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大阪しぐれ♪

2012-09-19 01:29:58 | 日記

いま朝になって、というかもう昼ごはんの時間になってしまいますけど、一度書いたものを修整しています。修正ではないですよね。改稿とか推敲ということばは気がひけるの使えませんけど、修整もなんだか美容整形をイメージした感じでピッタリとしません。ようするに、書き方直れ!というわけなのです。ちぐはぐな文章はいつもどおりなので仕方ないです。←深夜にはできなかった絵文字が入りました。

今、都はるみさんの♪一人で生きてくなんて、できないと~♪の「大阪しぐれ」http://9oo.jp/fsQR3を聞きながらこのブログを書きはじめました。すみません、少しよっているみたいです。ほんとうは今頃、su-は伊豆に行っていたはずなのです。一年に一回のシルバー仲間の集まりを、あるホテルを借り切ってやっているのです。でも今日はある用事があったので不参加でした。

いま曲は、♪あなた変りはないですか、日ごと寒さがつのります。着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでます。おんな心の…♪「北の宿から」なんです。この歌について面白いコメントが書き込まれています。歌謡界の大御所であった故・淡屋のぶ子さんがこの歌を聞いて、「着てもらえないセーターなんて編むんじゃない」と仰ったそうなのです。ほんとにそうですよね。無駄なことだと分っているのだったら、するだけ時間のムダなことは確かなことというわけです。でも思うんですけど、このいま自分が生きていることのなかで、ムダではないという時間はどれだけあるのかと考えてしまいます。たしかパスカルは『パンセ』のなかで、「壮絶なまでの気晴らしこそが人生だ、という生き方を人間はしているのだ」ということをくり返していっていたように思います。こんな回りくどい言い方ではないですけど。要するに、大方のひとの人生の大方の時間は壮絶なムダ・気晴らしの連続である、のではないかということなのでしょう。

音源があまり良くなく少し?ですけど、画面はまさしく抜群の”はるみちゃん”なんです。万が一にもお暇があったらぜひご視聴くださいhttp://9oo.jp/cGL07「北の宿から」です。ユーチューブのコメントには、「「未練でしょうか」ではなく「未練でしょう」と自分で答えを出す­、自立した新しい女性像のつもりで小林・阿久コンビが作った歌だと­、2011/10/23の朝日新聞日曜版の特集で読みました」とありました。

歌詞の2番は、「吹雪まじりに 汽車の音 すすり泣くよに 聞こえます お酒ならべて ただ一人 涙唄など 歌います 女心の 未練でしょう あなた恋しい 北の宿」。この歌は、小林・阿久の超、名コンビによって作られた、”自立した新しい女性像”をイメージした作品というわけなのですね。朝日紙のその特集記事はいつも読んでいます。そして読むたびに、ああそういうことなんだ!と教えられるのです。でもすぐに忘れてしまうわけです。ホントウにこまったものです。耐え忍ぶ女の歌としてヒットしたのは誤解の産物だと・・・。

それから、上記のURL短縮されているの気がつきましたでしょうか。これって凄いとおもいませんか、ぼく的にはですけど。じつは、ぼくが前に書いたこのブログのURLがあまりに長いので数日前にグーグルで調べたのです。そうしたら、短縮するためのソフトといっていいのかどうか分かりませんけど、便利なものがたくさんあるのでした。いまぼくが利用しているのはgooのものです。使い方が簡単だし使いでがよいと思います。コピペを二回くり返すだけですから。http://9oo.jp/

上記のはるみちゃんもそうなのですけど、ぼくはPCをする時にはよく、ユーチューブに作ってある「お気に入り」を聞きながらやります。いままさにそうなのです。ユーチューブには歌謡曲からクラシック、癒し系のBGMから講演まで、なんでもそろっていて誠に有難いわけです。癒し系のBGMにはすごいのがあります。例えば、海辺の波の音を5時間ちかく延々とやってくれているのもあるんです。たしか8時間とか10数時間のBGM系もあったとおもいます。皆さんにもいろんなPCの使いかたがあると思います。以前イワサキさんにお聞きしたときには、海の向こうのクラシックを流しているときもあると、たしかお聞きしたように記憶してますけど、酔っているときの記憶はあまりあてになりませんですね。

いま曲は、…メドレーなので曲名はわからないんですけど、”小春~!あんた、将棋!”と唄ってくれています。ぼくは都さんとは一夜を共にしたことがあるということは、前に書いたことがあるとおもいます。最近また月刊誌で特集が組まれている芥川賞作家の故・中上健次さんには、都さんのことをかいた新書があります。二人は新宿2丁目の呑み仲間でもあり親しい関係だったのでしょう。数年前に、都さんのパートナーは自死されたわけですけど、この方の存在は都さんにとってとてつもなく大きかったわけです。多分この方の存在は都さんにとって、兄であり先生であり、夫であり同志でもあったのではないかと。そして、中上さんが生きていたらこんなことにはならなかったかもしれないのではないかとか、勝手な妄想をしてしまうのですが。

参議院議員のあの有田さんも都さんに一書を捧げています。ぼくは読んではいないのですけど。有田さんは心根の確かな方ではないかなと思います。以前ブログやツイッターを読んでいたこともあるのです。ぼくも大好きな”テレサ・テン”についても一書を捧げています。それにしても、民主党はどうなるのでしょうか。この党のことをおもうと”矛盾”ということばを連想してしまうのですが、大いなる的外れ!

それにしても、ぼくの連想癖の連鎖は尽きることがないというわけです。いつもながら他の人にはまったくもってどうでもよいことばかりなのですけど。ただぼくにとっての救いは、以前このブログにtagawaさんが、とにかくここではなにを書いてもいいのです、といわれていたことばなのです。たしか、そうだったとおもうのですけど

それから、ついでのことですけど、このPCには「BOSE」のPC用スピーカーを繋いでいます。TVに繋いであるサラウンドの3.1chにも接続できますけど、これで充分です。皆さんはもっと性能がよいスピーカーを使っているのでしょうか。ぼくの音響機器とのつき合いは、ご幼少のみぎりの”蓄音機”から中学生からこ高校時の”ステレオ”とテープレコーダー”。そして結婚してからの、何というのか今少し酔っていているせいなのか言葉が思いうかびませんけど、ヤマハの木製のスピーカーとビクター?のアンプとなんとかのセットが今は懐かしいのです。鎌倉から帰ったときからかその後だったのか記憶にないのですけど、今は影も形もありません。

ぼくはじつは、さっき目が覚めたばかりなのです。ある集まりで呑んできてから寝てしまったのでした。きょうはというか昨日からいまにかけて連ちゃん酒なのです。

<以下の文章は書き直したいけど、面倒なのでこのままにします。書き直したら全部書き変えてしまいそうですし、一昨日からお天気の機嫌が悪いのでテニスや買物ができるかどうか微妙な時間帯なのです。でも、明日は晴れそうです。夏野菜などもこの間の雨で大分生き返ったはずです。>

しかし、ほんとうのことをいいますと、書きたいことがありますのです。二つあります。しかしこうした場合、ふたつと書くのか二つと書いたらいいのか、任意なのでしょうけどね。自己責任で自分が書くわけですから、じぶんの主観にあう選択をすればよいということでしょうか。ここで文法ということばを聞かされたら、なにも書くことができなくなってしまうわけですけど。グーグルするのも面倒です。

その書きたいことというのは、きのう読んだ雑誌の記事と、朝日紙の読書欄に書かれていた書評に触発されて買った本についてなのです。その記事というのは、「アエラ」今週号の”コレステロール「下げなくていい」”長谷川熙さん。そしてその本というのは、『街場の文体論』内田樹さんなのです。

とにかくこのアエラの記事と内田さんの本は、su-にとっては刺戟的な内容でした。でも、もう、また眠たくなってきてしまいました。大事ことなので、あとで書いた方が後悔しなくてすむような気がします。一応、朝方検索したURLは書いておきます。コレステロールですけど、ここにアエラの紹介記事の概要をURLしたのですが、友人から指摘され(報道系のサイトの更新は定期的にされ、時間の経過で他の記事に置き換えられます)他のURLに替えました。http://9oo.jp/etB02 http://oo.jp/eloDW 同じブログ内に関連記事が41件ありますので、もし興味がおありでしたらどうぞ。

内田先生の本については、http://9oo.jp/prOV5。ここにはカスタマーレビューが5件書き込まれていますけど、どうにも響いてこないですね。しかしとにかく、新聞の書評を書かれていた鷲田先生のことばが刺戟的でした。不謹慎ないいかたですけど、アジびらとしたら至上の内容ではないかと思うのです。生意気な言い方ですけどそう思ってしまうのですからしかたないわけです。しかしここで、「俺だって人間だ!」なのです。このことばは昔、”吉本隆明25時”というこのブログにもかいたことがあるイベントで、いま法政の教授をしている名前がでてこない X さんが中上さんとの掛け合いの中で、酔っぱらいながらおもわず発した言葉なのです。なんだか、いまフットおもわずでてきたことばなのです。そうなのです、「みんな人間。たかが人間、されど、人間。」なのでありますよね。お互いの間でなにかが優れていたり劣っていたりとか、そんなことごとはある意味まったくもってどうってこたーないよ、というわけです。しかし、じゃーとにかく、ほんとうの問題はなんなのだ、というわけでもあります。← ここに”スミマセン”の絵文字を入れたいのですけど、クリックすると文頭にいってしまうのです。なぜでしょうか?こんなことは過去になかったのですけど、意地悪はやめてほしい(-。-)y-゜゜゜

内田さんhttp://9oo.jp/aKV07についてはブログやツイッターでときどき追いかけていたり、本も数冊はあるのです。でもあまり響いてくるというわけでもなかったのです。でもこの本を全部ではないのですけど、拾い読みをするなかで感動してしまいました。この本は、内田先生が昨年退職するまえ半年間の講義録ともいえるものなんです。この本の第1講は、「言語にとって愛とは何か?」なのです。あの吉本さんの「言語にとって美とは何か」を連想させてくださいましけど、内容は刺戟的です。女子大生に向かって語られたことばなのでやさしい文章になっていて、でもぼくの理解の程度はともかく興味を集中させていただけるわけです。はじめと真ん中と終りとを読んだのですけど、なんだかよくわからないけれど、神学(聖書)や国学や、多くの学問の根っこに通底している問題であるのだなあといいうことも感じたのです。ぼくは構造主義やポスト・モダンもほとんど分らないんですけど、でもこの本と共に少し学習できたら少しは目が開かれることがでてくるかもしれないのかななどとおもったりするわけです。そしてこの本には、いろいろなことについて、そうなんだ!といった形で教えて頂けることがたくさんあります。このいろいろなことというのも人それぞれだから、一概にはいえないわけですけど。

でも、どうして絵文字が文頭にしか入れることができないのでしょうか?

 


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