馬ひでの助

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近江宮川藩、その2

2019-02-27 22:00:00 | 城跡

2019年2月23日(土)

 講座【宮川藩と堀田氏】

 陣屋は、現在の長浜市宮司町にありました。
長浜市といえば、井伊家の領地や天領が多い地域。
そのなかにあって、あえて宮川に藩がつくられたのは、
交通の要衝だったから。

 後日、小谷道歩きをアップする予定なので詳細は省略するが、
米原と小谷を結ぶ小谷道が縦に通る。
交差する道は「長浜街道」で、長浜城下町と北国脇往還の春照宿を結ぶ。
その先は中山道へ繋がるわけです。

宮川は、両街道が交わる場所として重要視されたようです。

 現在、陣屋の建物は何も残ってない。

日枝神社の前に石碑があるだけ。


この近くに宮川藩の世話役をしてた垣見家の屋敷があった。


垣見家は、神崎郡能登川町垣見の出身。

後日いつか、朝鮮人街道歩きをアップする予定だが、現在の能登川駅付近に「垣見」地名があります。
戦国時代、垣見氏は浅井氏の家臣となり活躍したが、浅井家滅亡後は宮川村の豪農となり、宮川藩の実質上の現地支配を担当。
年貢納入など政務をおこなっていたようで、
この垣見家文書と日吉神社文書で藩の様子をだいたいうかがい知ることができたわけです。

というか、宮川藩のような小藩は、現地の奉行としての業務を武士じゃなくて農民に任せていたというのがびっくりポンですな。

 
江戸時代、譜代大名は、その領地がバラバラなことが多い。
井伊家のように湖東湖北にまとまって領地がある例は極めて稀。
宮川藩もご多分にもれず、領地が分散されていて、
本拠の近江国坂田郡の他に甲賀郡、蒲生郡、愛知郡で、一万石。
さらに加増された3000石は、同じく近江国野洲郡と滋賀郡にあった。

今回の企画展示のために、
蒲生郡と滋賀郡の領地に出向き現地調査されました。

まず、

『滋賀郡大物村』
以前当ブログでちょこっと触れたことがあるが、「百間堤」が築かれた大津市(旧滋賀郡志賀町)の村です。

 
幕末、嘉永5年、暴風雨に襲われて四ツ子川の堤防が決壊し、大被害となった。
そこで、領民が宮川藩に堤防の建造を要望した。
藩は領民に米40俵を貸与、

約13000人を動員して百間堤を完成させました。

詳細は、西近江路歩きで後日アップする予定ですが(←予定ばっかり?)、
現場の石積みは、ホントにびっくりポンですよ!

お城の石垣も真っ青なほどの堅固な出来ばえ。

たかが、堤防のためにここまでするか?と思いたくなる。

四ツ子川沿いを上流へひたすら歩く、どこまで行くねん?
と、心配になるが、
突然、立派な石垣が登場する。

その圧巻を是非とも体験してほしいものです。
国の史跡にしてほしいわ。

なお、井並学芸員さんは現地探訪を前館長さんにお願いしたそうです。
我が輩に言ってくれれば、画像提供したのに!
なんなら、現地案内しますよ。

若い女性が一人で行くのは、怖い場所なので。

いや、お前のほうが怖い?
送り狼になりかねん、てか?

 


その3に続く



馬《●▲●》助ヒヒーン

コメント
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