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馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

地名夜話【向牧戸城】

2025-05-06 23:46:00 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介
【向牧戸城】岐阜県飛騨高山
むかいまきどじょう。
岐阜県は美濃国と飛騨国が合体した県。
前回の郡上市は美濃国の北端に位置し、さらに北に向かうと飛騨国となる。
向牧戸城は高山市荘川地区にある。
高山市は全国一の面積を誇り、香川県よりも大きく、東京都とほぼ同じくらい。
なので、一つの地区から隣の地区までが遠い。
この荘川地区は
東に40キロ離れて高山市の中心部、北30キロ先に合掌造りで有名な白川郷という位置。
いやそれよりも
西に白山があり、福井県石川県と接する。
つまり、白山の東の麓の町と言ったほうがイメージしやすいのでは?
麓と言っても標高800m以上の高原の町です。
荘川町の由来は、町を流れる庄川。
庄川は白川郷から富山県に入り日本海にそそぐ大河。
本来は白川郷と同じく白川村に属してたがこの地区は藤原氏の荘園があったので、白川郷と区別するために荘川と明治時代に命名された、そうです。
向牧戸城は地図を見れば一目瞭然、
南の山から延びる尾根の北端部で、庄川と御手洗川が東西北の外堀の役目を果たす。

天然の要害というわけで、戦国時代に豊臣秀吉の飛騨攻めで金森長近軍が攻めたが、なかなか落ちなかったという飛騨最強の山城。
落城後は、その功績として金森長近が飛騨一国の領主となるのである。
昨年、この向牧戸城に長谷川博美先生の案内で登城しました。
実を言うと、我が輩の飛騨入りは30数年ぶり。白川郷や飛騨大鍾乳洞を見学した想い出しかない。
飛騨国のお城巡りは今回が初めて。高山陣屋すらまだ未踏という初心者マーク。
だから、飛騨入りしたというだけでも感謝感激飴おかき、という状態で、
ワクワク感満載だったが、最強と言われる向牧戸城は公園化されて、ほとんど遺構が壊滅状態。

登城口に解説板があり、登ってすぐに堀切、



山頂の曲輪を見て、駐車場に戻ったのはわずか7分後でした。
最強の山城を攻略するのに10分もかからないとは!
最短攻略という変な記録を打ち立てた記念すべき?城跡でした。
ちなみに、向牧戸城の由来は
庄川を挟んで向かい側に「牧戸城跡」がある。
こちらも攻略したが、凄いテクニカルな城跡で見どころ満載でした。
この牧戸城の向かいにあるので向牧戸城と命名されたというわけ。

お城の遺構を楽しむなら、向牧戸城の向こうの牧戸城へ行くべし。
それなら、牧戸城の詳細な遺構を詳しく紹介しろ?
いや、あまりにも技巧的な縄張りなのでとてもとても我が輩の能力では無理。







どうしても知りたい人は長谷川先生の講座を受けてね。
以上、これにて荘川町の城跡紹介は終わりにしょうかは。
□■□■□■□■□■□■□■□■
地名パズル
   
 多金達  御
 気山城  殿 
◯◯◯◯停◯◯←下野国
鳥    郡海
路     岸
↑↑↑↑ ↑↑
京栃群福 山三
都木馬井 梨重
府県県県 県県
答えは次回!
□■□■□■□■□■□■□■□■
Φ(*^ひ^*)Φ
次回は、8月のお盆頃を予定してます。
予定は未定。
今月末の大腸がん手術の結果次第では
今回が最終回になるかも?
期待せずお待ちくださいませ!
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
ゴールデンウィークも本日で終わりです。
Uターンラッシュで全国各地大変ですね。
世間に背を向ける我が輩は本日からゴールデンウィーク。
ライフワークともいうべき北国街道歩きに挑戦して、本日は北陸に。
さて、何キロ歩けるかな?
というか、富山駅のコインロッカーに空きがなくて、重いバッグを抱えて歩くハメに。
さらに、あいにくの雨!
傘をさしての難行苦行となった


逆さ富山城


夕食は山菜そば

いやはや…
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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地名夜話【篠脇城】

2025-05-04 23:58:00 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介。
【篠脇城】岐阜県
しのわきじょう。
郡上おどりで有名な郡上市の城跡。
郡上八幡城下町から北へ約10キロほど進むと大和町牧という所に
「古今伝授の里」があり、この山の上に城跡が残されてる。
古今伝授と言えば、我が輩的には舞鶴市田辺城の細川幽斎が思い浮かぶ。
武士とは言え、名家の血筋の細川幽斎は古今和歌集の解釈の秘伝を継承した人物。
田辺城は関ヶ原の合戦では西軍から攻められて落城することになるが、古今伝授を受け継ぐ細川幽斎を死なせるのは惜しいという朝廷の調停があり、細川家は存続。後に熊本城主として存続します。
一方、郡上の古今伝授は、東氏が受け継いだ。
東氏は、千葉県千葉市のルーツともいうべき千葉氏の一族。
本拠地は銚子に近い東庄町だったので、東氏(とうし)と呼ばれた。
その後、承久の乱の功績で郡上市に所領を得て治めることになったのです。
和歌に秀でた東氏の治世は800年続き、庭園跡は国名勝に指定されました。

居館は麓にありますが、詰城はすぐそばの篠脇山に築かれて居館跡とともに国史跡に。
中世の詰城と言えば、高い山に曲輪がいくつか並ぶという単純な形式なのですが、
この篠脇城に関しては、城跡を巨大な竪堀群が取り巻くというのが圧巻で、

某SNSでかなり評判になった。
で、我が輩も一度は登ってみたいと思ってた矢先に、
城郭研究家の長谷川博美先生からお声がかかり、案内していただきました。

高い山なので登るのは少々骨が折れるが、竪堀群は評判通りに見事でした。



一つ一つの竪堀の規模か大きくてハッキリしてる。これが放射状に全方位に取り巻く構造は、日本一ピカイチと言ってもよい。
ここは是非ともオススメ、お城に興味のない人も登って直接見てほしいものです。
ちなみに、東氏は後に篠脇城から現在の郡上市役所の裏山にある赤谷山に城を移します。
この赤谷山城の別名は「東殿山城」と呼ばれる。
東氏の殿様の城→東殿山城というわけ。
我が輩は、単独で赤谷山城に登りました。
やはりこちらも単純な山城なのですが、3つの山から成る城で、つまり3回山登りしなければならない上に急斜面、急な崖があり、いやもう恐いの一言。
なんとなか無事に下山した時には、
もう二度と登りたくないと思いました。
なので、赤谷山城に関してはオススメしません。
登ったらアカンたにやま、ですよ。
明後日に続く…
Φ(*^ひ^*)Φ峠Φ(*^ひ^*)Φ
大阪城から伊勢神宮への道は、伊勢本街道と呼ばれ、奈良県を通る。
現在の近鉄電車の路線図を思い浮かべるとイメージしやすい。
大阪を出発すると最初の難関は生駒山。
有名な「暗峠越え」だ。
名前の如く樹木が生い茂り暗いので「くらがりとうげ」と呼ばれるようになったのが、地名由来と言われる。
実際に歩いてみました。

暗いどころか明るい!
峠近くに集落があり生活空間を見渡せる。
薄暗い山道を歩くというイメージは全く無かった。

だから、暗いという由来は怪しい。
ま、昔と今は違うけどね。

こちらが由来かも?


この峠道は国道308号線で、普通に車が通る。生活道路として使われてる。

ただし、狭く急な坂が多く、すれ違いが難しい箇所もあり、「酷道」と呼ばれる。
車が来ると避ける場所が無くて危ない思いしましたよ。
歩いた日は厳寒で山頂は0度、雪が散ら散ら舞ってました。
でも、生駒山は人気のハイキングコースなので、何人もハイカーとすれ違った。
合う度に「こんにちは〜」と声をかける。
暗峠は元気な明るい峠でしたわ。
Φ(*^ひ^*)Φ祭Φ(*^ひ^*)Φ
本日は町内の祭でした。
我が団地は戦後誕生したので、神社も寺も無い
しかし、団地内の振興ということで新しく神輿を造った。
当日だけ市内の護国神社の神主さんにお願いして祈祷。
神輿を担いで町内を練り歩くという次第。
大人神輿は高齢化で担ぎ手が無く中止。
子供神輿だけ、子供と年寄りが引っ張るという状態に。
戦後誕生した団地だが、高齢者が半数を超える高齢団地となってしまった。
昨年は車椅子の母を玄関先まで連れ出して神輿の巡行を見学した。
あれから、1年!
母はこの2週間後に緊急入院し、10月に亡くなった。
毎年開催される祭、
今年は一人でさみしく見ることになった。
祭の賑やかさに反比例してなんか無常を感じる。
いやそれより、
果たして来年は自宅で祭を見られるだろうか?
その可能性が低いのが、ツラい…
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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地名夜話【瀬戸内町】

2025-05-02 23:37:18 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介。
【瀬戸内町】鹿児島県
せとうちちょう。
瀬戸内という呼称から、瀬戸内海を連想する人がイルカと思うのだが、
確かに岡山県には瀬戸内市が存在する。
平成の合併で誕生した。
瀬戸内海に面するという理由で大きな名前を付けたが、合併前はオリーブで有名な牛窓町や刀剣の長船町でした。
瀬戸内市と聞いてもピンとこないが、牛窓や長船のほうが一般には馴染みあるよね。
何でもかんでも大きな名前付けたらいいというものではないぞ!
長船町と言えば備前福岡も忘れてはならない。
備前福岡は黒田家の本拠地で、後に黒田長政が筑前に移った時に故郷の福岡にちなんで福岡城を築いた。
現在の福岡県のルーツなんですよね。
実は備前福岡にも福岡城がある。
昔、この福岡城跡を探索したことがある。
NHKの大河ドラマ「官兵衛」にちなんで訪ねた。
ゴルフ場のなかの小山に痕跡が残されてました。
で、なぜかわからないがこの時に左の膝を痛めた。
歩くと痛くてどうやってホテルに戻るべきか悩みましたよ。
あの時のことはいまだに忘れられない。
それは置いといて、本来の話をしなきや!
鹿児島県の瀬戸内町は奄美大島の南端の町です。
以上です。
では、明後日に続く
て、おい!
ここで終わったら奄美大島の人が怒ってハブを投げつけてくるぞ!
わっ?これはヤバい。
我が輩ハブが恐いので、奄美大島と沖縄県には死んでも行かない。
首里城にも行けない、とあきらめてる。
で、瀬戸内町と呼ばれた由来は、
地図を見れば一目瞭然、本島と対岸の加計呂麻島の間は大島海峡で瀬戸内海のような地形になっていて、大島海峡の別名として瀬戸内と呼ばれた
そこでこの近辺の町々が合併した時に瀬戸内町と名づけたのである。
なるほど、納得!
よくわかったし、じゃあ、もう寝るかな、
と思ったのだが、
瀬戸内町図書館のホームページを見てみると、
な、なんと、驚くなかれ、
「1595年の古文書にせんとうち、と地名表記がされてた」とある。
16世紀、まだ江戸幕府が誕生してない時期。島民が、リアス式海岸や瀬戸内海という呼称を知らない時代ですよ。
なので、本来の由来はこの「せんとうち」が後に瀬戸内に変化したと考えられる。
いやぁ、真実は意外なところにあったのです。
古文書を通しての歴史探求の面白さを実感できて、なんか嬉しくなりました。
ただし、「せんとうち」の意味は不明。
瀬戸内町図書館の見解では、波穏やかな海という意味で使ったのではないか?
と、締めくくってあった。
そこで、
ちょっと大胆な仮説を考えてみた。
奄美方言で「せんと」は、「ちょっと」という意味があるそうな。
うちは「内」かな?
ならば、ちょっとした内の海、
という意味では、ないかい(内海)な、
というオチで
今度こそ明後日に続く…
Φ(*^ひ^*)Φ
5月になりました。
母は昨年の5月に喘息で入院した。
以来1年間、介護から介抱されて独り身の自由生活となった。
おかげ様で羽が生えたように寸暇を惜しんで全国を飛び回ってます。
しかし、その飛び回り生活もそろそろ終わりかも?
月末に入院手術の予約を入れました。
そのまま、自分が療養生活、介護状態になる可能性がある。
なんか、輪廻を感じる
誰かさんが言ってたが、頑張れ
じゃなくて、踏ん張れ?
いい言葉ですな
て、感心してる場合か?
Φ(*^ひ^*)Φ峠Φ(*^ひ^*)Φ
丹後街道は敦賀市〜小浜市、舞鶴市を経て丹後の宮津への道。
西国33観音巡礼の道とともに
小浜藩の殿様の参勤交代の道でもあった。
数年前から歩いてます。
今回、若狭と丹後の国境の「吉坂峠」越えをした。
「吉坂」は「きっさか」と読む。
木津の庄という荘園があり、木津坂と呼ばれてたのが吉坂に変化したらしい。
現在、峠の下を国道27号線のトンネルが通過する。
なのでトンネルを進めば簡単だが、このトンネルは歩道がない。

たくさんの車がビュンビュン飛ばして走るので極めて危険!
一方、旧国道が山道として残されてる。
ただし、自然災害で舞鶴市側が崩壊してるという情報だった。
つまり、どちらのルートも危険ということで、青葉山(若狭富士)の麓の松尾寺へ迂回するしかない

と思ってたのですが、いざ山道を歩いてみると、なんとか旧道を行くことができた。





本来の古道と違うかもしれないが、無事にキツイきっさか峠を越えられて大いに満足しました。

帰りに松尾寺へ立ち寄った。
本堂は修築中でした

この先、機会と条件が合えば、舞鶴市から丹後宮津の天橋立まで歩きたいと思ってるが、さてどうなりますやら…
んまのすけさん、の町へ行きたいな
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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地名夜話【苫小牧市】

2025-04-30 23:49:07 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介
【苫小牧市】北海道
とまこまいし。
全国的地名度の高い市なので今さら位置の説明は不要でしょう。
地名由来は例によってアイヌ語と言われる。
「山奥に入っていく川」と言う意味の「マコマイ」に、沼という意味の「ト」を付けた。
最初に苫細という当て字、後に現在の苫小牧という漢字に変化したようだマイ。
苫小牧には沼が多いので「ト」を付けたのだが、この沼が冬に氷る。
この自然環境を活かして始まったのがアイスホッケー。
苫小牧は今やアイスホッケーの聖地と言われてるだマイ。
ホッケーと言えば、ホッケ貝。
いや、ホッキ貝。
苫小牧では特産のホッキカレーが名物になってるそうな。
ホッケーとホッキ貝でもっけの幸いカイ?
と、まぁ、これは置いといて
話を戻す
山奥に入っていく川は、苫小牧川あるいは勇払川かと思われる。
その源流は支笏湖の南にそびえる樽前山。
読み方は一般に「たるまえ」だが、「たるまい」という読み方もある。
アイヌ語の「タオロマイ 」(川岸の高いところ)が由来なので、たるまいのほうが本来の読み方でしょう。
樽前は当然ながら当て字だマイ。
苫小牧に最初に入植したのが、八丁堀同心の中村主水の末裔。
昼行灯のおこないが咎め立てられて蝦夷に飛ばされたというわけ、
て、そんなわけないやろ!
というツッコミ、ありがとうだマイ。
昔、必殺シリーズよく見てました。
昼間はしがない役人、その裏の顔は仕事人、カッコいいですよね。
藤田まことさん、『今は立派な俳優だが、昔は歌を歌うコメディアンだった』
と、父がよく言ってたマイ。
あれ?なんの話だったっけ?
思い出したマイ
入植したのは
「八王子千人同心」
江戸城の徳川家康にとって八王子は甲斐の入口、相模の抑えとして関東の防御にとって重要な位置でした。
ここに千人同心を配置して警備をさせた。
結果的には天下泰平となり、日光東照宮の警備など別の役目を担うようになる。
幕末には新選組成立の土壌を築いたと言ってもよい。
そして、蝦夷地が外国の脅威にさらされるようになると八王子同心が苫小牧に派遣されて警備や開拓にあたったわけだマイ。
しかし、蝦夷地の生活は厳しく
昼行灯するというような生優しい環境ではなく、病死者が増え入植4年目にして撤退することになったのである。
と、まぁこんな先人の労苦の末に現在の苫小牧の繁栄が成り立ってるのだマイ
魅力的な苫小牧に行きたいですよね。
我が地方からは、小樽へは敦賀からフェリーが運航してる。
一方、苫小牧へは名古屋から仙台経由のフェリーで直接行けます。
ただし、2日間かかる。
突然思い立ってすぐに苫小牧に
行こマイか、
というわけには行かないマイ…
明後日に続く
Φ(*^ひ^*)Φ
NHK朝ドラ「カムカムエブリバディ」の再放送、昨日が最終回でした。
この数回またしても泣いてしまった。
我が輩、基本的にドラマを2回も見ることはない。
あらすじがわかってるので面白くないからだ。
だが、このカムカムはやっぱり凄かった。感動した。
朝ドラ史上の大傑作と言っても良い。
しばらくカムカムロスになりそう。
できれば、続編として「ひなた」から始まる百年物語をつくってほしいものです。
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
この冬、街道歩きでいくつかの峠越えをした。
明智光秀が信長を討つために本能寺へ向かったルートは山陰街道の老ノ坂峠越えが有名。これは数年前に攻略済み。
今回は北側のルートとして「唐櫃越」に挑戦した。
「唐櫃」は「からびつ」と読むが、
「唐櫃越」に関しては、「からとごえ」と呼ばれる。
本来はからひつ、後にからふつ→からふと→からと、と変化したようですが、確かなことはわからない。
JR山陰本線(嵯峨野線)の馬堀駅をスタートし、みすぎ山→衣掛山→松尾山へと進んだ。

桜が見頃で、トロッコ列車も大賑わいの日でした。



山陰街道と違ってこちらは間道なので大変だろうと予想し、覚悟を決めて山に登ったが、案に相違して、途中のほとんどが車道、林道で、山道が少ない。

地域の開発と林業のために道路を整備したようで、
なんか拍子抜けでしたわ。
ちなみに、亀岡市馬堀側の登山口の如意寺は山本城という城跡で地元の宇野氏の居城でした。

遺構は残ってない。
一方、京都市側の出口付近には「峰ケ堂城跡」の遺構が残ってる。
本来は法華寺という山岳寺院だったのを室町幕府の管領細川氏が城に改変したそうな。前回触れた向日町近辺の西岡衆と関わりがある城跡らしい。



遺構は段郭や土塁が尾根に分かれて残っていて、



京都盆地から唐櫃越への街道を見張る位置にあり、これが今回の唯一の収穫でしたわ。


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
地元の新聞記事
「桜が咲く頃に青く澄んだ花を咲かせるネモフィラ。
北米原産の一年草で…」
北、米原(まいばら)産
と読んでしまった…
滋賀県民ならではの間違いネタです
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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地名夜話【向日市】

2025-04-28 23:54:57 | 歴史地理
地名パズル、前回の答え
  
 苫 篠
 小瀬脇
◯◯◯◯←飛騨国
日市内
市 町
↑↑↑↑
京北鹿長
都海児野
府道島県
 
正解は、『向牧戸城』
詳細は後日
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
地名ちょこっと紹介
【向日市】京都府
むこうし。
きょうと→にしおおじ→むこうまち→こうたり→やまざき…
昔、我が輩が若かりし頃、JR東海道線の駅名をこのように覚えた。
それがあなた、あれから50年
京都駅の次は西大路駅、
次に「桂川駅」が新設された。
先日初めてこの駅に降りた。新しいので綺麗な建物でしたよ。
駅前に大きなショッピングセンターがあった。
そして、その次が【向日町(むこうまち)駅】
市名は向日市だが、駅名は昔のまま向日町です。
ちなみに次の神足(こうたり)駅は現在、長岡京駅と改名された。
ま、神足は馴染み薄いですよね。
とはいえ、駅名の由来となった神足神社の南側には勝龍寺城の土塁と堀が残されてます。
長岡京の知名度には負けるけど…
でもね、長岡京は地名的に長岡京市が中心と思われてるけど、実は長岡京の政治の中心ともいうべき長岡宮跡、大極殿跡は向日市に存在してる。
つまり長岡京跡を訪ねるならば、まずは向日市へ行きましょう。
長岡京市はどちらかと言えば、長岡天神のほうが有名。
そういえば、久しぶりに長岡天神のキリシマツツジを見に行きたいなぁ…
向日町の由来は、向日神社です。
向日山という丘陵で古墳が多く、向日神(歳神様)を祀ったので向日神社と名付けられて地名となった。
我が輩、数年前から西国街道歩きをしてます。
平安京の羅生門跡、現在の東寺をスタートし桂川を渡ると向日町へ入る。
街道の東に長岡京の大極殿跡、街道の西に向日神社があります。
なので、どちらも史跡見学したので横移動ばかり、なかなか先へ進まなかった。
で、ようやく長岡京市にはいったのはいいけど、こちらは神足神社や勝龍寺城跡の探索でここでも足踏み状態。
さらにさらに、この地域は古代だけじゃなくて中世も重要な地域でした。
戦国時代の武将として有名な斎藤道三や北条早雲はこの地域の出身と言われる。
その基盤となったのが「西岡被官衆」。俗に西岡衆と呼んでますが、室町幕府の直属家臣団で、軍事的にも経済的にも将軍を直接支えた地域だったのです。
なので、街道歩きの次いでに向日市から長岡京市にかけての古墳群及び西岡衆の城跡巡りもしました。
街道歩きと史跡巡りとどっちが目的かわからないような始末で、
史跡が多い西国街道歩きは
骨が折れる、心が折れる
そして、
向日町や長岡京市を過ぎると山崎となり、有名な山崎の合戦(天下分け目の天王山)が待ち構える
我が輩が歩む先には
史跡が次々に向こうマチ
という次第で…。
明後日に続く~
□■□■□■□■□■□■□■□■
Φ(*^ひ^*)Φ
こんばん馬!
季刊紙ともいうべき地名夜話です。
今年もまたゴールデンウイークが始まりました。
昔はワクワクしたが、毎日が日曜日の今は、早く過ぎ去ってくれ!
と、心変わり。
とはいえ、初夏は新緑、花は次々に咲き誇る。いい季節となりました。
昨日、東近江市へ車を走らせた。
一面の菜の花畑が綺麗でした。
田んぼには水が入り水田となる。
第2琵琶湖出現だ!
と、毎年この景色を見るのが楽しみだったが、
昨日車を走らせてると休耕田ばっかり。
水田は少ない。
いつのまにやら景色が変わったぞ!
これでは米不足になるのも当たり前ですわ。
高齢化でコメ農家が減少してるのだろうね。
いや、それよりも政府の無策、
減反政策がこんな無残なことになったのではないだろうか?
虎んプ氏の思惑通り米国産の米穀の輸入が増えるかも?
アメリカ米なんか食べるもんか…
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
ゴールデンウィークということで明後日から我が輩も北国街道歩きの続き、越中国へ向かう予定でした。
だがしかし、急遽延期することにした。
その理由は、
昨日、東近江市の永源寺地区から鈴鹿山系の杉峠を越えて三重県菰野町の朝明へ抜ける「千種街道」歩きをした。
以前、並行する「八風街道」歩きで八風峠を越えた時はさほど難儀ではなかった。

林道から山道へ

その経験から今回の千種街道も大丈夫かな、と思ってたが、
いやはや凄い難行苦行の歩きでした。

15キロという長丁場に、登ったり降りたりの山越え、杉峠の標高は1000mを越える。

伊吹山以来の千m越えですわ。
さらに、いくつも沢の渡渉があり、



危険な崖道と、険しいこと甚だしい。
たまたま今回は、永源寺町づくり協議会さんのツァーに参加したので、スタッフの方のサポートもあり無事に完歩できたが、もしも従来通りの独歩ならば山の中で滑落、行方不明となった可能性大!
いやはや、ホントに危なかった。
と同時に地元のスタッフの方々に感謝感激飴おかきですわ。

三重県菰野町の朝明駐車場到着

ちなみに下山後、おかきじゃなくて地元のどら焼をいただきました。
そんなわけで、足がパンパン、疲労度も並大抵ではない。
身体の回復にはしばらく時間がかかる。
だから、越中国遠征を白紙にしました。
この連休は骨休めしますわ…
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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【地名夜話】小矢部市

2025-01-04 00:03:00 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介
【小矢部市】富山県
おやべし。
位置は、富山県の最西端、西隣は山を挟んで石川県。
つまり富山県の西の出入り口、西玄関と言っても良い。
小矢部の由来を調べると、小矢部川が町中を流れてるから、
ならば、小矢部川の由来は、
上流にある小矢部村のそばを流れてたから。
て、堂々巡りでよくわからぬ。
要するにわからないのです。

小矢部市は、西礪波郡石動町と砺中町が合併して誕生した。
礪波郡(砺波郡)の由来は、
山の谷に鳥網を張って鳥を捕まえたので
トリアミ→トアミとなったとか?
その谷間を流れてたのが小矢部川だとすると、谷地形が矢のような形に見えてオヤベと呼ばれるようになったのかも?
これはあくまでも我が輩の想像です。
やべぇーので、他には言いふらさないようおねげぇしますだ。

我が輩のライフワークとなりつつあるのが、北国街道歩き。
昨年、金沢に到着したので、ひとまず目的達成した。
これで終わりにしょうと思ってたが、街道は越後まで伸びてる。
ならば、歩けるうちはもっと先まで進みたいと思い直した。
そこで、今年の夏に金沢から倶利伽羅峠を越えて石動まで歩きました。
1日目は、金沢

から津幡
津幡は倶利伽羅峠の西の麓の町、
2日目は、その津幡から



炎天下に山を登り峠を越えて



源氏ケ峰城跡に立ち寄る





そして小矢部市の街並み

東側の麓の石動駅に到着した。



暑さと猛烈な汗でヘトヘトになったが、なんとか無事に越えられました。
それだけに峠から下る時に、眼下に石動の町が見えた時の喜び、嬉しさは格別でした。
街道歩きの醍醐味はこれだと思いましたよ。
本年は富山県内を東へ向かい、親不知子不知の難所へ向かう予定です。
さて、どうなりますやら。

親不知の海岸を見て
お、やべぇー!
と、引き返したりして…

ちなみに、「石動」
これは難読地名ですよね。
普通は読めない。
教えてほしいですか?
答えを、言いすぎる、と教育上よくないので、自分で調べてください。

では、これにておしまイにスルギ


□■□■□■□■□■□■□■□■
地名パズル
   
 苫 篠
 小瀬脇
◯◯◯◯←飛騨国
日市内
市 町

↑↑↑↑
京北鹿長
都海児野
府道島県
  県

答えは次回!

□■□■□■□■□■□■□■□■

Φ(*^ひ^*)Φ
次回は、初夏、ゴールデンウィーク頃を予定してます。
年々熱くなり熱帯化傾向の我が国土、
5月初旬に猛暑だったりして…

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
庶民の味方「青春18切符」
今回改定されて、連続の使用と自動改札扱いになった。
使いにくいという理由で評判悪くて「改悪」と言われてる。
確かに不自由になったけど、やっぱり18切符はまだまだ魅力的です。
1枚の切符で全国のJR乗り放題、
米原や熱海の関所も自由に通過できる。
我が輩のようにその場その場で気が変わって突然降りる駅を変えても問題なし。

親の介護から解放されて、
ようやく今回から自由に何の遠慮もなく青春18切符を使うことができるようになった。
車での遠出は高速道路を走るのが無理な年齢になってしまったので、列車とバスに頼るしかない。
それだけに
なんとかこれから先も18切符を続けてほしいものです。





馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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【地名夜話】守口市駅

2025-01-01 23:54:00 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介。

【守口市駅】大阪府
もりぐちしえき。
守口市の位置は特に説明するまでもないと思うが大阪市の北東で、某大手電器メーカーの本部がある門真市との間の市。

以前にも述べたが、我が輩は「京街道」を歩きました。
大津市の追分で旧東海道と分かれて伏見宿→淀宿→枚方宿、
その次が守口宿で、江戸から数えて57番目の宿場となる。
そのため「東海道五十七次」と呼ばれる。
守口宿は最後の宿場で、ゴールが大阪城の京橋

→高麗橋になる。



この前、NHKの番組「ブラタモリ」の特別版が放送されて、タモリさんが京街道を紹介してくれました。

自分も歩いたので、なんか嬉しかった。
街道は守口市駅のすぐそばを通る。

街道は堤の上、向こうの守口市駅は高架の上

駅自体が高架なのですが、街道も同じく高い場所にある。
太閤秀吉さんが築いた「文禄堤」の上を歩きます。

淀川の氾濫対策としての堤を築き安全な街道としたわけです。
秀吉としては大坂城の北東の入口として守口は軍事上の要衝だった。
実は、織田信長は石山本願寺(後の大坂城)を攻める時に守口に城を築き、明智光秀に守らせた。
信長、光秀、秀吉ゆかりの守口、

さらにさらに時代が下って幕末、
首都は京都から東京に遷都されたが、この時に大坂遷都も計画された。
実際に明治天皇は京街道を大坂へ行幸、守口に宿泊された。
京都の公家の猛反対にあって大坂遷都は中止となったが、
天皇が守口に宿泊されたので、1日だけの守口遷都、と守口市は胸張ってます。

ところで、守口市駅は京阪電車の駅です。
京阪電車の河内地区の市の駅名は、
八幡市駅(現在は石清水八幡宮駅)交野市駅、枚方市駅、寝屋川市駅、門真市駅、そして守口市駅というように
「◯◯市駅」で統一されてます。
JRの駅が無いので交野駅、枚方駅、寝屋川駅、門真駅でもいいのにわざわざ市駅と命名してる。
不思議だと思いませんか?

ネットで調べても明確な答えは見当たらない。
おそらく京阪電車の方針として市の中心にある駅ということを強調するために市駅としたのではないでしょうか?

私的な考えは言うな!
と指摘されそうなので、
市駅についてこれ以上触れるのは

おしめい、にしやす……

明後日に続く

Φ(*^ひ^*)Φ
新年あけましておめでとうございます。
本年も相変わりませず宜しくお願いします。

今年の正月は喪中のため、年賀状出してない、家の飾りもしてません。
おせち料理も無し。
独り身としてもさみしい限りです。
ま、これからもずっと死ぬまで一人での正月を迎えることになるのですが…

そんなわけで、年末年始は遠征してます

天気が良くて元日早々に富士山を拝むことができました。
ワッフルワッフル


素晴らしい城でした


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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地名夜話【海部郡】

2024-12-30 00:17:00 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介

【海部郡】愛知県
あまぐん。
これは難読地名ですよね。
もう亡くなられたが、名古屋市出身の海部俊樹首相を「あまとしき」と読む人いますか?
「かいふ」と読みますよね。

NHK朝ドラで大ヒット作となった「あまちゃん」のおかげで「海女」をかいじょ
とかかいにょ、とか読む人は皆無になったのでは?
あまぐんは、海女郡と書かない。
海部郡です。

位置は、愛知県の南西部、岐阜県と三重県に接する地方です。
現在、大治町、蟹江町、飛島村が海部郡に属す。
平成の合併で海部郡の3つの町が「あま市」として誕生したが、このあま市を漢字で書けば「海部市」となる。
でも、誰も読めないのであえてひらがなの「あま市」と命名されたのです。

この海部郡、古代では木曽川や長良川の西側まで広がってました。
現在、岐阜県側に海津市があるが、本来は海部郡でした。
「海部」は、木曽川などの河川と伊勢湾との海岸が交わる部分という意味なのではないか?と思います。

この考えは、甘し?

▲「海部郡」
実は古代の豊後国にも存在した。
現在の大分県の佐伯市や臼杵市など県の南東部の海岸地域で、
読みは「あまべ」でした。
あま+べ。
この部は人々、集団という意味。
海辺に住む人々、海の辺が海部になったのではないでしょうか?

この考えも、甘し?
いや、海の水は辛いぞ!

▲「海部郡」
もう一つ、阿波国、現在の徳島県にも存在した。
徳島県の南端の海岸地域の海陽町、牟岐町、美波町などの町です。
ただし、読み方は「あまぐん」じゃなくて
「かいふぐん」。
なぜ、こちらは「あま」と読まないのか、理由は不明だが、
海部川、海部山地も「かいふ」と呼ばれる。
険しい山々があり、海運も盛んだったそうなので
「あま」などと甘いことを言ってられる環境じゃなかったから、
と、思えてくる

この考えは、「甘っちょろい」ですか?

阿波国だけに、

泡を食う…


次回は元日の夜に
あわいましょう


Φ(*^ひ^*)Φ
街道歩きをすると、犬も歩けばじゃなくて、難読地名に当たることが多い
例えば、佐屋街道。
桑名市から熱田神宮まで歩いた
「鯏浦」

「神守」

↓「烏森」

↓「五女子」

「尾頭橋」


いずれも難読!

でも、これも街道歩きの楽しみの一つです。


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
NHKの朝ドラ、
現在は「おむすび」が放送されてる。
おむすびと言えば、我が輩どこかに出かけるときは必ずおにぎりをつくる。
街道歩きにしろ、山城登りにしろ、どこで昼を食べられるかわからない。
現地調達が無理な場合もある。
だから、おにぎりは必須なのである。
我が家には梅の木があるので、生前母がたくさんの梅干しをつくってた。
それを今、おにぎりの具として食べてます。
なお、ドラマのほうはあんまり面白くない。
橋本環奈さん頑張ってるだけにちょっと残念だなぁ…
というか、ドラマのタイトルは
おむすび、じゃなくて
おにぎり、のほうが親近感あるのですが…

朝ドラの再放送も見てます。
☆「カムカムエブリバディ」
3年ぶりですが、何回見ても素晴らしい。
基本的に再放送は見る気しないが、これは別。
毎回涙なしでは見られない。
主題歌のアルデバランが泣かせるメロディーなのですよね。

☆「カーネーション」
こちらはNHKBSで再放送されてる。
初見なので新鮮。
面白い。毎回面白い。
尾野真千子さん、いい演技してますね。
数年前、岸和田城に行った時に岸和田駅前の商店街にコシノヒロコさんの店がありました。
この店はもう閉店したと、風の便りに聞いた。
当時、このドラマ見てなかったのが残念でならない。
見てたらドラマ関連の場所を巡ったのに。


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
いろいろあった2024年。
今年も終わりです。
まさか予想だにしなかった年末となりました。
今は複雑な境地です。


地名夜話、今回で今年の配信は終わります。
1年間おつきあいありがとうございました。
来年も宜しくお願いします。

どちら様も良い年を迎えられますように
お祈り申し上げます


ちなみに、青春18切符を買いました。
年末年始は電車に揺られて西へ東へ旅するつもりです。
なので、年末大掃除も正月気分も無し。

独り身となったので、これでいいでしょう。

次回は元日の夜、さてどこから配信してるだろうか?

馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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地名夜話【矢巾町】

2024-12-27 23:46:00 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介

【矢巾町】岩手県紫波郡
やはばちょう。
位置は県庁所在地の盛岡市のすぐ南に接する。
さらにその南に隣接して紫波町がある。 
この矢巾町と紫波町の2つの町が紫波郡に属す。
盛岡市の一部も紫波郡でした。
「紫波」は「しば」と読みたいが、「しわ」が正解!
本来は「斯波郡」と表記された。
斯波と言えば、足利氏の一門で管領の家柄の斯波氏。
尾張の織田信長の織田氏は、守護大名斯波氏の家臣でした。
斯波氏は織田氏よりも遥かに上の家柄、
その斯波氏の本貫の地がここなのです。

で、斯波氏は「しば」と読むので、紫波も「しば」と読んでしまうのです。
この斯波氏が、北上川を遊覧した時に、川の波が紫に輝いた。
そこで、紫の波→紫波郡と改名したとか?

ちなみに県名の由来となる岩手郡も本来は紫波郡でした。
つまり、古来より盛岡市周辺の紫波郡が陸奥国北部の中心地だったわけです。

矢巾町の由来は
岩手県の地名辞典によると
1、前九年の役で、源頼義が安倍貞任を討つため矢をつくる矢羽根(ヤバネ)を集めさせたことから
2、「谷端場」「谷端間」の意味で、段差のある湿地の法面のこと

どちらの由来も正しそうですな。
平安時代、北方の守りの拠点として坂上田村麻呂が現在の盛岡市に城柵として志波城(斯波城)を築いた。
しかし、水害に悩まされて維持が難しくなり、後に現在の矢巾町に徳丹城に移された。
徳丹城は水害対策として微高地に築かれたのである。
このことを考えると、矢巾町の由来は谷端場のほうが有力のように思える。
いや、思いたい!
でも、あまり偉そうに言うと、

しばし、待たれよ

お前ごときが、矢巾町の由来に
口幅ったいことを言うな!

と、叱られそう…


明後日に続く~


□■□■□■□■□■□■□■□■

₵(*^ひ^*)∂ラジ耳
年末も押しつまり、大掃除に追われてる人も多いのではないでしょうか?
先日窓拭きをした。
しかし、セスキ洗剤をたくさん付けすぎたためか、洗剤の汚れが残ってしまい、逆に窓ガラスが汚くなってしまった。
まさに本末転倒、ガックリです。
そんな折りに
KBS京都ラジオ、日曜日朝の番組を聴いたら窓拭きの裏ワザが紹介されてました。
諸物価高騰で洗剤を買うのも惜しいという人にオススメのワザですよ。

用意するのは水と新聞紙。

ちぎって丸めた新聞紙を水に浸けて窓ガラスをふく。

たったこれだけ。

新聞紙のインクが頑固な汚れを落とす。
水なので拭き取れば跡が残らなくて綺麗になる
という仕組みなのです。

で、試しにやってみた。
確かに綺麗になります。
もっと早く教えてほしかったわ。

ただし、一つだけ難点がある。
それは、ゴシゴシ擦ると濡れた紙がボロボロと下に落ちる。
落ちた紙屑がゴミになってしまう。
なので、擦り具合加減が難しいです。

なお、拭き掃除の基本は、
タテタテ、ヨコヨコ!
これが、綺麗にふくコツです。
丸くふくのはダメ。

親の介護をしてた時は、
下の世話で新聞紙は必須。
毎日大量に使ってた。

今はもう新聞紙の用がなくなり廃品回収に出すしかなくなってただけに、これは朗報です。
ご多分に漏れず、新聞の購読料も値上げされた。
購読をやめる家庭も増えてるらしい。
ネットやテレビニュースで間に合うからね。
それだけに
新聞紙は読むだけでは勿体ない。
あらたな活用方法を考えるべきですよね。


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
JR東海の電車に乗ると車掌のアナウンスは、
駅名案内を最初は日本語で、
次に英語で話してくれる。
おそらく英語は堪能でないから、教えられた文句を読んでるのだと思う

先日、車掌さんが英語で話してる途中で、読み間違えた。
で、『失礼しました』
と言ってもう一度いい直した。

いや、外人向けにアナウンスしてるのだから
『失礼しました』
も英語で言わないと外人に通じないぞ!(笑)

馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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地名夜話【小山市】

2024-12-26 00:25:50 | 歴史地理
地名パズル、前回の答え
   守
  海口
◯◯◯◯←ホタルイカ県
山巾郡駅
市町  
↑↑↑↑
栃岩愛大
木手知阪
県県県府
正解は、『小矢部市』
詳細は後日
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
地名ちょこっと紹介
【小山市】栃木県
おやまし。
栃木県の南東部に位置し東隣は茨城県結城市と接する。
昔々その昔、まだ我が輩が元気だった頃、我が家からマイカーで関東まで走った。
高速道路を降りて本庄→熊谷から国道50号線をひたすら東へ東へ向かい、佐野市あるいは小山市付近でガソリンを補給。
1日目は結城駅前のホテルで宿泊した。
そして、翌日に目的の水戸城を見学した。
思えば、500キロ以上もよく走ったものですわ。
今なら、疲れきって水戸へ行かずに小山でUターンして帰ったかも?
あやまぁ!
小山と言えば、歴史的には「小山評定」ですよね。
上杉討伐に向かってた家康軍が、小山対陣中に石田三成挙兵の知らせを受けて軍議を開き、西へ引き返した。
まさに天下分け目の評定でした。
この時、真田親子は敵味方に分かれて、お家存続をはかった。
一方、水戸城の佐竹氏は、家康寄りのポーズを取りつつも中立を保った。
このどっちつかずが禍となり、戦後お家取り潰しはまぬがれたものの秋田へ飛ばされてしまった。
もし佐竹氏が上杉氏とともに家康の背後を突いてたら、その後の歴史は?
おやまぁ?
となってたかも…
この小山評定の場所は小山市の祇園城の南付近だと言われる。
祇園城は地元の豪族小山氏の居城でした。
実は我が輩、栃木県南部の城跡巡り遠征を計画してます。
遠からず祇園城を探訪する予定なり。
ところで、小山市の由来は、
小山市のホムペによると
「地名の由来については、諸説がありますが、思川西部の低地から見ると東部の台地が小さな山の形をしていることからその名がついたというのが有力です。
鎌倉時代から戦国時代にかけては、下野国の守護や鎌倉幕府の評定衆として活躍した小山氏の本拠地となったところです。」
と書いてある。
地図で確認すると、思川が小山市の中央を南北に流れて東西を分ける形になってる。
この思川の東の小山に祇園城があるのです。
思川の由来はタキリヒメ(田心媛)の
田+心=思から名づけられたとか?
おやまぁ、
♪ホホイのホイでもう一杯
て、このCM知ってる人
昭和世代ですよね。
では皆さん、唱和しましょう
♪ワタ◯ベのジュースのもとです
もう一杯…
こりゃまぁ
明後日に続く~
□■□■□■□■□■□■□■□■
Φ(*^ひ^*)Φ
こんばん馬!
季刊紙ともいうべき地名夜話です。
前回は猛暑だったが、季節は進み極寒の時期に。
そして、今夜は寒さでメリー苦しみマス
と、いきなりの
ド定番のギャグであいすみません、でござる。
いや、物価高で
メリー栗きんとん、とんと食えぬ
正月用品や食品はホントに高い。
もう手が出ない。
かまぼこは、迎春の文字を入れるだけで普段の数倍もの値段にしてるんじゃないですか?
ま、来年は正月気分では無いので、
おせち料理も不要なんですが…
そんなこんな言いながら、今年のクリスマスも普通の夜を過ごしました、とさ。
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
庭の掃除をしたのですが、
落ち葉の風情がいいのでこのままにした。

と、体裁のいいことを言ってるが、
落ち葉をかき集めるの大変なのです



Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
美濃国分寺に行きました。
いとこの墓参りです。
クリスマスに亡くなり、本日は17回忌になる。





墓地の紅葉も終わりですな。

母は常々、このいとこに老後の世話を頼んでました。
岐阜市に嫁ぎ苦労しただけにしっかりとした優秀の人だったので、母は懇意にしてたのです。
結果的には乳がんのために母よりも早く65歳で亡くなったので
母の老後の介護は、我が輩の担当となってしまったのです。
墓前で、いとこに母の大往生を報告しました。
合掌!
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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