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『夜と霧』

2012-08-28 23:04:21 | 日記

この8月にNHKのEテレ「100分de名著」では、V・E・フランクルの『夜と霧』をとりあげていました。録画をしていたのでさっき残りの2回分をみたのです。もちろん呑みながらみていたんですけど、なんだかこの本を読んだ若い頃の懐かしい世界に引き戻されたというわけなのです。しかし、この番組をお酒を呑みながらみたなんていったら、真面目な人からは顰蹙を買うことは間違いないでしょうね。つまりその、この本のもつ迫力というか衝撃力はスゴイのです。でもそれを正確にいうと、当りまえですけど、この本を書かしめたところのアウシュビッツの現実のとてつもない悲惨さに起因していることは明らかですよね。(NHKhttp://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/14_frankl/index.html) この本を読んだ方はたくさんいるとおもいます。高校生は授業で読まされたりすることもあるのでしょうか。

フランクルについて・ウイキペデイア http://9oo.jp/xyBQT むかし朝日紙で「私の1冊の本」といった連載ものがあったと思います。そこで作家の遠藤周作さんがこの本をとりあげていました。たしか遠藤さんは、若いころ結核になって死線をさまようといった経験もされたと思いました。そうした背景もあってのことなのかもしれませんけど、遠藤さんはこの本を「私のただ1冊の本」として選んでいました。そして、苦しいときにはいつもこの本を読むのだといわれていたように、僕の記憶の隅っこには遠藤さんのこうした声が残っています。

そして録画を見終ったあと、この本の新しい訳本について知りたくて検索してみました。そしたら、新訳をされたドイツ文学の翻訳家である池田香代子さんのインタビュー記事がありました。そしてこのインタビュー記事がとても刺激的だったので、なんだかこのブログにも書きたくなったというわけです。この記事を読んで翻訳者のご苦労とか翻訳家のレベル、また翻訳者同士の仁義とか面白いことごとを幾つも教えてもらったというしだいなのです。
(池田さんの記事 http://www.zenrosai.coop/kurashi/osusume/backnumber/arakan/05index.php

(池田さんの新訳本ー内容紹介とコメントがあります) http://9oo.jp/irIW8  池田さんの記事を読んで旧訳者霜山先生とのやり取りとかいろいろなことを知らされました。池田さんは高校生向けに新訳を書きたかったみたいですけど、確か大分前に池田さんの新訳本を書店で手にしたことがあります。たしかその本では、旧訳にはある強制収容所での写真の大部分が削られていたように記憶してるんですけど、でもあまり自信はありません。このアウシュビッツの惨状の写真(下記アウシュビッツURLに沢山の写真があります)は削ってあったとしたら間違いだと思うんですけどね。何故削除したのか編集者と訳者に聞いてみたいですね。でも写真があったりして…。

この本は僕にとって懐かしい、そして一気に読まされてしまうような衝撃的な本でもあったんです。手元にあるので開いてみました。格調高い霜山徳爾訳・「みすず書房」がなんと500円。1964年・第5刷なんですけど、書き込みがあって読んだのが1965年10月12日とあるんです。懐かしい本というのはまあ印象深かった本ということでもあるわけですけど、だれでもそうした位置づけの本は何冊かあるとおもうんですよね。こうしたことというか出会いは、本であっても人であっても同じことだと思います。そして、そういう種類の本は、時間を忘れて読んでしまうことが多いようにおもいますね。

ところで、この番組のコーディネーターはタレントの伊集院光さんなのです。話のもっていき方がとてもよかったと思いました。すごい能力の持ち主なんだと感じましたですね。

でも、しかし、なんだかぼくはこのブログに余計なことごとをしかもいい加減に書きすぎかもしれませんね。巷では顰蹙もの!といううわさも伝わってはこないのですけど。そろそろそうしたことごとが話題になっても仕方ないころでしょうね。

そう、キミはなんだか体裁のよさそうなことばかり書いているみたいだけど、そんな恰好ををつけてみたところでお里が知れているよ。といわれても仕方ないですね。なにせ過去ぼくが生きてきた道筋を振り返ってみたならば、どうにも隠しようもないほどの破れかぶれのオンボロ下着を身につけているというわけです。福祉だとか愛だとか(このことばは使ったことがないのですけど)よしもとさんだとか何だとか、句読点もままならない身がなにをおっしゃるのですか!といわれても…

そのようなわけで、少しではなく大いに反省をしなければとおもっています。でもぼくは、ここに書かせていただけることについては、ほんとうに有難いことだと心から感謝しています。こうして書かせていただけるということは、どんなによちよち歩きの赤ん坊みたいな書き方であっても、書くということに伴うプラスアルファーということは絶対的ですね。どんなにいい加減な書き方とお粗末な内容であっても、書くことによって以前とは違うなにかが、ぼくにも内面性といったものが少しでもあるとしたら、なにか違った局面が感じられてくるような気がしています。よくわからないですけど、ぼくのいい加減さの弁解としてではなく、何かを予感させてくださるというわけなのですが。

そしてまた”有難い”という言葉で連想してしまうのですが、ぼくタチの結婚式で司式をして下さった神父さんが披露宴の祝辞で、結婚するということは”有難いこと”なのだといわれいたのを想いだします。結婚式では誰もが新郎新婦に対して「おめでとうございます」というわけです。そしてその言葉に呼応して新郎新婦は「有難うございます」と答えます。しかしこの”有難う”という言葉は、かんがえてみるに値することばではないでしょうか、と。二人の男と女が出会って、そしてこれから二人が生涯を、苦楽を共にして生きていこうとすることは、ある意味でホントウに”有難いこと”、滅多にあるはずのないことなのではないでしょうか。といったことも話してくださったのです。多分そのようなことだったと理解しているのですが、テープを聞き返さないと正確ではないかもしれません。

しかしとにかく、離婚はダメですね。しかも教会で結婚式をして離婚をするということは、絶対的な矛盾なのですよね。キリスト教的には結婚は神様・イエスキリストとの契約であり、神様(iイエスキリスト)への信仰と同義的ということだそうです。ですから、信者でない人が教会で結婚式を挙げるときには、必ずキリスト教のガイダンスを何回か受けることになるわけです。

このところ2回の投稿には絵文字をほとんで使いませんでした。その理由は、記事を読み返してみて、なんだか自分が書いた文章なのに自分で白けてしまってなんともやりきれないというように感じたからなんです。以前絵文字をたくさん使ったのはアルコールの影響も多少はあるのですけど、でも本人としては使うことに楽しい感触があって多用していたこともまちがいないのでした。でも、ぼくの記事が酔っ払いの戯言にしてもなんとも不謹慎さの度がすぎてしまって、せっかく読んでやろうとおもっても、絵文字だらけではあほらしくて読む気にもならないよ!といわれてしまうのではないかと…か… 

(アウシュビッツ強制収容所 http://konotabi.com/auschwitz/toppage.htm)

きのうに続いてきょうも、一日が終ります 

 


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1 コメント

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きっかけ (tagawa)
2012-08-30 08:25:05
映画、テレビ、書籍の紹介など、このブログをみて、興味を持つ人もいるかもしれません。他の方もお薦めがありましたら是非ご紹介下さい。
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