BUZ LIFE

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式根島・新島GW旅行

2019年05月05日 | Weblog

今年のGWは10連休、最初の3日間を使い、伊豆大島の先にある式根島・新島へ旅行。

浜松町駅6:30に設定した友人との待ち合わせは、前夜からの酒が抜けきらずトイレに3回くらいこもったため、無連絡で6:37着。何も文句を言わず、ただ待っていてくれた友人に感謝。
竹芝桟橋7:20発の東海汽船ジェット船に乗り、いざ出発。高速船のためほとんど揺れず、二日酔いに船酔いが加わることはなく、ずっと寝て大人しく過ごす。
途中、大島に寄港しながらも、10時ちょうどには式根島に到着。新幹線で言えば、ちょうど新大阪くらいで、離島へ来ることができるのだ。

予約していた宿「吉野家」の人が港で出迎えてくれるのが、なんとも島の旅の始まりらしい。車で5分ほどで宿到着、島にいながらにして品川ナンバーというのが違和感だが、ここは確かに東京都。
宿ではとても明るい人が出迎えてくれた。すぐに部屋に案内してくれ、とりあえずどこに行くか作戦会議。と、トランプが全枚数そろっているか確認すべく、七並べ。まるで修学旅行。

式根島は人口500人程度の小さな島。自転車を借りれば、ぐるっと一周できたが、島内に信号は一つしかなく、メイン通りと思しき通りも車はほとんど通らない。
が、海に面した露天風呂があったり、海を眺めることのできる展望台があったり、と自然を満喫できるスポットが数多くあり、見どころは多かった。そして島ののんびりとした雰囲気には癒し効果抜群。
夜は満点の星空。まあ、アメリカのグランドキャニオンで観た星空ほどは感動しなかったものの、誰もいない海岸で観る星空はそれはそれで一興。
2日目にはシーカヤックも体験。正直、泳げないし、海は眺めるもの、と決めている中、動力も何もない小さな船で海に出ることには相当な抵抗感があった。でもいざ漕ぎ出せば、意外と進むし思う方向に行くし、で予想よりは楽しめたが、それでも時折高い波が来て転覆しそうになると、さすがに怖かった。やはりたまに転覆することがあるらしいが、「ライフジャケット着用しているから、落ちてもみな冷静だよ」とのこと。

2日目午後には高速ジェット船に10分だけ乗船し、新島へ移動。ここでも宿の迎えが来ていたが、「あれ2名のイトウさんではなかったっけ?」と。それでも「とりあえず行こう」と言われ、宿へ。無事到着も、やはり自分の名前の4名での予約は表になく、宿主が困り果てる。食堂に通され、「ちょっと待って」と。旅にトラブルはつきものだが、宿の予約が間違っていたことはこれまでに経験がない。30分以上待つ間、念のためネットで空室を検索するもヒットはなし。そもそも3か月ほど前に予約した際も、ネットでは一切検索が引っかからず、ここも観光協会のHPを通じて電話で予約していた。「最悪、船の待合所で夜を明かすか」とまで考えていたが、「部屋が用意できた」とのこと。
しかしそこは客室ではなく、従業員か誰かの部屋。「今日は東京に出ていないから」と急きょ私物を押し入れに押し込み、我々用にしつらえてくれたようだ。まるで誰かの友人宅に来たような感覚。これもまた貴重な経験か。

新島は3日目にレンタカーで周遊。式根島から比べれば相当に大きな島、という感覚。3階建の警察署を観て、一同感動するくらい。そしてなぜか同行者は、式根島への哀愁が強まって行ったようだ。人や車が多い新島が、なぜか居心地の悪さを感じさせるようだが、私は大都会・横浜への気持ちが高まっていた。たまに来るからいいのであって、コンビニや喫茶店などがない生活は、もはや成り立たない。

幸い、16時には新島を離れる高速ジェット船に乗ることができた。昨日の宿の出迎えの人が来ていたが、今日は誰とも出会えず一人で帰って行っていた。ここの宿の予約管理がとても心配だ。
竹芝桟橋には18:30到着。本当にあっという間。みな「やはりここが我々の暮らす街だよね。もう違和感ない」と歩いてすぐの浜松町駅までの道中でそんな会話が出ていた。

GWのハイシーズンでも往復15,000円程度と割安なうえ、離島という非日常を味わえる式根島・新島は旅の選択肢として十分にあり、であろう。なんといっても、島の人情味あふれる雰囲気が、心にやさしい。本当のシーズンは夏でのマリンスポーツらしい。島の人は「また夏においで」と決まって口にしていた。また機会があれば、訪れよう。



「平成」から「令和」へ

2019年05月02日 | Weblog

新元号の幕開けだ。もっとも、その瞬間は10連休とはいえ生活リズムを崩すまいと、さっさと寝てしまっていた。
5月1日は6時に起きて、ニュースを見入る。こんな日は今後数十年間はないだろうから。
それにしても、やはり「戦争」のなかった平成日本を過ごすことができたのは、大変に喜ばしいことである。

平成は、まさに自分の人生と重なる期間である。幼少期から、小中高大学生、そして社会人(2社)。
幼稚園は、妹の影響を受けて、男の子と遊ぶより女の子と遊ぶ機会の方が多かったと記憶している。好きな色もピンク。
小学校1年の時にお引越し。近所の友人と遊ぶ機会に恵まれながらも、4年生のころから少数派の受験組となり、塾通いのため地元の友人とは限られた交際に。
結果合格した中高一貫校は男子校。中学時代は所属するグループを間違え、友だち作りに苦労したが、高校からはようやく適温なメンバーに恵まれた。特に、生徒会を通じて他校の生徒との交流を経験したことから、人と時間を過ごすことに面白みを覚えた気がする。
大学時代は、バイト・サークル・旅行と月並みな内容も、どれも卒業後にも色濃く影響を残すほどに。
社会人になって、人生で初めての挫折というか苦痛を味わう。何とか耐え忍んだものの、転職を決意した。

それにしても、本来ベースとなる家庭の崩壊具合たるや。物心ついたころから崩壊していたため、それが普通であると思っていて、あっさりそのことを周りに話すと周りに驚かれることに驚いた。そんなに異常なことなのか。確かに家族全員で笑ったことなど一度もない。私の人格形成に少なからず影響を与えたであろう。すなわち、平穏を願うあまりに、自分を抑え、周囲に極力合わせようと過度に努力してきた。自分を見失い、いつか本当にいなくなってしまうのではないか、と心配になる。そして、私は人を愛したり、愛されたりということ経験が出来ずに平成を過ごしてしまった。ふつうは家庭の中で感じられるものだったのだろうか。

それでも、唯一自分を特徴付けたのは、バスであろう。あまりほめられた趣味ではないため、ある程度親しくなった限られた人にしか話さないようにしているが、バスに乗ったり見たりすることはとても楽しく、喜びを感じる瞬間であった。しかし、最近はそのバスもコモディティ化が進み、果たして生涯の趣味として成立するか、大変に不安である。

そうすると、生きていくこと自体が不安になる。ある時まで、2009年初までは、そう、死んでしまいたい、などと軽く思ったりもしたが、今はそうは思わないようにしている。平成で、もっとも悲しい出来事であった。死んでしまうことほど、悲しいことはなく、取り返しのつかないことはない。しかし、自分も最期を迎えるときには、ついにまた再会できるのかもしれない、と思うと、いつか来るその日もまた悪くはないとも感じられるのは何とも不思議な体験である。

さて、令和、まずは愛せる人を見つけられるか。誰かに愛される人になれるか。そして、今の仕事を全うできるか。善良な市民でいられるか。簡単なようで難しい。新元号となった今だからこそ、気持ちを新たにしておきたい。

平成最終営業日

2019年05月01日 | Weblog
10連休前だというのに、全く浮かれ気分ではない。
公私ともに、さまざまな問題点を抱えているのがその要因だろう。

とはいえ、終わってしまえばしばらく少なくとも会社のことは忘れられる・・・と飲み会に行くと、出てくる日本酒を隣のお姉さまに言われるがまま飲み続けていたら、久々に記憶喪失。
店の途中から、ほとんど記憶なし。ただ一か所、後輩を地元駅で見かけたのを断片的に覚えているのだが、だとすると送ってくれたんだろう。大変申し訳ないことをしてしまった。

翌朝から旅行で、朝5時起床、だけは家に帰ってからも騒いでいたようで、5時に起こされ、酔いがさめきらないまま途中だった荷造りを何とか終わらせて出発。

平成最終営業日に、かつてないほど酔ってしまったが、新時代はもっと大人しく過ごそうと思う。