馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
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美濃上石津町【城ヶ平城跡】&観音寺跡

2021-12-26 22:39:35 | 美濃国の史跡

2021年11月12日(金)
大垣市上石津町は鈴鹿山脈と養老山地に囲まれた地域。
江戸時代西高木家の陣屋があり、今も素晴らしい高石垣が残っていて、以前訪問した記録をブログでも取り上げました。


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今回は近年新たに確認された戦国時代の城跡を探訪するために再び「上石津郷土資料館」を訪問しました。


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ここは大垣駅から路線バスありますが、時間の制約もあり資料館の駐車場にマイカーを置いて資料館の受付へ。
城跡のパンフレットをget。

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展示物を見学せず、パンフだけもらうなんて厚かましい。
そのせいか、係員さんが
『城跡は私有地なので節度ある行動をとってください!』
と、何度も念を押された。
耳が痛かった…😥



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パンフ片手に城跡へ向かいました。
「山城跡」という案内看板が随所に建てられてるので助かる。


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でも迷ったけどね。


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開けたら閉める


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小学校の裏側を通った

そして、


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約20分歩いて獣柵に到着。


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↑ここに関連史跡の案内図があります。
獣柵を入り奥へ進む


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「観音寺跡」


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平安時代末に建てられた由緒ある寺院だったようです。


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坂道を登ると高石垣が現れる。


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近江の観音寺城のような城郭寺院だったのではないか?と思える。

これは萌えます!

登ると


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現在は小さな祠があるのみ。
しかし、昭和45年に焼失するまではちゃんとした建物があったそうです。


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手を合わせる女性像が。

ここから遠回りして西側の
「北高木家墓石群」へ。


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墓石群は右下の奥へ↓
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江戸時代、旗本高木家は交代寄合として大名並みの格式を誇り北・東・西3つの家に分かれてこの地を支配しました。


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ここは北高木家の累代墓地でたくさんの墓が並んでます。


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で、墓石をよく見てみると


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「江州大溝城主分部若狭守」


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「泉州??越中守…」
なにこれ?高木家と親交のあった大名の墓も列ねてるのかな?

次に「観音寺経塚」へ


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観音寺の僧が、平安時代末期の兵乱の戦死者の耳を埋めた耳塚です。f:id:umahide:20211221223356j:image


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急な斜面をロープ頼りに登る


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合掌しました。

史跡巡りはここまで。

観音寺跡から北へ進むと
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↑削平地?

この左手に
「多羅城」の幟が。


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多羅城跡を特定できないため、上石津町周辺の城跡の総称として使用されてます。


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多羅は明智光秀ゆかりの地。
一方、山の東側に接する近江の多賀地区も明智光秀ゆかりの伝承地。
多羅と多賀、発音が似ていて近接してる。
なんか、因縁めいたものを感じます。
説明板によると平成31年2月に調査されて戦国時代後半の山城と確認された、とある。
以前から城跡があるとわかってたが正式に確認されたのが今年2月という真新しい城跡なんです。


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↑現地縄張図


坂を登ります

土橋
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横堀
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横堀と竪堀↓
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さらに登ると土塁の間が虎口、


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左手の土手が方形の櫓台だとか?
で、枡形虎口だとか?

虎口付近の防御は厳重ですな。

城内に入りました。


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単郭の削平地です。
全体像は南側が折れていて五角形のような感じ。


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反時計回りに進んだ。

入口付近に井戸跡

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↑北西の堀切竪堀


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↑下の段曲輪を見てるがわからないですね。


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↑西側の土塁

土塁は南側だけが残ってない。

もともと無かったのか、それとも後世に消滅したのか?

伊賀、伊勢では三方のみ土塁というのをよく見かけます

うーん…

一旦、登城口に降りて北東側へ移動した


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北側から主郭を見上げてます
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北側の下には帯、段曲輪↓


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東側の横堀の終点から虎口へ向かう
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虎口へ向かう横堀↑

周囲をもう少し探索したかったが、

資料館で私有地だと釘をさされたので余計な振る舞いは自粛しました。

うーん…😥

この後、虎口で昼食をとりさらに南の樫原城へ向かいます

次回に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

我が輩、長いこと生きてますが、

70センチを超える豪雪は記憶にない

彦根市の豪雪記録更新だとか?

一日中雪かきしてました。

真上を報道ヘリが旋回して我が家付近はテレビニュースのネタにされてたようです。

というか、雪の重みで家が潰れないか心配ですわ😭


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【伊予国遠征13】大洲城その2

2021-12-15 20:39:44 | 伊予国の史跡

2021年2月22日(土)、二日目。

大洲城天守は連結式層塔型。


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層塔型は江戸時代以降の建築方法で、1609年城主となった脇坂安治の時に建てられた。

真っ白の建物が多いが、こちらは黒白。


明治時代に解体され、2004年に復元されたのが現在の姿。
脇坂氏といえば、近江小谷城の出身。
大和高取城→淡路洲本城→大洲城、
最後は播州龍野城主となりました。
いずれも訪城済です。
ただし、龍野古城がスズメバチ規制で入山禁止になってたので、いつかリベンジするつもりです。
ま、龍野古城は脇坂氏の城跡ではないけどね。
10時35分、天守に入った。


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550円也。


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百名城スタンプ押した。
天守雛型があります。


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層塔型はシンプルでわかりやすい形ですよね。内部は通柱が貫いてるのでお寺の四重塔を連想させる。
ただし、お寺の塔は基本的に奇数なので四重の塔は無い。
形がシンプルなので、各階に千鳥破風を付けて装飾し豪華さを出してます。
雛型をよく見ると内部の通柱と外側の隅柱以外は各階の柱の位置がバラバラ。
これは耐震対策なのか、単に構造上の結果なのか?
気になりますね。

内部を見学。


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狭間、


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武者走り、


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階段


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具足は脇坂氏の後に城主となった加藤氏のもの。


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階段の横に心柱。
心柱(通柱)は中央じゃなくて片側に寄ってるのは階段が心柱に沿って付けられたため、だとか?


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一階と二階は吹き抜けです。


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破風の間。

破風は外から見れば装飾性を持つが内側は兵の隠れ家にもなり、外を見張る役割がある。


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最上階です。


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肱川を見てます


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雨で霞んでます。


天守と連結する二重櫓。
「高欄櫓」


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中途半端に高欄が付けられてる。
高欄から月見をしたそうな。


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「台所櫓」
高欄櫓より大型。
天守と同じく黒色の下見板張りなってるので、こちらは小天守と言える。


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約30分ほど見学して外に出ました。


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もう一度、連結天守。

まだ雨が降ってます
川向こうに富士山の形の山が見える。


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冨士山と書いて「とみすやま」と呼ぶ。
梶原景時が名付けたとか?
というか、関東武者の景時はいつ四国に来たのだろうか?

二の丸(北の丸)へ。


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搦手門跡へ
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搦手門外側の内堀跡は現在、菖蒲園になってます。


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内堀の幅は18mの大規模なもの。


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2段石垣↓


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犀川の河原まで下った
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天守を見上げる
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水手櫓


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普通、こちらまで来る人はいません。

もう一度登って

本丸へ戻りました。
「中江藤樹像」


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近江聖人と呼ばれてます。

藤樹は近江出身ですが、米沢藩主加藤家の家臣中江家の養子となり、藩主の加藤家が大洲に移った時に中江家も大洲に移りました。

その後脱藩して故郷の近江に戻り陽明学を究め実践し広めました。


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間近で見たかったが、工事のため近寄れない。

せっかく来たのに、残念無念…


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この後、犀川からオワタ櫓を見て城下町へ向かいます


次回へ続く~


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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美濃【刈安城跡】かりやすじょうあと

2021-12-06 20:47:02 | 美濃国の史跡

2021年10月31日(日)
中山道歩き。
御嵩宿から恵那の大井宿まではいくつもの峠を越える30キロ超の難関コース。
JR中央本線から遠く離れた山の中をひたすら歩く。
途中、平日ならコミュニティバスがあるが休日は運休。
つまり、途中で逃げ場が無いので自分の脚力だけが頼りなのである。
今年の春先に御嵩宿から大湫宿まで8時間かけて歩いた。
今回はその続きで大湫宿の最寄りの釜戸駅


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からスタート。


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最寄りと言っても大湫宿から5キロも離れてるのだが…。


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大湫宿から大井宿へは十三峠という長い山道を進む。

こちらも約5キロの道のり…
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釜戸駅から3時間で権現山一里塚に。


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一里塚から東へ約20分進んだら左手に「刈安神社」の標柱があった。


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本殿は山頂の手前にあり、ここから約30分の登山だと書いてある。
今のペースなら目的地の恵那駅には日没までに余裕で到着できると判断。
なので、往復一時間の寄り道をすることにした。
登山道=参道で、整備されたハイキング道になってる。


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↑石垣?石積?

城跡の遺構、ではないよね

↓登山道を横切る溝が頻繁に出てくる。


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これは一体何なのか?
排水路?階段の名残?
なんか不思議。
しばらく登るとクモの巣や倒木が道を遮る。
どうやら何ヵ月も誰も登ってないようです。
地元の人も参拝しない廃墟の神社なのだろうか?

約15分で、神社に到着。


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確かに廃墟感あり。
左手の社殿は吹きさらし。
このままだと倒壊するのでは?
神殿の背後に巨岩あり。


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これが磐座、御神体なのかも?
後で知ったのだが、「烏帽子岩」だそうな。
山頂は神社の奥の西側なので向かうことに。


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烏帽子岩の右側は崖で行けない。
なので、左の吹きさらしの社殿と本殿との間の隙間から裏に回った。


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↑社殿裏
すぐに
草でわかりにくいが、一本の土塁がありここから山に登った。


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右手の烏帽子岩との間は窪んでるので城跡なら土橋、坂虎口のように思える。


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↓主郭から社殿を見下ろす
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となると、登った削平地(自然地形?)は曲輪か?



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神社の場所は下の曲輪になるわけだ。

と、
なんでもかんでもお城と思い込む悪い癖が…。
さらに西へ進むと帯曲輪のようになっていて土塁、虎口がある。


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いやこれはどうみても城跡だ!


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帰宅したら新発見「刈安城」としてネットに公開しなきゃ!
心臓ドキドキ、
街道歩きを忘れてテンション上がりましたよ。


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山頂へは薄い堀底道のようなものが一本通ってます。

単なる登山道かも?…


591m山頂に到着。


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さらに先端部まで進んだ
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自然地形で城跡の痕跡は見られないが、山頂だから詰め曲輪、中山道を見据える物見曲輪と思えなくもない。
病気です、お城病。

新発見にウキウキして往復約45分で街道に戻り十三峠の麓の深萱立場まで進んだ。


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でも、帰宅してから調べたら、
「刈安城」としてすでに知られていて、なんと!「岐阜の山城ベスト50を歩く」という本にも掲載されてました。

ありゃま、ですわ。

今回は街道歩きが目的だったので城跡に関しては何も調べてなかったのが失敗。

情けないですわ。

ちなみに
この城跡へは車では行けません。
旧中山道、東海自然歩道をひたすら歩くしかないので、あまり行く人も無いでしょうね。

無理にわざわざ行く価値のある城跡、

でもないか…


深萱立場までは車で行けます。
武並駅から深萱立場までは徒歩約30分です。


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立場まで武並駅から路線バスあります。

本によると近くに砦跡もあるとか?
残念無念。

以上おしまい。


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
実は深萱立場で3時の休憩をした後、恵那駅まで向かいかけた時に、
平地の道で突然転んだ。
肘や両手を擦りむいて血だらけに。
ずきずき痛いし、気力喪失。
街道歩きを断念し、最寄りの武並駅から帰りました。

難関の十三峠を越えた安堵感で気が緩んだのか、脚力が衰えてたのか、
いずれにせよこの日は残念な歩きになりました。

中山道歩き、ゴールが遠い…

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

先日、湖西の某マイナーな城跡に登った。

その帰りにマキノ、メタセコイア並木に立ち寄った
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昔は駐車場も無くて誰も見向きもしなかったのに、今や一大観光地。

観光バスも停まっていて賑わってました。

なので、チラッと見て退散しました😥

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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