この、はじめて見るアカゲラ、よく撮れている綺麗な写真ですね。
クマゲラという名前はどこかで聞いたことがあります。でも、アカゲラという名前ははじめてです。
アカゲラのドラミングと鳴き声を聞いてみました。
とつぜんですけど、まだ生きてま~す!
なんていった感じなのです。すこし酔っているせいかもしれませんけど、でもそうなんですよね。
その、仕事やいろいろな場所でそれなりににがんばっているかたがたには、なんだかまたいい加減で無責任な
むだ口をたたいているよ、ということなのですけど。
でも、せっかくこうしたなんでもつぶやいてもいい場所をつくっていただいたわけでもあります。
ですので、お言葉に甘えさせていただくという次第なのですよね。
小保方さん、お元気でしょうか。
博士号をいただいた母校には、その辞退届を送られたというニュースもありました。
でも学則ではそれはできないということなのでしょうか。なんだか権威的な感じもしますけど、大学当局としては、
それは当方が決めることだよ、ということなのでしょうか。
しかし、とにかく、意味不明な者でしかないぼくは思うのです。(このことばは愛用語なので)
そんなことをいっても大学当局さん、出願と結果辞退というのも出願者の自由なのではないでしょうか。
いま世間では、そもそも博士論文の審査自体が、信じがたいほどにいかげんであったのではないかという
疑惑がもっぱらもたれているみたいです。
でも、大学当局としては、審査の過程を検証した後に決めさせていただくのだよ、ということなのでしょうか。
しかし、それにしても、 小保方さんが心配です。ご家族の方々はもっとしんぱいです。
しかし、意味不明なぼくは、ただ、ケセラセラ!だとおもうのです。
…賽は投げられた!
なんでもかんでもあっけらかんと、すっきりと、「事実は小説よりも奇なり」ではないかと。
新約聖書が書かれたギリシャ語では、事実・真実・現実・誠実・信仰ということばは、ピスチスという言葉
の意味なのだそうです…?
小保方さんの母校の教員でもある高橋清彦さんは、数日前のブログで以下のように言われていて、
ほんとうにそうなんだろうなと思いました。
池田清彦@IkedaKiyohiko理研が中間報告。 STAP騒動はすこしは収まるのかしら。 科学的事実としての問題は2つしかない。
池田清彦@IkedaKiyohiko ひとつはあの方法で本当に万能細胞が作れるのか否か。 次は、作れたとしてどんな細胞から作られたのか。
T細胞から、それとも、それ以外の細胞から。 あとは、科学としては些末な問題にすぎない。
これ以前のツイートでは、
「twitterで説明するのは困難だけど、 T細胞以外の細胞からできたのか、 それとも、TCRの遺伝子
がもとに戻ったか。 後者だとしたら免疫学のパラダイムがひっくり返ります」といわれています。
きのう、吉本隆明さんを偲ぶ「第二回横超忌」に参加してきました。
吉本さん関係の集まりに出たのはひさしぶりでした。この集まりについては全くといっていいほど主催者の
周知活動や報道もされてなかったのです。
しかし、 開催時間を間違えたり、グーグルの地図でビルの場所の確認が不十分であったために、辿りつく
までにだいぶあたふたとしてしまったのでした。
関西の大学の東京校で50人ほどの集まりでした。参加者の皆さんは、殆どが出席名簿と名札が用意され
ている方々ばかりで、肩書のない無名なひとは、ぼく+おひとりさま、くらいといった気づかれのする場所
でもありました。ですから、ぼくなどは、まったく意味不明な参加者でもあったのでした
しかし、冷たい視線をいただくこともなく、あたたかく懐かしい感じがいっぱいの楽しいあつまりでした。
しかし、そこで呑んだ「横超」という純米酒にはまいりました。昼間の冷酒はあとでキイテくるんですよね。
そんなに大した量ではなかったはずなのですけど、それでも隣り合わせた方についでいただいたりして、
そこここの1升瓶がだいぶ減っていたのは確かでした。
そして、そこに用意されてあった「越の寒梅」と呑み比べても負けない味でしたね。
このお酒「横超」の横超という言葉は、親鸞の使われたことばとして有名で、吉本さんの親鸞論のなか
では、往相・還相とともに中核的な概念のことばでもあるわけです。
上野千鶴子さんがこの横超について、オリジナルで空前絶後の概念だといわれていたように思いましたけど、
でも、親鸞の教義の中でいわれていることばのはずです。
純米原酒なので17度くらいあるのです。
通販でも買えるようなので、一度くらいは買ってみようかと思いますね。
参加しての印象なのですが、「百聞は一見にしかず」ではありませんけど、お名前を知っている方々の
挨拶や雑談を目のまえできくというのは、活字を通してその方を理解するのとは少し違った角度からの
道筋のわけです。
どこかで内田樹さんも言われていたと思いますけど、たとえばレヴイナスに会ったことはとてもよかった、と。
つまり、もしも会わなかったとしたら、理解の質が少しちがっていた?可能性がある、といったようなことを。
その人を目の前にするという体験、活字だけをとおしてだけではなく、その著者に会うということの意味は、
とても大きいのだということを言われていたと思います。
ぼくも今回、そんな印象を強くもちましたのでした。
司会者の神山睦美さんの印象は、参集者のなかでもその筆頭でした。だいぶ前によんだというか、ほとんど眺めただけ
といった惨めないつもながらの読み方でしかないわけですけど、でもその『吉本隆明論考』に、なんだかとても温かい
ものを感じていたのです。
実際のご本人に対する印象は、顔かたちは予想に反していたにしても、お見かけして、その言葉と一挙一動が、
ああそうなんだ!といった感銘をいただいた、ということでもあったのでした。
そのほかの方々でも、吉増剛三さんと福島泰樹さんの詩の朗読もあって、おふたかたの個性そのものといった
朗読の仕方が、忘れ難いものだったですね。ことに福島さんの発語と所作のたたずまいとでもいうか雰囲気には、
とても清々しい新鮮な印象をうけたのでした。 言葉をもちあわせないので、うまく表現できないですね。
といっても、ぼくはこうして思いだしながら、楽しく書いているわけですけど、申しわけありません。
まあ、ぼくにとっては、こうして書くことに意義があるわけです。他の方々にとっては、読まされる必要も読む必要も
ないというわけであります
今月から書店にならぶ予定の、『吉本隆明全集』の版元である晶文社の社長さんも参加されていて、強烈な印象を
いただいたのでした。 どういった経歴の方かはまったく存じ上げないわけですけど、その言葉と身の処し方がほんとうに
真実味のあるかただと感じて、ぼくも全集の予約をしてしまおうかと思わされたものでした。
その会場では、たしか8掛けで全巻の予約が可能だということでした。でも、かんがえてみたら、7年間生きることができる
かどうか、今のところ後継の身寄りがいない身であることをおもいだして、やめてしまったのでした。
しかし、この出版は晶文社さんにとってもほんとうに大変な事業なのだそうです。
昨今では、全集と名のつく書籍はほとんどダメなのだそうです。売れないから作れないのだそうです。かっては、いろいろな
出版社がさまざまな全集を発刊していたわけですが、それも、今は昔、ということなのだそうです。
でもそこで、少し感じいったことがあったのです、トイレにいったときに目にした光景なのです。
版元の若い社員さんが、小川哲生さんから全巻購入の申し込みのサインをいただいていたのです。この小川さんは、
今はフリーの編集者なのですけど、かっては、二つだったかの出版社で吉本さんの担当で何冊もの吉本本を出され
ている方なのです。
おそらく、吉本さんの本だったら書簡集をのぞいては全てお持ちの方だと思うのです。でも契約をされていたのでした。
そのむかし、「吉本隆明25時」という25時間・徹夜の集まりがあったのです。このはらじゅくグループのある方とも
ご一緒したのですけど。その頃出版されたばかりの全集撰の担当も小川さんだったわけです。そしてその集まりの
受付におられて、ぼくはその本を注文をして後日、吉本さんのサイン入りの本を送っていただいたこともあったという
思い出もあるのでした。
しかし、またまた論外なことばかりの想い出話をさせていただきました。
新宿の紀伊国屋本店では、この吉本さんの全集の出版を記念したイベントを行うのだそうです。
その売場ではすでに、吉本コーナーが設けられているみたいです。
たまたま、茂木健一郎さんのツイッターに寄ったところ、このお知らせがあったのでびっくりでした。
イベントの講演会には、茂木さんや内田樹さん 中沢新一さんとばななさんも話されるみたいで、楽しみです。
でも、このメンバーだったら、高橋源一郎さんもでられたらホントウニいいのですけど、残念ですね。
それにしても、みなさんそれぞれにお仲間でもあるんですよね。
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