導も連続休憩なし12時間勤務、と半端ないつらさ。それでも人に何かを教えるというのは非常に面白いことであった。強制的に契約を延長されそうになったが、室長の不安定な機嫌と、拘束時間を含めた時給が700円台前半になっていたのに嫌気がさし、予定通り夏休みで退職。続けていれば間違いなくカリスマ講師の道まっしぐら、なにおいがぷんぷんしていたのだが。

そのほかにも2~3個、ちょっとしたバイトをかじったりしていた。バイトは、これ以上にないくらいやりつくしたかな。特にバス関係。路線、高速、貸切、限定(空港リムジン)と、全制覇。これ以上何をやれというのだろう。

【ゼミ】
どのゼミにしようか相当悩み、決めたゼミが倍率高かったので、果たして入れるかどうかで胃に穴が開くほど心配し、でも希望のゼミに入り、でも馴染むのに苦労し・・・でも結果的に間違ってはいなかったと思う、このゼミで。ここまで自分の興味のあることを勉強でき、ここまで楽しめたゼミは他にはなかっただろう、と。そう、いろいろ馬鹿なことをして・・・いやさせられた2年間。でも逆にそういうことができる環境であったということは、ゼミという集団のなかでしっかり自分が存在していたということだ。「君はこのゼミに入って絶対によかったよね」ある友人がそういった。おっしゃるとおり、いろいろ成長させられたような気がするわ・・・。

4年間の大学生活、以上4項目はうまくいった。非常にうまくいった。いい思い出だ。しかし、以下2項目はうまくいかなかった。でもこれもまた思い出・・・

【就職活動】
ちきり屋さんなので他人より時間をかけてやったのだが、結局自分の行きたいところから内定はでなかった。幸い無い内定になることはなかったのだが。でも、これに関して結論を下すのはまだ早すぎる。これから勤める会社が実は自分に最もよいところなのかもしれないのだから。やってみないと分からない・・・。

【恋愛】
はっきり言って4年間ずっと独り身であった。自信なくすよね。でも人を好きになることの楽しさ・・・その人のことを考えただけで気分が晴れやかになる、は十分に感じることが出来た。逆に、その人と一緒になれないと悟ったときの気分の落ち込みようといったら・・・。どんな最新鋭のドリルよりも早く地面に穴を掘ることができただろう。そして、人から好かれる、愛されることの難しさを痛感したのだった。

以上2項目は社会人になってからも持ち越すことになりそうだ。そのうちいい結果が出ることを願いながら・・・。

I Love NY~カナダ・アメリカ卒業旅行

2008年03月29日 | Weblog
一人で成田から発つのは初めて。でも、特にさびしさや不安を感じることなく、NW12でDetroitへ。いつもの作戦通り数時間睡眠で家を出てきたので、flightの7~8割くらいは寝て過ごすことに成功。途中の間食にも気付かなかった。

Detroitでの入国審査も無事通過。さて乗り継ぎのNW2979便は・・・Delayの表示。とりあえずgateに行ってみるとまだ前の便の搭乗手続き中であった。NW2979はここでいいのかとたずねると”Here! Next!”と大柄なお姉さん。仕方なくそこで待つこと・・・2時間30分。定刻より相当遅れてBuffaloに向けてtake off.このフライトもほとんど寝てすごした。

BuffaloからはNiagara Air Busというナイアガラの滝へ直行で行くバスを日本で予約済み。しかしflightのdelayで予定していた便はとっくに出ている。しかし運よくその後の便がちょうど出るところで待ち時間0で乗り継ぐ。1時間間隔での運行だからかなりラッキー。

陸路でカナダ入り。検問は車の中に係員がやってきていくつかの質問をされただけ。自分のパスポートだけ回収されたかと思うと、カナダの入国スタンプを押してくれていた。Thank You!

Sheraton Hotelでアメリカへ先発していた友人と合流。夕食はDenny's。2000円も取られた。そしてホテルで人生初のCasinoを体験。5カナダ$、約500円をスロットに投じるも・・・。

ホテルの売店のおっさんがyour contikiのbaseballは強いね、と話しかけてきた。どうやらおっさん韓国人。韓国もstrongerになってきているけどね!と力説されてしまった。どうでもよいですが・・・。

翌朝、昨日Niagaraの到着が遅れてしまったために見れなかったNiagara Fallsを一人早く起きて見に行くことに。が、まさかの霧で何も見えず。ゴォーという音だけがむなしく鳴り響いているだけ。往復30分くらい、泣きそうになるくらい寒い中を歩いたと言うのに。

再びBuffaloへ戻るため、Conciergeでtaxiを呼びたい旨を伝える。しかしわれわれは4人、それぞれ大小4つのスーツケースを持っている。"If we cannot"一台のタクシーには乗り切れないかもしれなかったのでbanを呼んでくれ、と。"I'll call right away"頼もしいConciergeだ。しばらくして、banを呼んだとの回答。しかし、普通のtaxiと同じ料金で行ってくれるよう頼んでくれたとの事。2度頼もしいConciergeだ。

結局90$くらいでHOME ALONEの泥棒さん2人が乗っていたようなbanは空港まで行ってくれた。ちなみに日本に帰国してbanという単語を調べても、大きな車を示す意味はどこにも載っていなかったが、まあいいたいこと、伝わったんだろう。

BuffaloからNew Yorkまでjet Blueという現地の格安航空会社で移動。1時間ほどのフライトだが、飲み物と軽食のサービスがあり、全席にpersonal TVがありと文句なしのサービスだった。JFKに着いて、NewYork Airport SeiviceというバスでPen Sta.まで。"Tips are greatlly appreciated"と車内に大きく掲げられていたが、荷物を降ろしてくれたDriverに1$を手渡す。渡さないで取ろうとするとこちらの顔を見て、何でくれないの、という表情をしてくるので、そうせざるを得なかった。ちなみにこのDriver、中国人のようだったので別れ際に”謝謝”と言ったらものの見事に無視された・・・。

NYでは1日半かけてThe Statue of LibertyとかEmpire State Buildingとかground zeroだとかcentral parkだとかメジャーどころは大体観光した。旅していて印象的だったのが、人と人とのふれあいだ。

例えば空港の保安検査場。係員にPassportやtiketを見せるが、係員から"How are you?"と聞いてくるのだ。"I'm good."などと人々は答え、さらに会話が続くケースも。マニュアルで人のご機嫌を伺え、などとは書かれていないだろうし、質問する係員も、答える搭乗客もごく自然にやり取りするのだ。日本では列を早く流すことだけを念頭に置き、決して無駄な会話は発生しない。

例えば建物の外に設けられたATMで。お金をおろす人にむかって通りすがりの人が"Can I have some?"と問いかける。そこらじゅうの通りで、いくつものjokeが飛び交っているのだろう。

例えばレストランで。とあるwaiterが常連と思しき客のテーブルにつき、"Waiter!"と同僚の別の係りを呼び出している。一人3000円くらいはする高級レストランで、仕事中のwaiterが堂堂と油を売り始めたのだ。

マニュアルや規則でがんじがらめにされている日本から見れば、少し驚きのやり取りがそこらじゅうで、見受けられたのだ。しかしそういったやり取りが人間のコミュニケーションとして”より自然”にうつり、なんかうらやましくも思えてきた。

どんなに小さな買い物をするときでもまず”Hi”と客と店員が軽く挨拶する。「いらっしゃいませ、こんばんは」と日本でも挨拶してくるが、それに答える客がどれだけいるだろうか。どうせマニュアルで言わされているだけだから、との思いも強く、たいていはすぐに自分の注文を伝え始める。アメリカを旅行中は努めて自分も挨拶を交わすようにし、実際大体において成功したが、日本に帰ってきていざ同じ事を実践しようとしても不思議と”こんばんは”の一言が抜けてしまう。ちいさな挨拶のやり取り一つで2人の距離がぐんと縮まるというのに。

自分のかつてのアルバイト先では非常に多くの外国人の来店があり、やはりどちらからともなく"Good morning"とか"Hi"とかでやり取りをはじめた。そうするとお互い気持ちの余裕が生まれ、その後のやり取りがスムーズに行くようになるのだ。型どおりのマニュアルなんかよりよっぽど効果的であった。幸い、自分のそのバイト先にはマニュアルは一切なく、好き勝手に応対してよいことになっていた。

大柄のアメリカ人があふれるアメリカの大都市、ニューヨーク、英語もままならない日本人はなめられるかな、と心配したが、まったくそんなことはなかった。レストランでも席を案内してくれる人は"Enjoy!"と声をかけてくれるし、donutを買った店では"Hou about・・"と別の商品を勧めてくるし、空港のshopの店員は"Have a very nice day!"と見送ってくれた。日本人に対しても同じようにフレンドリーに接するのだった。

そんな人とのやり取りも楽しんだアメリカだが、もう帰国の日。3泊5日と弾丸旅行なのだ。泊まっていたPennsylvania Hotelを5:10amに出発。このホテル、幽霊が出るよ、とバイト先の人に脅されたが結局見かけなかった。言われたとおり、部屋に入ると同時に手をパンパン、と何回かたたいたのが功を奏したのかもしれない。歩いてPort Authorityというbus terminalに行き、そこから5:50am発のLaGuardia
というdomesticの空港に行くバスに乗る。乗客は10名程度とまばらだったが、空港内は長蛇の列。みんな車で来ているのかもしれない。友人のsilver eliteのcardで多少時間短縮できるも、security checkを抜けるのに結局30分くらいを要した。NW327のDetroit行きに搭乗。bording bridgeを離れてからtake offするまで20~30分もかかった。飛行機の渋滞で、われわれの飛行機の後ろにも離陸待ちの飛行機が15機ほど連なっていた・・・。

この渋滞も見込んでの時刻設定なのだろう、ほぼ定刻どおり11時くらいにDetroitに着き、12:30pm発NW11の成田空港行きの搭乗。日本人が多く、嫌でも旅の終わりを実感させられる。Beijingまでのflightのようで中国人もちらほら。またもやほとんどを寝てすごし、成田に16時、ほぼ定刻どおりに到着した。

みんなと別れ、第一ターミナル南ウィング17:10発渋谷地区行きの東京空港交通に乗る。37名とほぼ満席に近い。左の列の通路側に座ったが、反対側の通路側に外国人の親子連れが2列にわたって座っている。その前方にはやはり子ども・・・まったく落ち着かない。外国人の子どもは補助席を出してそこに座らせてもらっていたが、じっとはしていられず母親を手伝って2回、その子どものシートベルトを締めた。その子どもがもっていたパンを2回、拾った・・・。そのパンをみた母親は「落ちちゃったけど、お父さんにどうぞしてきたら?」などと冗談を言っている。なにせ首都高速が大渋滞でまったく動かないのだ。子どもも飽きるよね。結局2時間以上かかって渋谷マークシティ上に到着。電車にしておけばよかったと後悔。もう終わりかけたサークルの飲み会へと足早に向かった。

アルバイト、終了。

2008年03月28日 | Weblog
といっても、まだ有給休暇中だから籍はおいてある。たまった有給を一気に消化中。17日くらいかな。

気付いてみれば3年と6ヶ月、このバイトを続けてきた。横浜で接客。

今でも覚えているが、このバイトは日曜日の新聞の求人折込広告で発見。自分が大学1年の9月だった。やってみようという動機はいつもと同じ。大好きな”あれ”に関われる。

明けて月曜日に早速電話。次の日から旅行でしばらく面接にはいけない旨を伝えると、なら今日、今から来てくれ、と。慌てて履歴書を書き、3時間後には面接を受けていた。

数日後に連絡が来て「まだ続ける気ある?」との質問に「はい」。後から聞いた話だと、採用決定はそう簡単ではなかったらしい。「まだ未成年、高校生とそう変わらないのでは・・・」そういう声が上がったらしいが、”大学名”がものを言ったそうだ。

研修はその1週間後くらいから始まった。

まあ、普通に辞めようと思ったね。”こんな仕事、自分に出来るわけない”。そもそも想像していたのとは違い、お客様と面と向かって接客する仕事だった。そして、覚えることが多く、正確さが要求され、扱う額は高額で(数千円単位)、おまけに非常に忙しい・・・。後に同じ時期に入った同期に聞いてみると、やはり研修中、何度もやめようと思ったとの事。自分も一日2時間の研修が終わるごとに、「え、あれより自分の担当する時間はもっと、込むだって・・・できるわけないじゃん・・・」とふらふらになりながら、職場を後にし、自分の無能を嘆くと共に進退について真剣に悩んだ。

しかし、結局とどまることになったのはいい人たちに囲まれて仕事ができたから、だと思う。「ここはいい人たちばかりだから、きっと楽しく仕事が出来ると思うよ」出勤初日、自分のロッカーにハンガーがなく困っていたところに、その辺のロッカーをかまわず開け、ハンガーを調達してくれた人にかけられた言葉は現実のものとなった。

同年代はまったくいなかった。学生は一人も所属していなかったのだ。一番若くて25歳くらい、上は40歳台、しかもほとんど女性という完全アウェー。それでもみんな気さくに話しかけてくださり、未熟な自分を温かく見守って下さった。とても居心地のいい空間を提供してくださったのだ。

そうして無事に1ヶ月の研修が終わり、11月からは独り立ち。その日のこともよく覚えている。同じ時間を担当する人に「好きなようにやっていいから」といわれ、実際に研修で教わったとおりに仕事をした。何も問題はなかった。

そう、”慣れ”が全ての問題を解決した。いったん、仕事の流れがつかめてしまえば、こっちのもの。単純作業ではないが、ある程度すべきことは決まっている。それを忠実にこなした。

それでもミスを犯す事だって。お客のイレギュラーな注文に冷静な対応が出来ずに、金銭のやり取りを誤った。マイナス3000円超。その日は一日中ブルーだった。どうしてもっと落ち着いて対応できなかったのか、周りの人に多大な迷惑をかけてしまった・・・と。「報告書」なるものを書かされ、仕事をする厳しさも味わった。

自分のアルバイトには特徴的なことがいくつかあった。

①担当時間が朝5時からと早い・・・3時50分にはおき、新聞の配達のバイクと共に出勤。冬の朝は尋常じゃない寒さで、毎朝、さ、辞めよ、と決意。人なんてほとんど歩いていない。自転車に乗っていると不審に思われるのか、3回ほど赤いランプの乗っかった車に止められた。「これからどこへ帰るんですか」「いえ、今から出勤です」。前日の夜は気を遣う。明日起きれるかな・・・目覚まし3個。それぞれ3回くらいちゃんとセットされているか確認。基本的に心配性。自慢じゃないが、無遅刻無欠勤。

②高い正確性が要求される・・・前述の通り、客単価が高いので、一回のミスが大きな額となる。金銭のやり取りは全神経を集中させ、預かった額、つり銭の額はしっかり声に出して確認。また商品についても、ミスしてしまうとお客様に甚大な影響を与える。実際、裁判沙汰になり、高額な賠償請求をされたこともあるとか。商品についても目でしっかり、声に出してしっかり確認。

③繁忙状態・・・になると、お客様の列が5メートルにも6メートルにもなり、それが1時間~2時間ひかない。少しでも早く対応できるようにするため、どうすれば短く、効果的に案内できるか言葉を選び、口と手を同時に動かすのは当たり前、目の前のお客様を対応しながら、次のお客様を見ては、何を要求されるのかあらかじめ把握し、準備できるようにしておく。

④外国人のお客様が多い・・・中国人や韓国人はもちろん、欧米各国の人、フィリピン人やタイ人、メキシコ人やエジプト人まで。多い日には何十人もの外国人と接する。基本的に英語で対応。大体こちらから聞くこと、あちらが聞いてくることは決まっているので意思疎通に問題はない。問題は英語も日本語も分からない外国人・・・ジェスチャー、筆談を駆使し、それでもなんとかあちらの言いたいことを理解し、こちらの伝えたいことを分からせ、大きな問題になったことはなかった。このバイトの醍醐味は外国人との応対にあるといっても過言ではない。多少の苦労はあるといっても、非常に楽しいのだ。欧米人は特にリアクションがすごくいい。両手を広げて喜んでくれる人、”your service is excellent”とほめてくれる人・・・タイ人には日本語でありがとうの言い方を教えてあげた。こわばった顔だった中国人に”謝謝”と言うと、うそみたいに笑顔になってくれた。大げさかもしれないが、自分は日本という国を代表して彼らに接していたつもりである。自分の対応1つでこの国に対するイメージが大きく変わる、いや変えられる・・・そう悪くはない対応をしてきた自負がある。

⑤他部署との連携が必須・・・自分の所属している課だけでは実はお客様へのサービスは完結しない。もう1つ別の課の仕事と合わさって初めて完結するのだ。だから出来るだけその課との連絡を密にし、その課の仕事を理解し、普段から情報を交換し、全体のサービスを高めていけるよう努力した。

そう、以上のような特徴から、ほかでは出来ないような仕事をさせてもらっていたと思う。それは”誇り”にもつながっていった。”自分にしか出来ない仕事をしているんだ”。「適性」という言葉で片付くことだったのかもしれないが。仕事に馴染めず、数日働いただけでやめていった人を何人も見た。

自分は思う存分このアルバイトを楽しんだ。意外にもお客様と接することが楽しかったのだ。”お客様の笑顔が見たい”。お客様が笑顔になると、それだけで不思議と自分もとてもうれしかった。やりがいを感じた。もっと、お客様に喜ばれるサービスを、と努力していった。お客様のちょっとした動作・発言から、何を望んでいるか把握し、それを満たす言動は何かを考え実践する・・・成功したとき胸が熱くなるのだ。常連のお客様の注文は出来るだけ覚え、適切に提供していく。他のレジでなく、自分のレジに来てほしかった。あちらも覚えてくれ、互いに新年の挨拶をするようにまでなった。「いつもありがとう」その言葉で全てが満たされた。

まず基本的に自分が笑顔でいること。これに尽きる。そう、どんなにつらくても。長蛇の列を前に、内心相当あせっていても、それを見せない。風邪で声がまったくでなくなったときも、逆に表情でカバー。仕事始まる5分前にトイレで戻しても、すべて水に流したつもりで、何食わぬ顔。

今日も、お客様と接したい。その思いが無遅刻・無欠勤へ。前夜39℃の熱があっても、一晩で全て発汗して解熱。雨の日、雪の日、台風の日。かまわなかった。

それでも、不安になることも。どうせ自分が接しても、他の人が対応しても、お客様にとっては何の関係もないこと。どうせ顔も覚えてもらえてないし、そもそももう二度と会わない人たちばかり・・・。自分の、お客様に少しでも喜んでもらいたい、笑顔になってもらいたい、という思いは届いていないのかもしれない。自分の努力はまったく無意味かもしれない、と。自分には何の見返りもないじゃないか、と。

だが逆に、そういった不安を払拭するために、さらに本気で取り組んだ。自分の与えられた仕事に。最大限のパフォーマンスを引き出せるように。




今日、そのアルバイト先に別れを告げた。お客様の中で、自分がいなくなったことに一人でも気付いてくる人がいれば、この3年半は大成功だったのではないかと思えるのだ。自分が全力を傾けて仕事をした、報いとなる・・・・。

思ったほど、あっさり終了した。もう、やりつくしたのかもしれない。まだまだ遣り残したことはあるのだが、そのとき出来る最善のことはしてきたつもりだ。大きな後悔はない。寂しさというものも感じなかった。徒歩圏内にバイト先はあり、いつでも顔を出せる。顔を出せば、相手してくれる元同僚がいる・・・そういう状況で完全な断絶は感じず、まだまだ自分の中では近い存在としてバイト先を認識できる。

3年半にもわたり雇ってくれた会社、迷惑をかけながらも温かく見守って下さった上司や同僚の方々、やりがいを与えてくださったお客様・・・感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。

なぜ行ったのか

2008年03月22日 | Weblog
と聞かれても、明確な答えはいまだに分からない。

横浜から小田原まで、東海道線だと乗り換えなし950円だが、海老名経由の相鉄線+小田急線で行けば740円。迷ったが、私鉄のお世話になることにする。

小田原から、箱根登山バス8:07発の箱根町行きバスを見送り、次の8:22発の箱根町行きの乗り込む。10分以上前の入線はありがたい。いすゞエルガのワンステップだが、当路線のような観光路線には不適だと思える。座席数が多く確保できず、それでも無理やり2人掛けを車両前部に設けてあるので非常に狭くなってしまっている。意外だったのはすでにPASMO・SUICAに対応していたこと。バス共通カードも取り扱っており、小田原~元箱根1150円の区間を払うためにバスカード1000円を購入しておく。1100円分使えるから実質1050円で乗車できるのだ。外国人2人組や高校の卒業旅行と思われる小団体も交わって、ほぼ満席の状態で出発。ほぼ同経路のはずの伊豆箱根バスは数名しか乗せずに出発しているのとは対照的だ。

平日の朝、ということもあり、山崎付近も流れは悪くなったもののそう混んではおらず、順調に箱根湯本駅に入る。乗客2名を乗せただけですぐに出発。湯元駅発便が直近に出たのかもしれない。ここからは山道が続くが、慣れているのだろう、運転士はカーブでも大きく減速することなく、見事なハンドルさばきでぐんぐん上がっていく。

そうして、9:17元箱根港に到着した。朝早く平日と言うこともあってか、人影はまばらで閑散としている。本来ならここの桟橋から海賊船が発着するが、今日は強風のため運休となっている影響もあるだろう。知らずに来た乗客は隣の箱根町の乗り場を案内されていた。

次は元箱根港9:50発の三島行き沼津東海登山バス。以前は沼津行きも出ていた記憶があるがいつの間にか三島までしか行かなくなっていた。三菱の中型車だが、5名ほどの乗客を乗せて出発。箱根町にも寄って、三島まで一般道をひたすら走る。途中のバス停からぽつぽつと乗車があるが、そのほとんどが「おはようございます」と運転士とやり取りしているのは印象的。乗客同士でも知り合いが多いようで、自分は少し疎外感・・・。

三嶋大社バス停で停車中、ふと三嶋大社のほうを見ると、駐車場に神奈中観光。100台も所有車両ないはずだが、どこか遠出するたびに見かけるのだ。以前は仙台や白川郷で。その大社から三島駅まで多少の渋滞があり、9分遅れて10:49に到着。ここから11:02発の島田行き東海道線に乗り換える。

次の沼津駅まで7分ほど揺られて下車。沼津・・・ここが今日の目的地、自分が1歳から6歳まで過ごした地だ。その後平塚・横浜と引っ越したが、小学校のとき1度訪れた以外、無縁であった。前々から今一度訪れてみたい、と思っていたが、なかなか決断できなかった。時間があるうちに最後行っておこう、と今日ついにやってきた。幼少の頃の記憶は断片的に残っている。その記憶をたどって懐かしさを楽しみたいと思ったし、昔の家がどうなっているのか好奇心が沸いたし、ただ単に沼津のバスの現況を見てみたいという気持ちもあったし・・・いや、ひょっとしたら何かを見た瞬間、自分の過去・現在を大きく変えるような事実が現れてくるのではないか・・・過去に何か問題があるとも思えなかったが、そういった期待もなくななかったかもしれない。

沼津駅、全体的な構造、どっちの改札を出たら良いか、バス乗り場の位置などは大体覚えていた。さすがに個別の建物の名前までは分からない。大きなマンションが建っていたりと、さすがに変化もしている。何せ丸々15年ぶりの訪問なのだから・・・。

昔の家へは歩いて行けなくもないが、バスを利用する。バス停は「霊山寺」今でもこの名前をよく覚えている。何行きに乗ればいいのか、それも覚えている。「牛臥循環」しかし、路線が変わったのか、霊山寺は通らないと言われ、温水プール行きに乗れと案内された。そうだ、思い出した、霊山寺を通るバスは2系統あってそのうちの一つは確かに温水プール行きであった。

11:40、温水プール行きバスに乗車。さっき三島駅で見た車両だ。ついに、15年前生活していた場所を訪れる・・・わくわくしてきた。と同時に大きく変わっていて記憶と一致しなかったらどうしようか、と。

杞憂に終わった。霊山寺バス停、昔と変わらずここで多くの客が降りる。自分の記憶と一致する光景が広がっていた。細部までは定かではないが、全体像は確かに今目の前の光景と一致しているのだ。しかし、残念ながら角っこにあったタバコ屋かなんかの売店はなくなって更地になっていた。ここでは、バスに乗ろうとしたとき小銭がなく、お金を崩してもらったのを覚えている。しかしその間にバスは行ってしまい、結局歩いて駅まで行くことになったのだ。

霊山寺バス停から昔の家はすぐ。そこにたどり着くまでの狭い一方通行の道もすぐに分かる。まるで今もここに暮らしているかのような自信のある足取りで我が家を目指すが・・・15年という歳月はそう短いものではなかった。家は跡形もなくなくなり、かわりに駐車場になっていた。自分が住んでいたときからそう新しくはなかったので仕方ないだろうか。

小さな家だった。1階建ての。2LDKかな。そしてその家の5~6倍くらいにも及ぶ庭があった。その庭には梅の木があり、親は梅酒を作っていた。その庭には松の木があり、なぜか分からないが、祖母が訪ねてくるときはその松の木の皮をむきながら外で待っていた。その庭に近所の白い犬が入ってきて、怖くなり全力疾走で庭を駆け抜けた。犬の名前は忘れた。その庭には近所の人がよくゴルフの練習にやってきていた。その庭には近所で工事があると車がたくさん止まった。

・・・残念だ。その庭をいまこの目で確かめることはできなくなってしまった。記憶の中だけの庭・・・。

家を後にする。次に向かうのは3年間通った幼稚園。途中の溝はまだ埋まっていない。ここで自分は友達とふざけていて転び、角に頭をぶつけて血を流した。幼稚園の場所も難なく分かった。しかし、ここも二階建てに改装されていて昔の面影はなくなっていた・・・が一つの遊具だけは昔のままだ。UFOを模したようなジャングルジム。燃料さえあれば・・・いつでもわれわれは宇宙に向け出発する準備は出来ていた。

そして文化センター。近所に公園がなく、よくここにきて幼稚園の友達と遊んだものだ。ただのスロープを滑り台代わりにしてズボンが真っ黒になっても滑り続けた。親は構わず立ち話に忙しかった。このスロープは何も変わることなく、そのまま残されていた。今見ると数歩で歩けてしまうそのスロープ、どれだけの時間をそこで費やして皆で笑ったのだろう。

駅まで歩く。道は覚えていないが、先程バスで来た時に覚えておいた。途中の一つのバス停。そう、ここで友達の家で遊んだ帰り、バスを待っていた。台風が近づいていて風がものすごく、雨も降ってきて・・・近くのマンションの階段で雨除けをしながら待った。やっと来たバスの車内は非常に混んでいて、湿気がすごく不快だった。

駅に着き、昼を食べ、13:36発の御殿場線御殿場行きに乗る。14:11御殿場駅着。14:40発の横浜・羽田空港行き小田急箱根高速バスに乗車。箱根桃源台始発で11人が先に乗り込んでおり、当バス停からも同じくらい乗り、20数名で出発。御殿場インターから東名に入り、横浜町田からバイパスを通り、横浜駅にはあっという間15:50には到着。今の生活圏に戻ってきてしまった。が、何の戸惑い・違和感もなく、いつもの店で買い物し、いつもの店で飲み会があり・・・

過去旅。これといって大きな発見はなかったが、懐かしさを楽しむには非常に面白かった。

中国・内モンゴル砂漠緑化活動6日間に参加して~3

2008年03月21日 | Weblog
明けて3日目。朝食をとり、午前中は宿の近くの木々の間伐。とげがある木があったり、高い枝、太い枝を切り落としたりと、想像以上に簡単ではない作業だった。切った枝は一箇所に集め、それをみんなで小さく切っていく。肥料にするのだそうだ。間伐した枝は相当な量になっており、それを小さく切るとさらにまた量が増えた感じになる。ただ単に枝を切っていく作業だが、こういった単純作業、実は大好き。ひたすら同じ作業、同じ作業・・・それでも、どうすればその作業がより効率化できるかを考えながらまた作業、作業・・・。早くなっていくにつれ自分の手の動かしように酔って来るのだ。

3時間ほど作業して、昼食まで2時間ほど自由時間。昨日と同じく、外のホースのシャワーで水浴びをする。文明から離れた生活にも、早くも何の違和感もなくなってきている。シャワーがなくたってホースからの水で十分、冷蔵庫がなくたって、水をはってそこに飲み物を入れておけばいい。

昼食後、昼寝の時間だが、それではもったいない、ということで、希望者で街を目指して歩くことに。30分ほど歩くと、小学校が見えてきた。このあたりは中国の中でも相当内陸で、よく分からないがモンゴル自治区らしく、モンゴル語が学校でも使用されているらしい。大きな街とまでは行かないにしても、その近くに売店があった。

そこで売られていたものとは・・・コーラやオレンジジュース、そしてアイスクリーム!それを見つけたわれわれは歓喜した。当地に来てから水分は日に2本ほど支給されるミネラルウォーター飲みで補ってきたので、そろそろ味のあるものが恋しくなってきていた。そしてこの暑い中のアイスクリーム!森永の製品が売られていたわけではなかったが、現地の製品の牛乳の味がやたら強いアイスクリーム、その味の格別だったこと!久々に食べた甘いものに一同沸き立った。幸せいっぱいになった。日本ではそこらじゅうで売っているアイスだが、その一つがここではどれだけ価値があったことか!それを得られるまでのプロセスが難儀であれば難儀であるほど、それを得たときの喜びは比例して大きくなることをまさに実感した。

異国の地の人間が複数、アイス一つで騒いでいるのはもちろん日常のことではないであろう、近くの小学校の生徒が何人か周りに集まってきた。それならば、と店員にデジカメを渡し、子どもを集め、みんなで記念撮影をすることに。デジカメを初めて見たのかもしれない。四角い枠の中に、目の前の光景が小さく写し出されているのを見た店員はなぜか笑い始め、頼りなげにシャッターを押す。後で日本に帰って現像してみたが、しっかり撮れていた。そして一緒に映った子どもたちの笑顔の素晴らしいこと!思わず何度もその写真を見返しては、つい自分も笑ってしまうほどであった。

再び宿舎に戻り、午後は宿舎で苗木を牛乳パックにつめて、次にこの宿舎を訪れる人が植える苗木を用意する。みんな土作業には慣れてきたようで、スコップを持つ姿も様になっている。

この作業が終わると、今日はバスで街まで連れて行ってくれるという。そこにコインシャワーがあるのだとか。バスで15分くらい走っただろうか。両脇にホテルだの飲食店だのスーパーだのが並ぶとおりに出た。建物はどれも1階建てくらいで非常に小振りだが、人は大勢いて大変にぎわっている。アジア、的な熱気を少し感じる。道にはバイクが多く、ロバが荷車を引いていたりする。まだまだ発展段階のようだ。シャワーは確かにあり、お湯もしっかり出た。数日振りのちゃんとしたシャワーを使い、みんなリフレッシュ。そして夜の遊び用に、とトランプを捜索。こんなところにあるのかな、と疑ったが、5分後にはそれをゲット。しかもプラ製のわりとしっかりしたもの。へー、意外と何でも揃うんだね。

よって夕食後はそのトランプを使い、大貧民。今夜も大学生のノリは健在。一日体を使った作業をしても元気そのもの。そしてまた満天の星空を眺め・・・日本では体験できないこと、見れないこと、感じれないことばかりで非常に有意義な一日だった。

東京都亜熱帯区~八丈島卒業旅行

2008年03月19日 | Weblog
都内へ卒業旅行へ行くとは誰が想像しただろうか。・・・集合場所は羽田空港朝8時第一ターミナルの3番の時計下。みんな搭乗券を持ってほら、9時のJALのフライトに間に合うようにそろそろ保安検査場を通り抜けて、なんだ、たった数時間飛行機に乗っただけで、えっ、もう沖縄!?すごい、あったかいねー!

的な卒業旅行を期待しておりましたよ。羽田へはYCATから行こうかな、それともやっぱり町田から乗って朝から気分上げちゃおっかな!ってところまで考えていたんだけどな・・・。

温泉、のんびり、予算2~3万以内、3日間という希望が多数を占め、熱海という小川が流れ始め、本流になる気配を見せつつあった中、要望を満たす旅先は・・・と考えたところ、自分が前々から行ってみたいと思っていた八丈島が急浮上。船を使えば安く、温泉もある・・・ってわけで、投票してもらったところ熱海の小川はいつの間にか蒸発してしまい、八丈島が全会一致で決定された。

東京から”南へ”300キロ弱、夏はダイビングへいく人も多数、きっと冬でも沖縄までは行かなくとも、身軽な服装で最後の思い出を作れるんじゃないか・・・自分だけでなくそう思った人も少なかったはずである。それはしかし1週間前から、天気が気になって仕方なく見始めた週間天気予報に打ち砕かれることになった。気温が東京と変わらない・・・しかも自分たちの行く日だけ雨の予報。そらテンションも上がりますわ!もう毎日携帯で天気チェック。11時と17時で更新されるから、更新されるたびに。結局、一時だけ晴れの予報に変わり自分の強運に感謝したが、前日には雨の予報に戻り、宿の人にも「さびれたボーリング場ならありますけどねぇ」なんていわれて雨対策全くなし!な状態で出発日。

当日は、まさかの対角線、一言も交わさず、目も合わさず!と言った予想はしていたとはいえ、やはりなんだかな~、なバイト先の食事会を途中退席して、横浜駅21:04発の東海道線に飛び乗り、浜松町駅21:30集合に綺麗に滑り込む。10人が集合し、すぐに竹芝桟橋まで歩いて移動し、乗船券を発券してもらう。

出発は22:30。5分前に銅鑼が鳴り響き、定刻に東京を後に。ここから11時間の後悔・・・航海が始まった。船室は2等和室。一人1畳分の広さが割り当てられていて、横になって寝ることが出来る。これで学割適用の往復14000円。レインボーブリッジをくぐり、横浜はどこかな~なんていっていたが寒さに耐えられず船室に戻る。窓がない、と思ったら、この階はもう海面下なんだね・・・。階段をかなり下ったところに船室がある。トランプをやっている元気なところもあったが、自分は酔いたくなかったので早めに就寝。その日は数時間しか寝ていなかったのですぐに眠れた。

夜中に背中にぬくもりを感じて目がさめる。何だと思ったら、空いてるところがたくさんあるのに律儀に自分の割り当てられたスペースで寝ていた隣のおっさんの手が乗っかってる。やば、大海原の船の中、という密室で求められても・・・でもそのまま拒否するのも失礼に当たるかなあ、と思い(完全に寝ぼけていた)そのままにしておいた。おっさん寝ていたから何にもなかったけどね。

そうして9:00に八丈島到着。途中の御蔵島に高波のため寄港できなかったので若干の早着である。たしかに明け方は結構揺れていた。右に大きく沈み、また戻り・・・独特のゆっくりした揺れを確かに感じた。自分は”くすりの北井”の酔い止めを飲んでいたので大丈夫だったが、数人グロッキーな状態での到着。

ついに着いた、八丈島!やはりコートがないと寒い・・・しかし曇っているものの幸いにも雨はやんでいた。宿の人が気を利かせて迎えに来てくれていた。5分ほど車に乗って宿に到着。八丈島での宿探しには苦労したが、安いことと海に近いことに魅力を感じて決定した。

さっそくレンタカー2台で八丈島の観光。ワゴンRとイプサム。島内の観光すべきスポットとその場所はガイドブックと複数のサイトから情報を得て頭に入れておいたが、どこに行くかはノープラン。天気や観光時間、その場のノリなどの要因で、計画はこの旅行になじまない、と考えたから。

外を見ると天気は回復傾向で、先程は中腹まで雲がかかっていた島の北側にある八丈富士も今は頂上まで綺麗に見える。天気がいいうちにさっそくそこにいくことに。山の真ん中あたりの高さのところに山を一周できる道路があり、その途中にふれあい牧場がある。そこに車を止め、八丈島の牛にご挨拶。ほれ、初心者マークを入れておいた袋なんて珍しいだろ、東京からの土産だぞ・・・って別に欲しくなかったよね。申し訳ない。風が強かったからさ・・・。

自慢じゃないけど、旅行へ行くときの準備は常に万端。必要なものを忘れたことなどほとんど、いや一度もないかもしれない。今回も、ひょっとしたら、と自動車学校からもらった初心者マークをあけない状態で持ってきていた。それがいきなりイップーに貼られることになるなんてね!笑!笑!

ここの展望台からは八丈島の中心部が良く見える。八丈島空港も全景が見渡せるのだ。離発着を綺麗に見れるだろうな、と思ったが一日3~4便しか飛んでいないので、残念ながらみることはできなかった。

次にアロエ園へ行くことに。赤い花の見頃が1~2月となっていて、道路の脇にも綺麗に咲いている。島の北側の道路をぐるっと走ってアロエ園へ。赤いアロエの花が一面に咲き乱れ、現世とは思えない美しい空間に、一同八丈島という楽園に来たことを心の底から良かったと涙ぐみ、一部は終の棲家はまさにここだと言い出す始末・・・ってわけには行かず、「アロエ園にも行こうかと考えてるんです」「ああ、あそこね・・・」と宿の人がことばをつまらせている理由がやっと分かったような、少しがっかりな場所であった。それでも看板の前でみんなで記念撮影。

時間的にそろそろ昼食の時間。宿の人から教えてもらっていた明日葉を使ったうどんが有名な店に行く。タヌキ、カレー、肉など様々な種類のうどんがあったが、どれも明日葉を使ったうどん。確かに麺の色が緑色だが、特に目立った味はしなかった。

昼食後、南原千畳海岸という八丈小島も見える景色のよい海岸へ行く。しかし、風が強く、ものすごい波しぶき。少し離れた場所にいても、容赦なく海水が飛んでくる。

そしてふるさと村へ移動。街の割と中心部を走るが八丈島の道はどこにいってもすいている。レンタカー会社の人が「ここでは信号に5台車が止まれば渋滞ですよ」と言っていたが、実際車が連なっているのをほとんど見る事はなかった。「この時間夕方のラッシュで道が込み合っております。護神交差点を先頭に8台、八丈富士登山入り口交差点を先頭に9台の渋滞・・・」なんてラジオ、流れないよな・・・。快適にドライブできるわけだが、「先ず止まれ」の精神を忘れてはなるまい。

ふるさと村ではちょうどイベントをやっていた。何でも去年八丈島を訪れた観光客がプレゼントに応募したらしく、その抽選会を行っていた。が、それを見ていたのは先に来ていた観光客2人だけで、その2人がちょうど立ち去ったところへ、10名の団体登場、カモ登場、ということで「君たち、サクラになってしまうけど、見ていってよ!」と言われ、抽選会を見ることに。「八丈島の”八”にちなんで八人の方に当選します」と司会者。応募用紙を引くのは二人の男女。引かれたはがきを司会者が読み上げる。「神奈川県横浜市からお越しの・・・」自分たちは全員初八丈島、誰も応募しておらず、当然誰も当たらないわけだが一応「お、来た来た横浜!」と盛り上げ、「港南区の」で「あ~あ」と盛り下げ、さくらの役目を果たしておいた。

ふるさと村の人が建物の中に招き入れてくれ、お茶を出してくれた。囲炉裏を囲って、暖まる中、この旅行最大のイベントが発生した。
応募用紙を引いていた男女と記念撮影して最後に入ったため最初のほうの会話を聞いてなかったが「ここへはどうやって来たの?」という話から始まったのだろう「あら、この風じゃあ運航されるかどうか。いま聞いてあげるわ」と携帯で船会社に電話。「欠航ですって」今夜の東京発八丈島行きがキャンセルされたらしい。と言うことは明日朝自分たちが乗る八丈島発便はこの船の折り返し便だから、合わせて欠航・・・。みんなに聞いてみると予定通り帰りたい人が多数いたため、飛行機で帰りたい旨を伝える。「それなら・・・」と今度は旅行代理店に電話し、空席を確認してくれ、さらには人数分の席を抑えてくれた。おばちゃんの機転の利いた行動に多謝である。

キツネに抓まれてるんじゃないか、という余韻も残ったが、ゆっくりお茶を飲んでいるわけにもいかなくなり、すぐに航空券を発券してもらうべく、コーツーという現地の旅行代理店へ。明日の17:30の羽田空港行きを購入。現地の人たちの強い要望で設定されたと言う特割1で11700円。旅行にトラブルはつき物だが、ここまで大きく変更が発生するとは。

気を取り直して観光再開。島の西側の道路を通って、今度は島の南部を目指す。わりと広い道路が整備されており、走りやすい。メインの道路を右折し、狭い道路へ。裏見が滝まで車を止めて5~10分程度歩く。木々がうっそうとしていて、湿度が高く薄暗い。名前の通り滝を裏から見れる。TDLジャングルクルーズのクルーが間違えて滝の裏側に船を進めてしまったときのセリフ「前から見たときと変わりませーん」がまさに実現されたときであったが、滝の流れる音、緑の木々は都会ではそう見聞できないものであり、自然の真っ只中にいることも実感する。

さらに奥まで進み、きらめきの湯、という足湯に到着。”温泉”という要望はこれで果たせたはず。目の前には波の高い海が広がっており、絶好のロケーション。源泉が遠いのか、湯の温度はかなり低かったが、10人仲良く横一列に並んでしばしゆっくり過ごす。これで夕陽でも沈めば最高だったが、時間は合っていても生憎方角が少しずれていた。本日の日没時刻は17:32。

時刻もちょうど17:30を回ったので観光は終了し、街の中心部へ戻ることに。中心部と言っても、まとまった商店街があるわけではなく、店が道の脇にぽつぽつとあるだけで、ジャスコなどの大型商店も一件もないようだ。コンビニやドトールなどの喫茶店も皆無。バス路線は町営が担っているようだが、車庫には車両が多くおかれていたが、実際にはほとんどすれ違わなかった。人口は8500人くらいというが、本当にそんなに住んでいるのかと疑いたくなるほど車や人の通りは少ない。時期的に閑散期のため観光客にもほとんど出くわさなかった。全体的に非常にひっそりとしているが、東京都であるので車のナンバーは品川。なんか非常に違和感があった。

八丈スーパーと言うところで夜の買出し。夜の19時には閉店すると言うから夕食前に寄っておく。酒やらつまみやらを購入。全日本空輸の就航地だからかEdyでも支払い可能になっていた。クレジットカードでも。先程の航空券購入で現金が危うくなっていたので、使ってみる。

そしてこれまた宿の人に教えてもらった地元の料理屋で夕食。八丈島の名物、しま寿司や刺身、そしてくさやピザなどを注文。最後に明日葉シフォンケーキを出してくれ、一人1600円くらいとそれほど高くない。八丈島の名産品を一気に制覇できた。

一旦宿に戻り、希望者だけで島の南部のふれあいの湯という温泉にイプサムで行く。メイン道路から少し入ったところにその施設はあり、地元の爺さん婆さんたちで夜21時くらいでもわりとにぎわっていた。一人300円と言う破格の安さ。一人の爺さんが「明日の船は欠航でしょ?この島は来たはいいけど出れなくなるから怖いよね~。明日も帰れなかったら、またこの温泉にいらっしゃい!ははは!」なんてこの島への永住をすすめてくる。温泉は温かく、体が冷え切っていたので最高だった。幸せ・・・。先程の爺さんとこの島で暮らすことも悪くないような気になってくるな。

宿に戻る。気温は低く、エアコンを付けないと寒いほど。一部屋に集まり、八丈スーパーで購入したものを消費する。

翌朝は7時くらいに朝食。その後レンタカーを返却し、飛行機の出発まで延長した部屋で過ごす。旅行の最終日はだらだらすることに慣れているわれわれの団体はここでもその能力を遺憾なく発揮し、うまく時間をつぶす。12時前に昼を食べるために外へ。近くのマナティという喫茶店まで10分ほど歩く。ごくごく一般的なメニューしかなかったが、美味しかった。再び宿に戻り、15時前には宿を出発。空港まではたったの10分くらい。

16:30の羽田空港行きの搭乗客もまだロビーにいて少々込み合っている。と自動販売機の前で財布発見。航空カウンターに届けると、ちょうど落とし主が現れた。その場でやたら丁寧に礼を言われたが、この主はなんとその後空港の売店で売られていた饅頭の土産を二箱も買って来て渡してくれた。いや、こんなに・・・逆に申し訳ない気もしたが、みんなで美味しくいただきまして、感謝感謝である。

ロビーで所在無く出発を待ち、17:30の定刻より使用機材の到着遅れの影響で10分ほど遅れて離陸。条件付運航だったが何とか無事に八丈島を出発できた。船が欠航しているにも関わらず機内は7割ほどの埋まりでそれほど混んではいない。あっという間40くらいで羽田空港に到着。往路船で11時間かけたのはいったいなんだったんだろうね、ライト兄弟さん。船より5千円ほど高かったが、誰も文句を言う者はいなかった。二通りの手段で行き来できて個人的には満足。

羽田空港で夕食をとり、”羽田空港からの王道”20:06発のYCAT行き京急リムジンバスに乗車。日曜で通勤需要が欠けた為か、40人も乗っていなかった。ものの30分でYCAT着。こうして、八丈島旅行は幕を閉じた。

個人的にはメンバーにも恵まれ非常に楽しい旅行だった。短い旅行期間にも関わらず、見るところは見た、食べるものは食べた、することはした、と言えるのではないだろうか。車も無事故無違反で乗り切った。安全運転に努めてくれたドライバーには感謝。このメンバーでまたいつか旅行できればな・・・嫌とか言われちゃうかな・・・定年後、まだみんな元気でつながりがあって、もう八丈島じゃなくてもいいから、またみんなでどこかへ行こうって話にはならないかな・・・。

でも実際のところ、不思議なことにあまりさびしい気持ちにはならなかった。明日は早朝からアルバイトがあり、その後すぐに成田からアメリカに飛ぶ。気持ちは早くもそちらへ傾きつつあった。バイト・旅行大好き人間ですからね・・・。


中国・内モンゴル砂漠緑化活動6日間に参加して~2

2008年03月19日 | Weblog
昨夜は移動の疲れですぐに眠ってしまい、夜が明けて6時に起床。朝早いな・・・。食堂で朝食。よく分からない蒸したパンと、ヨーグルトなどなど。それから7時に宿を出発する。昨日のマイクロバスではなく、3台の北京ジープといわれる車に乗り込む。現地の人が運転してくれる。中国語かモンゴル語かよく分からないが、何かカセットテープを聴いている。荒々しく飛ばすなーと思い、メーターを見てみると、なんだたったの0キロしか出てない・・・ってメーター壊れてるのね。まあ道路に何の標識も出てないし、特に制限速度もないのかもしれない。

30分くらい走って、いよいよこのツアーのメインイベント、植林活動をする。場所は砂漠だが、所々に緑もあり、砂嵐が巻き起こるような本格的な砂漠ではない。

ここで、苗木を植える作業がミッション。あらかじめ苗木は植えるべき場所に置いてあり、その苗木を各人が植える。1メートルぐらいの深さをシャベルで穴を作るが、砂漠の砂だけあって、すぐにまわりが崩れ落ちてきてなかなか掘り進まない。掘った穴に、苗木を入れ、そこにバケツで汲んできた水を流し込み、さらにその周りに生えている草を抜き適当な大きさに切って一緒に埋める。養分になるという。

掘ったり、バケツに水をくみに行ったりとわりと肉体労働だが、自分の手で小さな木を植えると非常に親しみがわき、うまく大きくなってくれという気持ちが自然にわいてきて特に苦痛は感じない。現地の人も混じって作業をする。たまに何かを話しかけてくるがまったく何を言っているのかわからず、笑ってうなずいて反応することしかできない。それでもなんとなく楽しい。彼らは柄のついたりんごを手のひらサイズまで小さくした日本では見たことのない果物をたくさん持っており、それを分けてくれる。味はそのままりんごで美味しい。

2時間くらい作業をして終了。今は確かに砂だらけの土地だが、いつか緑豊かな土地になって欲しいと願わずにはいられない。そのうちまた訪れて、今日の成果を確かめてみたいと思った。

宿に戻ると昼食まで少し時間がある。この宿、実はシャワーがなく、だれも風呂に入っていない。近くに街もない。あるのは外に設置してある地下水をくみ上げるポンプから出てくるホースからの水だけ・・・。仕方ない、ということでこれで髪の毛を洗うことに。一人の人にホースを持ってもらい、その下で水をかぶる。地下水だからものすごく冷たいが、気温は暑いのでけっこう気持ちいい。男女関係なく、この即席シャワーでみんな洗髪をした。普段文明の世界で暮らしていてシャワーに困ったことはなかったが、それがなくてもなんとかなるもんだなあ、と。みんな笑いながら楽しく青空シャワーを楽しんだ。ドライヤーがなくても、もともと乾燥地帯なので外で風に当たっているだけですぐに乾いてしまった。

昼食の後は、2時間ほど昼寝の時間があり、それから「砂漠セミナー」があった。この宿は日本人一人によって運営されていて、その人が砂漠についてお話してくれる。印象的だったのは、数多くの団体が植林をしているが、彼らが主張するのは”何本植えたか”であるが、それより重要なのは”何ヘクタール植えたか”である、ということ。数よりもいかにうまく植えて広大な土地を緑化できたか、これがより注視されるべき事項であるという。うまく緑化できると、作物も育ち、それを売ることもできるという。しかし街に通じる道路が整備されておらず、その機会がなかなか得られない。このあたりは現地の政府の対応が期待されるところであろう。

また、この自分が参加しているツアーの緑化という目的だが、このツアーの参加者11人が来なくても先程の活動の労働量だったら現地で十分まかなえそうで、われわれのツアーの大きな使命とはならなさそうだ、とも感じていたが、このような活動を若いうちにすることで、砂漠に興味を持ってもらい、今後の生活に何らかの変化をもたらすこと、あるいはこの宿の主人のように老後の生活を緑化という事業にあてることを考えるきっかけにすること、で十分にこのツアーの意義はあるということであった。確かに、このツアーへの参加で砂漠という現実を目の当たりにし、興味を抱かないわけにはいかなくなった。テレビや本から受け取る情報ではなく、生の自分で得た情報は鮮烈だ。

夕食後は自由時間。たった二日間しかまだ時間を共にしていない11人のメンバーだが、すでに相当打ち解けており、一部屋に集まってゲーム(山手線ゲームとかね・・・)をしたりと異国の地にいながら普段の大学生のノリを取り戻す。部屋の外に出ると、空には日本では見たことのないようなおびただしい数の星・・・首が痛くなるまでみんなで見上げた。流れ星も無数に見られたようだが、なぜだか自分の目では確認できなかった。

こういう場でお決まりなのが、コイバナ!させられましたとも、自分の情けないお話を。このたびが始まるときに思ったんだ。いつもゼミやサークルでいるポジション、というかキャラクター、たった6日間ではばれないだろうと、その位置に収まることはないだろう、と。この人たちすごい、2日間で見破ってる・・・!