馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

類は類を呼ぶ、の巻

2019-04-30 16:48:49 | 旅行
"土曜日は、丹波街道の続き。
馬堀駅をスタート。



強風のため、なかなか前に進まないが、
亀岡城下町を通り、並河→千代川→
そして、夕方五時半頃、八木駅到着。




約3万歩でした。
亀岡城下町は、以前に1日かけて歩いたことあるので、今回はひたすら街道歩きに専念。
寄り道をしなかったので、意外に距離を伸ばすことができた。
このペースなら明智光秀の福知山城に着くのも早いかも?
と思うが、はてさて?


日曜日は、丹後街道歩き。
前日の丹波街道は、京都から亀岡→園部→福知山へのコース。
丹後街道は、福井県の敦賀から小浜を通って舞鶴へ向かうコース。

丹波に、丹後にと、西へ向かう今日この頃です。

電車に乗ったら、若い男の子の横の席が空いてたので座った。
高校生か大学生のようです。
スマホじゃなくて本を読んでる。
今時珍しい!
偉いぞ!
ちょこっとのぞきこんだら、縄張り図が見える。
なんと、山城のバイブルともいうべき「近江の山城ベスト50」でした。

いやぁ、殊勝な心懸け、感心感心。

この若者は河毛駅で降りました。
どうやら小谷城に登るようです。
まだひょっこの若者ですが、これから経験を積んで次々に山城を制覇していくのだろうな。
将来が楽しみです。
というか、あの若さが羨ましい…

我が輩は、敦賀駅で下車。



敦賀港の

洲崎の高灯籠をスタート!



丹後街道を西へ向かって歩いた。
3時過ぎ、越前国と若狭国の境の関峠を越えました。




県道には歩道がなくて車がビュンビュン飛ばすので恐かったが…

さらに、ここで脚が痛くなった。
前日に引き続き、ずっと国道や県道などアスファルトの道ばかりだったので、負担が大きかったようだ。
昔ながらの地道のほうが、足にはいいと思います。


美浜町に入ると海岸線がナイス!





そして、美浜駅で打ち止めしました。



街道は国吉城の近くの佐柿宿を通ってる。

↑国吉城への登山口へ


佐柿宿



続百名城の国吉城から下山してきた男性に出会ったので、国吉城の様子を聞いた。
ちゃんと整備されてるので、夏場でも大丈夫というので、次の街道歩きの時に登ってみようかな?
それともやっぱり冬に来ようかな?

この男性、京都の人で、山城を一人で回ってるそうです。
百名城スタンプも見せてもらった。
たくさん押してます。
凄いです。
今年はまだ徳島城しかスタンプ押してない我が輩とえらい違いや。

敦賀駅までの帰りの電車が一緒だったので、
青春18きっぷで伊勢の北畠館へ行く方法など、色々と教えてもらった。

感謝感激!

今日は2人の城好きさんに出会った

類は類を呼びますな。

二日間の合計歩数は、
7万歩でした。

右膝にもサポーター巻くべきだな。


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

テレビ見てると、
今日はまるで

大晦日や!

深夜はゆく年くる年
見なきゃ?

今年は二回年越しか…


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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地名夜話19.04.29

2019-04-29 22:02:05 | 歴史地理
"地名ちょこっと紹介

【日出町】大分県
難読地名が多い大分県、
日出町も、
ひでまち、ではない。
我が輩としては、ひでまちのほうがいいのだが、
「ひじまち」が正解。

日出町は国東半島の南の付け根に位置する。
だから、
地名の由来は、
「太陽の道」を示しているといわれ、
旭日の出る所という意味から、日出の字を配したといわれている。

でも、それなら
単純に「日の出町」とするのが筋でしょう。

日出町の歴史を調べてみると、
町内に「大神」と言う地名がある。この地は、
「大神比義」がこの地に住み、「近辺(近部)」と呼んでいた
そして、地名を「大神」と変えたとされる。
大神比義(おおがみのひぎ)は後に豊後へ下り「豊後大神氏」となり宇佐神宮を建立した、という。

この比義(ひぎ)→ひじ、に変化したのでは?
と、我が輩は想像してるのですが、無理やりかな?

前回紹介した岩槻と同じく
こちらも城下町。
江戸時代、日出藩主の木下延俊が城を築いた。
延俊は、豊臣秀吉の正室おね、
後の高台院さんの甥です。

別府湾をのぞむ城下町が素晴らしい。
そして、有名なのが
『城下カレイ』
日出城の下の海で獲れるカレイなので、城下カレイ。
我が輩的には、「じょうかカレイ」と読みたいけど、
「しろしたカレイ」と呼ぶそうです。

日出カレイじゃだめなの?

日出城だけに、

ヒジ、ョウに
いや、
非常に
不満なのですが…


でも、考えようによってはこれで良かったかも?

もし、日出をヒデと読んでたら、
ヒデ、カレイ

秀、加齢

うわぁーm(。≧ひ≦。)m


明後日に続く…。

Φ(*^ひ^*)Φ
今回が、平成最後のメルマガ発行となりました。

10連休でぼぉっとしてるそこのあなた、に教えます。
本日29日は昭和の日、
昭和天皇の誕生日でした。

明日、30日は平成天皇の退位の日、

明後日、5月1日は令和天皇即位の日、

ますます、昭和が遠くなりにけり、

というか、
昭和から令和まで三代に渡って生きられるとは、
びっくりポンです

馬《●▲●》助ヒヒーン♪"
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地名夜話19.04.27

2019-04-27 22:11:54 | 歴史地理
"地名パズル、前回の答え

   多
 日 賀
◯◯◯◯←ずんだ餅県
槻町武市
区 市
↑↑↑↑
埼大千宮
玉分葉◯
県県県県

正解は、『岩出山城』
@夏休み頃に行く予定だが、果たして行けるかな?

正解者、
(´σ3`)湾岸スキーヤー様
Φ(*^ひ^*)Φ
千葉県 海上郡 海上町
かいじょうぐんなら、
かいじょうまち、
と読みたくなりますよね。

「うなかみまち」が正解とは!
地名は難しい。
調べたら、下総国にも海上郡(うなかみぐん)があったので、区別するために、かいじょうぐんという読みにしたとか?
こういうのを調べるのは面白いですな

ゲーム信長の野望シリーズは、1度もやってないので、わからない。

戦国や城好きなら1度はやるべきなんだろうけどね

う~ん…

解答ありがとうございました。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


地名ちょこっと紹介

【岩槻区】埼玉県
いわつきく。
さいたま市の区、
かつての県庁だった浦和市と、大宮市、与野市が合併してできたのが、埼玉市、
じゃなくて、さいたま市。

なんで、ひらがなやねん?
埼玉県民は漢字読めんのか?
と言いたいけど、
それは置いといて、
というか、ほんとは埼玉市にしたかったけど、それなら「埼玉市=さきたまし」が本筋やろ、
というチャチャが入って、やっぱり、ひらがなにしたという経緯なんですが…
そのさいたま市に後から入ったのが岩槻市。
そして、岩槻区となった。

県庁所在地と言えば、城下町が多い。
浦和・大宮・与野は門前町、宿場町として発展したのに対して、
岩槻は、れっきとした城下町。
しかも、県名の由来となった埼玉郡にあるのは岩槻のみ。

浦和も大宮も与野も、昔は北足立郡。
足立郡といえば、東京都足立区と一緒。
東京都の付属じゃないですか!

岩槻こそ埼玉県の正統ですわ。
なので、
本来なら、岩槻市が県庁になるべきだったのですが、街道から離れてるのと、小さい城下町で、県庁を設置する場所がないという理由で、
浦和市が県庁になったのである。

関東の県庁所在地は、
群馬県前橋市、
栃木県宇都宮市、
茨城県水戸市、
神奈川県横浜市、
埼玉県浦和市、
いずれも県名と県庁所在地市名が違う
だから、子供の頃、関東の県庁所在地市の名前覚えるのが大変でしたよ。

なのに、平成の合併によって、
東京都、千葉県とともに埼玉県も県名と同じ市名になってしまった。

簡単すぎて、面白くないぞ!

しかも、ひらがな市。

困ったもんや!

いや、お前が困ったやつや?


岩槻と言えば、
『岩槻城』
何年か前に、埼玉・群馬の城巡りした時に訪れる予定だったが、時間的に無理だったのであきらめた。

1457年(長禄元年)に太田道灌によって岩付城が築かれたのが岩槻地名の由来、
と言われてたが、
弥勒寺に北条相模守重時が寄進した寛元四年(1246)の鐘銘に、「岩付」と掘られてるので、さらにもっと古くからあった地名のようです。
で、その弥勒寺のホームページを確認したが、現在はこの由緒ある梵鐘が記されていない。
行方不明になったのか、戦時中に供出されたのか?
ちょっと残念です。

ところで、
太田道灌父子によって築かれた岩槻城、
近年発見された新しい史料では、1478年に古河公方足利成氏の家臣成田正等が築城と記されているので、こちらの説と、意見がわかれてます。
さらにややこしいのは、
太田道灌の父道真の法号が「正等」なので、
新史料の正等は、成田じゃなくて、太田正等のことではないか、という反論もあり、
正等、
どっちが正統なのかわからず、
結論が出てません…

なお、正等は、せいとうではなくて、「しょうとう」と読む。

ちなみに忍城は成田氏が築いた城ですが、こちらも築城者は、成田宗時、成田正等、成田親泰、
この3人の誰か、と言われる。

両方に成田正等が登場します。



岩槻の歴史・由緒は、

岩槻だけに、

いろんな、いわくがつき

ますわ…


明後日に続く



Φ(*^ひ^*)Φ
こんばん馬~
正月以来のお久しぶりでござる。

早いもので今年も新緑の季節となりしたよ。

例年なら、この時期は旅先からマガジン発行してるのですが、
今年は10連休のために、遠征旅行をやめました。

だから、自宅で発行してます。

現役時代、毎年10連休で、
谷間となる30日、31日、1日、2日は、たいがい平日、
高速バスや宿泊予約がしやすかった。
だから、この谷間を利用してに旅に行ってたのです。
谷間、大好き~~~

なのに、今年は谷間がなくて、
飛び石連休という言葉もなくて、
予約も取れなくて、
無理に予約とったら値段高くて、

そんなわけで、
今年は旅に出るのをやめたのです。

10連休という政策のために
新緑を旅先で楽しめなくなったぞ!

困ったもんやわ。

いや、お前の都合に合わせてられん、
と言われそうですな。

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『たいみー』ゆるキャラ

2019-04-26 17:32:40 | ゆるキャラ
"2018ご当地キャラ博IN彦根。
10月20日
『たいみー』三重県度会郡南伊勢町。

お父さんが鯛の鯛太郎。
確かに鯛の形をしてますね。

お母さんがミのミータン。
横向きの画像だとわからないが、
正面から見ると顔がミカンになってる。

どちらも南伊勢町の特産で、
みかんは五ヶ所みかんとして有名。


だから、子供が「たいみー」

生まれは、ハートの入り江。
ネットで確認したら、ハートの形の入り江がありました。

伊勢志摩国立公園の鵜倉園地にある
見江島展望台からみえる 「かさらぎ池」がハートに見えるので
ハートの入り江と言われるようにな
った。
池と名付けられてるが、外海と繋がってるので海水の入り江。
恋人の聖地として売り出してるそうてす。
だから、お腹がハートになってる。

首からぶら下げてるポシェットは
桜。
「河村瑞賢公園の河津桜」にちなんで、南伊勢町の花が桜になった。
河津桜なので、開花の時期は早い。

いやそれより、
河村瑞賢が南伊勢町出身だったとは!

また1つ勉強になりましたよ。


いつか、お伊勢さんに参拝に行ったら
南伊勢町にも立ち寄り鯛~

て、ついでかい?


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

"明日からいよいよ10連休スタートですね。

みんなワクワクしてるのかな?

毎日が日曜日の我が輩、
明日は普通の週末。

週末なので、例のごとく街道歩きにでかけます。

毎週の定番になってきたので、


ワクワク感がない

うーん…


というか、

平成最後の街道歩きや!



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『阿波勝瑞』その16 【 勝瑞城跡】

2019-04-25 16:52:34 | 阿波国の史跡
2019年3月31日(日)
二日目

"吉野川は、江戸時代に改修されるまで、旧吉野川が本流でした。
その支流として、中富川があった。

一向一揆の反撃のために惨敗した三好元長の死から約50年後、
1582年、十河存保(三好実休の子)が城主の勝瑞城に長曽我部軍が侵攻、
中富川をはさんで対峙した。
十河軍5000に対して長曽我部軍は25000。
善戦するも退却を余儀なくされて
勝瑞城に籠った。

吉野川が天然の堀で、しかも周辺は低湿地ということで、長曽我部軍なかなか攻められない。
長期戦となったが、秀吉の援軍を得られないので、ついに存保は城を捨てて逃げ、落城しました。

その後、勝利した長曽我部元親は四国を席巻したが、ご存知のように秀吉の四国遠征で、降伏することになります

館跡遺跡から



城跡へ向かう

十河存保が
防御に耐えられる城に改造した曲輪の跡ではないか、と推定されてる城跡が
『見性寺』に残されている。



門柱の文字がちょこちょこ消えかけてるが、
「西国守護三好長治公一族菩提所」と書いてある。

周囲に大きな堀があります。


水堀に囲まれた寺です。

境内に入る


これは、土塁に見えます。




回りこんで見ると
矢竹に囲まれてる。

矢竹の解説文




その外側にも水堀

勝瑞城の解説文


室町時代に阿波守護の細川氏が守護をここに置いたのが始まり。

1507年、管領細川政元が暗殺された。
1553年、三好義賢(実休)が謀反を起こし、阿波の実権を握る。
そして、
1582年、長曽我部元親が侵攻し、廃城となった。

中世は、山城が多いなか、
平地の城跡として貴重だという理由で、
2001年、国史跡に指定されました。

背後の低い土塁。

発掘調査では、
土塁の高さが約2.5m
幅は、上部で約14m

現状は低い土塁に見えるが、堀底からの高さは大きかったようです。


実はこの見性寺の城跡は、
長曽我部軍が迫ってきたので、城主の十河存保が防衛上あらたに築いた曲輪跡ではないか、と推測されてます。


『三好家霊廟』


合掌。

"『勝瑞義家碑』


解説文によると徳島藩の儒官、那波魯堂の筆蹟として貴重だ、と書いてある。
というか、勝瑞義家て誰や?
初耳なので、ネットで調べたが、さっぱりわからない。
三好義家のことかな?
と、思ったが、これまた不明。
三好氏系図にも出てこない。

で、よ~く見ると
義家じゃなくて、「義冢」

そうなんです!
しょうずいよしいえ、と読んではいけない!

【勝瑞義冢碑】
これが正解。
「義冢」、ぎちょう、と読む。
冢は、塚のことで、
無縁塚という意味。
つまり、勝瑞城に関わった人の無縁塚の石碑、なのです。

いやぁ、また一つ勉強になりました"



外から堀を見る"


"少し離れた所にあるshellの武田石油でスタンプ押しました。



徳島ラーメン屋さんの自販機

食べたいが、列車の時間せまってるのであきらめて、
近くのコンビニでパン買った


13時29分、
勝瑞駅に戻った。

それにしても、百名城の探訪で
わずか40分弱の時間で済むとは!

これまでの最短時間となった。

なんで、ここが百名城や!
徳島県には他にもっといい城跡ないのかい?

と、言われそうですが、

細川・三好氏の本拠の城という歴史的価値で、百名城に指定された、
と、理解しましょう…




その17に続く

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

デジカメが壊れてからは、ずっとスマホで撮影してるが、

やっぱりデジカメが欲しくなってきた。

調べてると、目移りしてなかなか決まらない。

それにしても、デジカメはピンからキリまで、色々ありすぎ。

なによりも高い!

一眼レフならまだしも

普通のデジカメは、スマホの画像とあまり変わらないのに、 10万円ぐらいするものもある。

それを考えると、スマホは高い買い物ではないと思えてくる…

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

先頃、ドコモが新料金を発表しました。

本体代金と分離したので毎月の料金が安くなると言ってますが、

ホンマかいな?

新料金になるごとに毎月の支払い金額が増えてるんですが…


馬《●▲●》助ヒヒーン♪


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『阿波遠征』その15 勝瑞館跡

2019-04-24 16:34:04 | 阿波国の史跡
2019年3月31日(日) 二日目、

午後は再び阿波国の探訪。


12時29分
『勝瑞駅』到着。


ここは、板野郡藍住町。
旧吉野川と新吉野川に囲まれたデルタ地帯にあり、
山がない平地の町。
前日探訪した府中町は吉野川を挟んで南側に位置する。
現在は、徳島市郊外の住宅地として発展してるが、
昔は細川氏、三好氏の本拠となった土地で、『勝瑞城』がありました。


『史跡勝瑞城館跡』


解説文

三好氏の居館跡で、16世紀中頃から拡張され、最終的に幅10mを超す大規模な濠で区画された複数の曲輪からなる城館となった。
また、池泉庭園と枯山水庭園の2つの庭園があり、三好氏の優雅な生活を想像される。



現在も発掘調査中です

「濠・礎石建物跡」


主とく丸、古松丸という名前の硯が出土している。
曲輪の名前か?それとも人名か?


橋がいらないほど低い濠です


三好一族の物語が、漫画で描かれてます。

この漫画、なかなか面白い。
三好元長(三好長慶の父)を通じて戦国時代の歴史を学ぶにはもってこいです。







一向一揆の反撃で惨敗し、元長は亡くなりました。

復元された礎石建物



解説によると、会所の跡だとか?
枯山水庭園

現在は、とにかく大きな広場。

将来、発掘調査と整備が進めば、
遺跡公園として人気が出て、たくさんの人が訪れるのでは?"

その16に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
某Twitterで紹介されてたが、
京都市内は、
地下鉄の環状線があれば、
観光に大いに役立つと思う。
路線バス路線が充実してるけど
道路渋滞するし、バス便を増発しても観光客をさばききれない。
地下鉄環状線、つくってほしいですな。

馬《●▲●》助ヒヒーン♪




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『阿波讃岐』その14 引田城本丸から下山

2019-04-23 16:47:39 | 讃岐国の史跡
2019年3月31日(日)
二日目、
"眼下の町並みを見る

下山する前に北上し、
『南二の丸』

を確認した。
夏なら藪になってるかも?

北二の丸、東二の丸への分岐
すぐに引き返し、

再び、西の郭に戻った。

これより下山する。

10時40分、
港側登山口に降りました。

約2時間40分、山のなかを歩き回った。

そして、
10時54分

讃州井筒屋敷で、
続百名城スタンプget!

次の汽車まで約一時間待ちなので、
屋敷を見学することにした。
入場料は300円也。

ボランティアガイドのおじさんが屋敷内を案内してくれました。

この屋敷は、
江戸時代より醤油と酒造りを行っていた商家。
建物は江戸後期から明治期に建築されたもの。
当主はその後、高松だったかな?
移られたので、現在は観光施設になりました。

話を聞いてたら、写真撮るのを忘れて、全く画像がありません。
屋敷のパンフレットももらい忘れたのか、手元にないので、
ここでは再現できません。

庭にいくつもある灯籠が、それぞれ違う形で、傘灯籠というの変わったものもあった。
欄間の飾りも凝ってました。
↑香川県のネット画像を拝借。
蔵には鼠返しとして取り付ける斜め板をはめる仕掛けがあった。
屋根裏部屋は杜氏が住み込む部屋で、寒さ対策として階段部分を板で閉められる仕組みになってた。
お風呂は五右衛門風呂ではなくて、
桶風呂でした。
小さい頃、五右衛門風呂だった我が輩としては羨ましい限りであった。
このほか、色々聞いたが忘れた。

約40分、丁寧な解説でした。

そして、
11時42分、引田駅。

結局、午前中四時間、
引田で過ごしました…

午後は阿波国へ戻ります



Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

弟夫婦が、長い連休をとって
本日、フランスの隣の国へ出かけました。

娘夫婦と孫に会うためです。

羨ましいですな。

我が輩も例年なら、今の時期は遠征の準備をしてるのですが、
今年は出かけない。

大型連休に、楽しみが無い。


トホホや…

馬《●▲●》助ヒヒーン"

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『阿波讃岐』その13 【引田城】北二の丸~本丸

2019-04-22 16:52:01 | 讃岐国の史跡

2019年3月31日(日)
二日目、
北二の丸から東へ向かう

"09時44分、
東の丸への分岐

東の丸は曲がった尾根の上に伸びた先端部にある。



09時54分
東の丸の東端に来た。


2つの島が見える


拡大する


通念島と毛無島かな?

下へ降りると、

『引田鼻灯台』


昭和29年3月に初点灯された、
と書いてある。
午年生まれじゃないですか!
びっくりポンや!



向こうに見えるのは淡路島だと思う。


本丸へ向かう。
その途中に、
10時06分
『化粧池』


お城のお姫様や女中が使った人工の貯水池。
山城にとって水源は必須です。
東の丸と本丸の間の中間地点にあるのは、意図的なものなのか?

シダが生い茂る道をゆく


10時10分
岩盤の山?


石垣が崩れたようですが、


ここが
『本丸(南の丸)櫓跡』

物見の場所だったのだろうな

眼下に、港と町

前日と違って今日は上天気で良かったわ。

四国統一を狙う長曽我部元親を阻止するため、秀吉は十河氏の応援として仙石秀久を派遣した。
この港から上陸したのか?

しかし、長曽我部軍は二万の大軍で讃岐に侵攻!
元親は家臣の香川、大西氏に5000の兵を付けて引田城を攻めた。
ちょうどこの日、近江では賤ヶ岳の合戦が繰り広げられてました。
最初は仙石軍優勢だったが、長曽我部本隊が到着し形勢逆転。
仙石秀久は籠城したが、賤ヶ岳合戦中の秀吉が救援軍を出せるわけもなく、仕方なく秀久は、淡路島に逃れた、という。

阿波、讃岐を平定した長曽我部元親を伊予に進出し、四国統一するが、
結局は、秀吉の四国攻めで降参。
土佐一国だけとなってまった、のである。

少し北上すると、

城山82m三角点。

ベンチの上にノートあり。

風が強かった、と書いた

数日前に岡崎市から72歳、69歳の夫婦が来られてます。

我が輩は、この年齢まで山に登れるだろうか?

高台に祠があります。


ここが、天守台跡らしい。
瓦が出土してるので、建物があったようだが、天守かどうか、不明。

ちょっと危険だが、斜面に降りて

石垣を見た。



10時20分
『本丸の西端部、西の郭』

ちなみに、この展望台付近は昭和天皇皇后様が来られるということで改修された。
なので、どこまで本来のものか、不明。

ここで、子供連れた家族と遭遇。
港側登山道から登ってきたようです。
ピクニック日和で良かったですね…




本丸石垣


その14に続く

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

🎵わたし、待つわいつまでも待つわ…

の、

岡本孝子さん、

急性白血病で、長期治療だとか?

最近、著名人の病気のニュースが相次いでますね。

自分より年下の人が重い病気を患うと可哀想になる。

のほほん、

と生きてるのに

この歳まで生きられてることに

感謝しなくてはならない、ですな。

再来月には、また誕生日を迎える。
いよいよ、高齢者のレベルが
1段階上がる↑
て、ロールプレイングゲームかい?
て、無事に迎えられるのかな?
今年は、ちゃんと健康診断受けなくてはなるまい。

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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新緑の頃は色々ある、の巻

2019-04-21 22:01:19 | 旅行

"2019年4月21日(日)

昨日とうって変わって今日は曇天☁️、
ま、雨降らないだけマシか。

朝、選挙の投票に行き、
その後、畑に立ち寄り、
タケノコ掘りした。

最近あまり雨降ってないし、時期的に一週間早いかな?
あまり芽が出てない。


いやそれより、タケノコの先端の地表に出た部分がみな、食べられてしまってる😭
犯人は誰や?
タケノコと言えば、猪と相場が決まってるが、猪なら土を掘って丸ごと食べるはず。
食べられたのは、土から少し出た柔らかい先端の皮の部分のみ。
どうやらこれは、猿の仕業に違いない。


最近の猿はタマネギやネギも食べる。
そして、ついにタケノコまで食べるようになったとは、ホントに困ったもんや。

仕方ないので、土を掘って下の方の猿の食べ残しを少し採って持って帰った。
全部集めても、店で売ってる大きなタケノコにはかなわない。
トホホや…



帰宅してすぐに着替えて、駅に向かった。
本日は久しぶりに湖西の西近江路歩きをすることにした。

新快速電車に乗った。
電車が走り出してしばらくすると
おニューのスーツを来た若い青年が通路を歩き、次の車両に向かってる。

車両のドアに手をかけるやいなや、


突然バタッと倒れた!


すぐに立ち上がるかと思いきや、動かない。
「吐き気がする」と言って、床に寝転がってる。
意識はあるが、起き上がるのは無理なようだ。
これはヤバイので、非常ベルを探すが見つからない。
非常ベルは車両の前方にあり、近くの人が押してくれた。


電車は急停車。
乗務員(たぶん、運転手)が駆けつけて来て様子を見る。
本人が、「次の駅で降ろしてくれ」と言ったので、
運転手は、とりあえず運転席に戻り、運転再開。
この電車は新快速なので、
次の南彦根→川瀬→稲枝を猛スピードで通過💨
ほどなく予定の能登川駅に到着。


駅員が車椅子を用意してくれてました。
車椅子には、本人が介助なく自身で立ち上がって座った。
どうやら体調が少しよくなったようで、まずは一安心。

同僚か上司かわからないが、ラフな格好の若者がやって来て、
彼は新入社員なんです、と言ってる。

慣れない新しい環境に変わってストレスがたまり、体調を崩したのかもしれないですね。

ひ弱そうな青年だった。
将来が心配ですわ。



電車は少し遅れたが、なんとか山科駅乗り換えに間に合った。

そして、前回の続き、
比良駅から街道歩きスタート。


駅の待合室の天井の防犯カメラの上では、



ツバメさんが巣作りしてました。


さらに、



湖西線の高架下の柵のなかには
2匹の羊さんがいました。
草を食べてます。

いやぁ、いい季節になりましたね。

毎年言ってますが、新緑のこの季節が一年で一番好き💓

鯉のぼり


生き物はみんなそれぞれ、これからの季節を謳歌するのですよね。


本日の街道歩きは、北小松駅で打ち止め。




大津市の最北端まで来ました。

次回はいよいよ難所と言うべき歩道のない危険な国道を歩いて、高島市入りです。



馬《●▲●》助ヒヒーン♪
"

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北方陣屋跡・北方城

2019-04-20 22:55:01 | 旅行

"2019年4月20日(土)

上天気になりました☀️
5月の陽気です。

本日は中山道歩きの続き。
ですが、例によって寄り道が先。

大垣駅で樽見鉄道に乗り換え。
前回は終点まで行って根尾の薄墨桜を見たが、
今回は途中の『北方真桑駅』がスタート。





名前でわかるように、ここは真桑瓜発祥の地。





真桑と言えば、子供時代よく食べた。
メロンが高いので、安価な 真桑しか食べさせてもらえなかった。
真桑は、当たりハズレがあり、甘くて美味しいのもあるが、 マズイのもある。
それでも暑い夏に冷えた真桑は、我が家にとってごちそうでした。

それはともかくとして、
本日は真桑を食べにきたわけではない。
北方(本巣郡)町の史跡巡りである。




まず立ち寄ったのが、
『円鏡寺』





国重文の楼門は、明治神宮の南楼門のモデルになった。

次に、本命の
『北方陣屋跡』





江戸時代、旗本の戸田氏5000石の陣屋があった。
道を挟んだ両側に奉行屋敷や家臣屋敷が並んでた。

住宅地のなかの一画には、
『北方城跡』石碑がある。



本来の城主だった安藤氏は、信長によって追放されていたが、
本能寺の変で信長が亡くなると再起して奪い返したが、結局は稲葉氏に攻められて廃絶となった。
石碑のあるこの場所が本丸だったと推定されてるが、よくわからないらしい。

この後、北方街道を南下し、





条里公園に立ち寄り、

本来の目的の中山道の河渡宿に着いたのは15時になってしまった。




寄り道のほうが長いぞ!

なんとか、頑張って歩いて
17時半、岐阜駅まで行きました。





冬なら真っ暗だが、今の時期は日没が遅いのでまだまだ明るい。
やはり街道歩きは、夏が最適ですわ。

岐阜駅で、
元禄堂のクロワッサンが売ってた。
楽天一位という垂れ幕につられて買った。


248円也。
チョコとクリームの二種類あり、
チョコを買った。


食べた!

どこが一位や?



スーパーで買う普通のクロワッサンのほうが美味しいぞ!

はっきりいって
248円の値打ち無し。

もう二度と買わない😡



馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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