馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

【田中(上寺)城】上ノ城と田中氏館跡

2021-05-25 16:04:00 | 近江の史跡

2021年5月9日(日)
午前中、中江藤樹の里近辺を探索。
午後になると雨がやんだため、城跡へ行くことにした。
上寺地区へは安曇川駅から徒歩約40~50分です。
駐車場はありません。
我が輩は街道歩きも兼ねて歩いたけど、駅から上寺地区へのコミュニティバスあります。
レンタサイクル利用もいいと思います。

14時23分、上寺集落。

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案内板あるので迷うことはない。


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民家の小屋の入り口に城のパンフレットあり、頂きました。

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14時25分、城跡石碑。


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獣柵を開けて入りました。

田中城は高島七頭(佐々木氏系統)の田中氏の居城だったと考えられてる。
1570年、信長の朝倉攻めの時には秀吉・家康も立ち寄ったとか?
後に明智光秀がこの城を支配してるので、歴史上著名な4武将と関わりのある城だったわけです。


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中に入ると「順路」「帰路」の案内板が随所に建ってるので、その通りに進めば問題無し。


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「見張所跡」


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「曲輪」
などの看板もあり至れり尽くせり!
素人でもわかる。

曲輪がたくさんあるので看板が無いと迷いますよ。

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東端に

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「武者隠し」


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「土橋」


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この城は「松蓋寺」という寺跡に築かれた。
なので、上平寺城など近江でよく見られる城郭寺院の形式。


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入口からここまでの段々曲輪は坊跡だったと思う。

で、これより上が中枢部となる。
大きな郭の東側を進むと
「大堀切虎口」


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郭に入ると石段


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「観音堂」があらわれる。


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登城道は観音堂への参道だったのです。


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主郭へはこれより険しい尾根の上を進む。


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尾根の北側に土塁あり、


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そして、土塁・空堀の上が
「主郭」。


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パンフには「天主跡」と記載されてる。
天守築かれたのかな?

櫓台↓
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北側の櫓台のような土塁の上には「つぶて石」が残されてます。


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琵琶湖の景色がよく見えます


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天気がよければ対岸の長浜城や彦根城も見られるかも?

15時34分、
主郭背後の「堀切・土橋」


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城跡はここまで。

この後、水の手の井戸跡を見て急いで下山したが、
駅行きのバスに1分差で間に合わず、帰りも歩くことになりました。



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整備されてるので素人でも登れる山城です。

険しい尾根道もあるので、それなりの装備と覚悟も必要ですが…


帰り道、
「下の城跡(田中氏館)」
の南堀と北堀跡を探索。


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高島市教育委員会の資料。

発掘調査されて堀跡を確認されたそうです。


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南堀付近


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『畦道をうろうろする奴、誰や?』
と、農作業をしてるおじさんに思われたたろうな…


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北堀付近。

現状の遺構は田んぼのみ。


以上、

田中城の上の城と下の城跡、両方探索しました。


おしまい。



馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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渋沢栄一と藤樹の里あどがわ

2021-05-17 22:43:00 | 近江の史跡

先週、琵琶湖の対岸の高島市安曇川地区に出かけた。
江戸時代の儒学者で陽明学の開祖「中江藤樹」の里です。
近江聖人と呼ばれ、滋賀県では有名人。
社会の教科書にも取りあげられてるが全国的な知名度は低いだろうな…

子供の頃、両親に連れて来てもらって以来なので50数年ぶりの再訪です。


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藤樹神社


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藤樹書院

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藤樹の墓

など中江藤樹ゆかりの史跡が国道沿いに点在してる。
記念館があったのでのぞいてみると


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「渋沢栄一」の企画展示がある。
え?どういうこと?なんで?
関係あるの?

館内に入り見学すると渋沢栄一氏がこの藤樹神社に参拝されてとわかった。
というか、栄一氏がいなければ藤樹神社は無かったかも?
なのです。

今年の大河ドラマに関しては我が滋賀県は関係ないと思ってただけに驚き!

どんな繋がりがあるかというと、
中江藤樹は近江聖人と呼ばれただけに村民としては神様の存在なので神社を建てることにした。
しかし、資金が集まらない。
そこで、とあるツテを頼って村長が東京に乗り込み、渋沢栄一氏に会い援助を懇願した。
すぐに快諾されて、なんと千円を寄付。
当時(大正11年)の千円は今なら二百万円位かな?

千円だけではまだまだ足りないので渋沢栄一は当時財閥と言われた岩崎、三井、住友などにも寄付を呼びかけてくれて、無事に建立の資金が集まりました。
つまり、藤樹神社建立の立役者といってもいい。

いやぁ、驚きの事実を知ってなんか嬉しかったです。
大河ドラマゆかりの地としてドラマでも取り上げてくれると、もっといいのですが…


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藤樹さんにちなんで藤が、町のシンボルになってます
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この後、北国海道西近江路を歩き、田中城跡に登城しました。


続く…


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

お叱りと顰蹙覚悟で申し上げます。

ワクチン接種、高齢者優先になってるが、ホントにこれでいいのか?

我が輩も高齢者の端くれですが、ハッキリ言って遅かれ早かれ、そのうちあの世行きの立場。

高齢者が進んでコロナ感染しに出かけることは少ない。

それよりも働き盛りの熟年層を優先的に接種したほうがいいのでは?

仕事に家事に現役で頑張ってる人がたくさんいる。国の活力源と言ってもいい。

活動上、人に接する機会が多く移動もやむを得ない。

国の経済を牽引するために必要な人達なのです。

医療関係者はもとより現役熟年層こそ先に接種すべし!

でないと、国が人類が滅びるぞ!

オリンピックに関してもやめろ!と叫んでる人がいるが、

そのために莫大な賠償金や違約金を払わされ、経済がどん底になり、

経済破綻したら、困窮者,自殺者が増えてコロナ以上に悲劇に襲われるかも?

現役世代と高齢者世代を天秤にかけたら社会のためにどっちが大事か?

ですわ。


そんなわけで我が輩のもとに接種券届いたが、接種は延期します。

ワクチンが余るまで我慢するつもり、です。

それまでに感染したら、おしまいだけど、やむを得ないわ…

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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黒田地区へ(長浜市)

2021-05-13 15:59:00 | 近江の史跡
2021年4月21日
伊香具神社の八重桜を堪能した後、東へ向かいました。
「一の宮神社」
解説板によると伊香具神社の一の宮という位置付けだったようです。


さらに東へ

「一の宮の白樫」

湖北では塚や巨木を野神として祀る風習がある。

樹齢400年?


余呉川に沿って北上する



民家の庭に藤棚。
羨ましいっす!



黒田地区へ


獣柵を開けて山の中へ

「黒田のアカガシ」
こちらも野神として祀られてる。
「新・日本名木百選」に選定されていて、樹齢3~400年。

下手な画像で伝わらないが、立派な巨木です。




巨木の背後は、
土塁の両側に竪堀

て、全く関係ないけどついつい城目線で見てしまう。
お城病です…


そして、
「黒田観音寺」

国重文の観音像は、
突然訪れても見られない…





ちょっとした駐車場あり。


ここは西黒田地区。
さらに北へ行くと黒田神社があります。

黒田地区は、黒田官兵衛のルーツ、黒田氏発祥の地とも言われる。
真偽不明ですが…

時間が無いのでこの日はUターンして帰りました。





Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

我が家のツツジ











馬《●▲●》助ヒヒーン♪



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地名夜話21.05.08

2021-05-08 22:36:30 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介
【御代参街道】滋賀県
ごだいさんかいどう。
江戸時代、朝廷は毎年1月・5月・9月に京都から多賀大社→伊勢神宮に参拝するならわしがあり、天皇の名代が派遣された。
また、徳川3代将軍家光の乳母春日局が伊勢から多賀へ代参した。 
さらに彦根藩主の井伊直孝は将軍家光が疱瘡を患ったので病気平癒祈願のため伊勢神宮に代参した、という記録があり、街道が整備され
この代参道が後に「御代参街道」と呼ばれるようになった。 
そのルートは、
多賀大社から中山道に入り愛知川宿もしくは五個荘宿から分かれて八日市→日野→笹尾峠を越えて東海道土山宿に至る道のこと。
その先は東海道関宿、亀山宿から伊勢道を通ったと思われるが、調べてないので詳細はわかりません。
我が輩は中山道五個荘宿から東海道土山宿まで4回分割で歩きました。
約36キロのほとんどが平地ですが、最後の笹尾峠越えが最大の難所で必死の覚悟で突破しました。
それだけに土山宿に到着した達成感、感動は言葉ではあらわせられません。
そして、現在は土山宿から鈴鹿峠を越えて東海道関宿まで進んでます。
江戸も伊勢神宮もまだまだ先ですわ。
この御代参街道は中山道と東海道を直線で結ぶバイパス道として一般に利用されたようで、
このバイパス道のみを御代参街道と呼んでます。
直角で横断するよりも斜め横断したほうがいいに決まってますよね。 
そういう意味で代参道は、第3道と言い換えてもいい、いい、
井伊代参道、ですな。
以上、おしまい。
≡≡≡≡≡≡返信感謝≡≡≡≡≡≡
☆あおはっぴ様
Φ(*^ひ^*)Φ
投稿ありがとうございます。
かんぽの宿、最近は経営が苦しいのでいろんな作戦を考えてるのかもね。
我が彦根市のかんぽの宿は、宿泊だけでなく宴会や入浴だけのサービスもあり、数年前までは一年前に予約しないとダメだと言われた。
それほど繁盛してたが、今はコロナもあり大変なんだろうな…
□■□■□■□■□■□■□■□■
地名パズル
 
   花
川 湧折
◯◯◯◯層←岐阜県□巣郡
本鷲町層
町市  
↑↑↑↑
静三宮京
岡重城都
県県県滋
   賀
  
ヒント、タモリさんは見に来てると思うが…
答えは次回!
Φ(*^ひ^*)Φ
次回は、8月のお盆頃に配信予定です。
その頃にはコロナ禍も収まって、みなさん帰省ラッシュに邁進!
という事態になってるかな?
やっぱり
無理、だろうな…
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
次回のNHK朝ドラ「おかえりモネ」は、宮城県の登米市が舞台だとか?
「登米」を
とべい、
と読んだ人いる
かモネ(笑)…
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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地名夜話21.05.06

2021-05-06 22:02:37 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介

【八街市】千葉県
やちまたし。
難読地名ですね。
関東以外の人間はまず読めない。
普通に読めば、「はちがい」「はちまち」でしょう!
八街市のホームページに詳しい由来が記載されてるので、そのまま貼り付けます

〓八街という名称は、明治新政府の政策により徳川幕府の放牧地であった小金・佐倉両牧の開墾に際し、開墾局が開墾に着手したおおよその順序によって命名された字名によるものです。
 これらの字名は、初富(鎌ヶ谷市)、二和・三咲(船橋市)、豊四季(柏市)、五香・六実(松戸市)、七栄(富里市)、八街、九美上(香取市旧:佐原市)、十倉(富里市)、十余一(白井市)、十余二(柏市)、十余三(成田市)で、明治5年11月2日にそれぞれの村が誕生しました。
この8番目に開墾された地が現在の八街市の始まりです。〓

要約すると、放牧地を開墾した時に8番目の町として、八街が誕生したというわけ。
入植の順番と縁起の良い文字を組合せて名付けられたそうな。

でもこれだけでは納得できない。
じやぁ、なんで「はちまち」じゃなくて「やちまた」と読むの?
「八」はやっつと読むからやちに変化するのは充分ありえる。
でも、まちがまたに変化するのは理解しがたいぞ!

で、古語辞典でちょこっと調べてみた。
すると、街は「ちまた(巷、衢)」のことではないか?という結論に達した。
「ちまた」は道の分かれる所、辻。
道(ち)股(また)の意味。
さらに転じて、道、街路、世間、この世、場所なども意味する、
と書いてある。
つまり、8番目の道股(街路)→八街と名付けられた、
と、ここまで考えてたら、
広辞苑の「やちまた(八衢)」の項の説明に「道が八つに分かれた所。また、道がいくつにも分かれた所。まよいやすいたとえ」と書いてある。

どうやら、この「八衢」→「八街」になったようです。
八衢の衢は、難字だから街にしたのかもね。

地図で確認すると、
千葉市の西北の「中野牧」から先に開墾され、
その後、千葉市の東の「佐倉牧」へと移っていったようです。

この中野牧から佐倉牧へ向かう接点付近に八街が位置する。
八街付近で道が分かれるというわけ。
これでようやく納得しました。

ちなみに隣の四街道市の由来は4つの街道が交わる所だから。
こちらの由来は簡単でわかりやすいですな。

八街市に八街神社がある。
当然ながら平安時代以来の、というような古い由緒ではない。
村ができた明治時代に氷川神社から御霊を勧請して建立されてそうです。
この八街神社、「ライダーズ神社」と呼ばれていてバイク乗り、ツーリングする人にとって大切な神社だとか?
いやぁ、これは知らなかった。
我が滋賀県では自転車での琵琶湖一周、略して「ビワイチ」で地域振興してます。
となると、千葉県を真似して
ビワイチ沿いに自転車神社を建立してもいいんじゃない?
名前はビワイチ神社、
いいですね。
全国からたくさんのチャリンコ達がやってきて、
神社にお賽銭をチャリン、チャリンと入れてくれれば、ウハウハ!
滋賀県儲かる。
て、
近江商人の考えることは金儲けしかないのかい?
お金だけに、おっかねぇなぁ…
と、言われそう。

お帰りは
ビワイチ神社の鳥居から琵琶湖の夕日を眺めて滋賀の歌を歌いましょう。
♪さらば、涙と言おう~

て、それ千葉県前知事の持ち歌やんか!

あ、わかっちまったかな?

では、さらばじゃ!

明後日に続くにゃん


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
かんぽの宿、我がひこにゃん市にあります。
今回、ついに車中泊対応になりました。
朝10時に宿に到着て翌日の10時にチェックアウト。
料金は2000円也。
風呂トイレ売店レストランなども宿泊と同じ扱いで利用できるそうです。
道の駅は無料だけど、お風呂には入れないし売店も制約ある。

安全かつ便利で感染対策されていてリーズナブルに利用できる点では、かんぽの宿いいんじゃないですか?

我が輩も将来、親の介護から解放されたら気ままに車で全国をまわりたい、と思ってる。
でも、親の介護が終わった頃には自分の身体がボロボロになって、どこにも行けない状態になってたりして…


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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地名夜話21.05.04

2021-05-04 21:53:00 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介

【参宮線】三重県
さんぐうせん。
参宮線の参宮は伊勢神宮のこと。
多気駅と鳥羽駅を結ぶ。
JR東海の路線で、街道としては後日解説する御代参街道の鉄道版といった感じ。
だから、紀勢本線の亀山駅から出発して多気駅で分岐し、お伊勢参りするための路線とも言える。

我が輩の小学生の時の修学旅行はお伊勢参りでした。
当時は鉄道での移動で、草津線経由柘植駅から関西本線、紀勢本線、そして参宮線で伊勢市駅に下車し、伊勢神宮参拝、一泊して翌日帰る
という行程でした。
記憶に残ってるのは五十鈴川、二見浦、鳥羽の真珠ぐらい。
お土産に絵葉書とペナントを買ったような…

伊勢の由来は諸説あるが、「磯」いそ→いせ→伊勢となったとか?
五十鈴川の瀬になるのでいすずのせ→いせ、に変化したとも?

神話によれば、伊勢津彦神(いせつひこのかみ)にちなむとも言われる。
また、古事記によるとスサノヲが「わたしは、天照大神の伊呂勢だ」との記述がある。
伊呂勢→伊勢、というわけ。

さらに、ちょっと驚くべき説がある。
前回、京都府南部の山背国→山城国のことを述べたが、
こちら伊勢地方も大和から見れば山背国となる。
山背→伊勢に変化した、
さらに伊勢津彦が石で城を造った「石城(いしき)」が「いせ」に変化したという説も。
まさかここで「石城」が出てくるとはびっくりポンですな。

石城をいわきと読めば岩城→磐城。
いしきと読めば→いせき→伊勢となるわけか?

単なるこじつけのように思えてならない…

ところで、三重県は伊勢国と伊賀国と志摩国が合体した。
さらに紀伊国の一部も含む。
志摩国以外は「伊」が付く国名です。
この「伊」は、本来神を呼び寄せる聖職者を意味するが、大概は熟語の助詞の役割をする場合が多い。
伊は付け足しの字なのだ。
そういう意味で
紀伊は木が多いので当初「木の国」と名付けられたが、二字にするために「木伊」→紀伊に変化した。

同様に、伊賀と本来は「娥(が)の国」だったが、後に伊をつけて伊賀に変化したと言われる。
娥は、険しい山を指すとか?
いがぐりのいがだという説もあるけどね。

となると、伊勢は本来「せの国」で伊をつけて伊勢とした、と考えられる。
「せ」は、先に述べたように山背の「背」かな?
それとも単純に「せい(勢)」に伊を付けたのか?

うーん…伊勢の語源は難しくて決まらない、
伊勢のことを威勢よく考えたが、
我が頭脳は精々考えてもこれが精一杯!
ミエ張っても何もミエてこないのでこの辺でお仕舞いにスルメ伊賀…

明後日に続く!


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
朝ドラ「おちよやん」
地名にちなんだ名前が登場しましたよ。
東海道線の駅名として、
京都→京子
大津→乙子
米原→米太郎
以下、
清洲→熱田→豊橋→浜松→静岡→沼津→横浜→品川→新橋
となる
いやぁ面白いですね

東海道五十三次、頑張って歩かなきゃ!
て、なんでやねん?

て、なんで名古屋駅が無いの?

そりゃ あんさん、
名古屋といえば
尾張、
終わりですがな

ありゃま!

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
スマホの新しい端末が届きました!
同じシャープ製だが、操作の方法がかなり違ってる
このメールを打つのも大変で、慣れるまで時間がかかりそう、
アプリも前機種のデータを引き継いでなかったのですべて1から登録のし直し。
いやはや大変ですわ。
ま、とにかく頑張ります

ちなみに悪戦苦闘したがgmail、元通り見られるようになりました
未読メールがたくさん溜まってた

しかし、まずはよかった、良かった

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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地名夜話21.05.02

2021-05-02 22:27:00 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介

【猪苗代湖】福島県
いなわしろこ。
今さら説明するまでもないけど、日本で4番目の面積を誇る淡水湖。
琵琶湖と同じく構造湖で、断層により誕生したそうです。

猪苗代の由来は諸説あり、よくわからないというのが実情、
「苗代」は四方を限って苗を仕立てることなので、
稲作にからんだ地名であるのは間違いない。
猪は稲を食べないが田んぼを荒らすことが多い。
猪との戦いの歴史が詰まった地名かも?と思われますな。

ここで、ちょっと大胆な仮説を申し述べます。
今休刊してる地図マガの決め台詞は、「地図で確認してね」。
なので、早速地図で確認してみた。
シゲシゲと見てると、猪苗代湖がずんぐりとした猪のような形に見えてきた。
で、閃いた!
昔の人が磐梯山に登って下の湖を見たら猪の形に似てると思い猪苗代湖と名付けた、のではないか?
と思った。
ま、位置的は磐梯山よりも会津若松側の山から見たほうがより猪らしい形ですが…

ところで、このマガの前号で
「城・柵」を「しろ」「き」と読む、と述べた。

現在の福島県は江戸時代まで陸奥国に属した。
陸奥国は福島県から青森県まで含む広大な地域だったため、明治時代になり4つの地域に分割された。
岩代国(いわしろ)と磐城国(いわき)の2国が設置され福島県の母体となった。
福島市・二本松市から会津にかけてが岩代国で、猪苗代湖も含まれる。
磐城国は、いわき市に代表される福島県の東海岸地域で一部現在の宮城県南部も含む。

いわしろ、いわき、
読み方は違うが、どちらも岩からなる城の国という意味に思えませんか?

実は奈良時代に短期間だが、「石背(いわせ)国」と「石城(いわき)国」が設置されたことがあります。
領域は多少違うが、明治新政府はこの奈良時代の旧国名にちなんで新しく岩代・磐城国を設置したのです。

「石背」に関しては、いわせともいわしろとも読む。
現在の京都府南部の旧国名が山城(やましろ)国が最初は「山背」、後に山代・山城という表記に変化したのと一緒。
山背とは都のあった奈良の山の背中、つまり反対側の国なので山背国と呼ばれ、
後に平城京から平安京に都が移り京都が政治の中心地となったため山背→山城に表記が変わったと思われる。
この理屈から言えば、「石背国」は岩の背中の国ということになる。
石城国の背中、反対側に位置するから石背国と呼ばれたのです。
明治新政府も本来は岩背国にするつもりだったが、岩背を「いわしろ」と読んでたので岩代という表記にしてしまった、というわけですな。

では、太平洋側の「石城国」の石とは何?
実はこの石は、「石炭」。
石炭は「石木」という漢字表記がある。
常磐炭田で代表されるようにこの地域は石炭の産地だったので石城国と名付けられたのです。

《ちょっと待った!
待った!
待ちなされ!》

《おぬし、先ほどから背中とか城とか代とかためになる話をしてくれたが最後の石炭は納得できんぞ!

石炭を採掘したのは明治時代以後。
奈良時代に石炭の産地だったなんて初耳、ありえんぞ!》

う、う、うーん…
確かに!
じゃぁ奈良時代の石城国の石は金だ。
金銀銅は古代の日本でも利用されてたぞ。
特に金は東北地方は産地だった。
宮城県の小田郡(遠田郡)から砂金が奈良朝廷に送られたという記録があるわい!

《いや、小田郡は陸前国。
磐城ではないぞ!》

う、う、うーん…
やむを得ん、話を変えるわ


磐城と宮城。
宮城の由来は、屯倉(みやけ)がミヤギに変化した、あるいは多賀城の宮にちなむとも言われる。

磐城は、やはり岩と木の国。
そういえばこの地方は阿武隈山地の東側の地域で岩や木が多い。

単純に阿武隈山地の地形の岩木にちなんだのだと思われますな。

ところで、話を最初に戻すと
猪苗代湖の北、磐梯山の南端に猪苗代城跡が残ってる。
地元の豪族猪苗代氏が築いたと言われてるが、代は城とも書く。
本来は猪苗城だったかも?
もしかしたら猪縄城だったのでは?
猪を捕まえる縄張り城という意味で。

色々と想像が膨らむわ。

というか、長々とわけのわからないことを述べてきたので、

お前さん、いい加減にシロ、キ!

と、言われそう…


明後日に続く


Φ(*^ひ^*)Φ
実は30日にスマホが壊れた。
数日前から充電が異常だったのでたぶん電池が限界に達してたのだと思う。
すぐに近くのドコモショップに行った。
再起動を何回も繰り返して使えないので何とかしてくれと頼んだら、機種が古くて要領が足りないのが原因。
まずはアプリを削除しろと言われた。
電池交換をお願いすると、修理扱いになり大型連休なので10日以上かかる、
新機種に交換した方が早い、と言う。
なんで電池交換にそんなに時間がかかるのか、解せぬ。
と言うか、店員の新しい機種を買わそうという意図が見え見え!

だんだん腹立ってきて、そのまま帰った。
とりあえずインターネットのホームページで手続きして端末を東京のドコモに送り返した。
と同時に格安スマホサイトで
SIMフリー端末を注文しました。

そんなわけで現在今までの我がgmailを見ることができません。
返信いただいても全く見られない
この後、
新しくメールアドレスを作り設定をし直す予定です

しばらくゴタゴタしますが
あしからず、です

トホホ、ですわ


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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