馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

【伊予国遠征14】大洲城その3

2022-01-30 22:22:04 | 伊予国の史跡

2021年2月22日(土)、二日目。
大洲城、本丸南側と二の丸の間の通路へ移動した。


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本丸の高石垣を見上げる。


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段になってます。
「ここから天守閣にあがれません」という表示が。
いいんです、我が輩は石垣が見たいだけなので。


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本丸の張り出した石垣。
石垣が斜めから真っ直ぐ立ち上がる。
いいですね。
いわゆる横矢掛けで、二の丸からの登城道をにらんでます。

横移動し狭い通路を苧綿(おわた)櫓へ向かう。


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だが、立入禁止!
この先へは行けないので下へ迂回した。


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「苧綿櫓」国重文


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二層二重。石落は黒い下見板張なのでよく目立つ。
苧と綿を保管してたのかな?
防御的には肱川につきだして横矢掛け、北側だけでなく南側の大手門をもにらむ位置です。
石垣は昭和34年に嵩上げされた。

嵩上げされる前↓


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苧綿櫓の近くに「神伝流発祥の地」碑。


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剣術かと思いきや、古式泳法のことでした。
甲冑を着たままでも水中を泳げる泳法です。
元和3年(1617年)頃に大洲藩初代藩主「加藤貞泰」の従兄弟である加藤主馬光尚(1617~20在藩)によって、肱川で創始された。
いざというときに役に立つのでもっと広く普及させてほしいものです。
ちなみに我が輩は全く泳げません

苧綿櫓から肱川沿いに石垣が延びてます。


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いい雰囲気ですね。
大洲市の意気込みを感じます。
護岸の石垣を見ながら川沿いを東へ向かう


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肱川大橋の下をくぐる

大橋を越えて
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左へ向かうと城下町ですが、右側には昔、船橋がかけられていたのでここが北からの出入口だったのでしょう。

東横町通りに入ると


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「おおず赤煉瓦館」
昔は銀行でした。

レンガ舗装の道


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城下町らしい雰囲気の街角


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レトロ看板


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正直言って羨ましい。
我がひこにゃん城下町にはほとんど残ってない…


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そして、「大洲まちの駅あさもや」


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雨宿りも兼ねてここで昼休憩しました。
例の腹痛が続いてるので昼食はやめて自販機の缶コーヒーだけ口に入れた。

すると、腹痛が治まりました。

いやゃ嬉しかった、です。

この時、ようやくわかった。
とにかく食べなければ身体の調子が良い、ということを…


次回へ続く~


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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美濃【樫原城跡】かしばらじょうあと

2022-01-22 21:48:49 | 美濃国の史跡

2021年11月12日(金)
城ヶ平城で昼食後


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13時、南下し樫原城跡へ向かった。


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案内板あるが、ともかく津島神社を目指せば良い。


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「樫原山城」と表示してある。
山が付いてる…

余談ですが、昨年11月下旬に長浜市の塩津城に登りました(後日アップする予定)。
JR近江塩津駅の南の端の琵琶湖岸に「塩津浜城」がある。塩津神社の裏山で本格的な山城です。
一方で、その北の集落沿いにあるのが「塩津城」別名「塩津山城」、こちらは山城と名付けられてるが平城に近い。登山道不要の城跡です。
命名がややこしくて迷いますね。


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徒歩約5分で「津島神社」に到着。


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縄張り図あり。


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社殿の右手が登城道。
本来の大手道なのかな?


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犬走のような道を進むと


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右手に「井戸跡」表示あり。
下をのぞきこむがわからない…


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それよりも左手上の「堀切跡」看板に目が奪われる
早速寄り道、


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尾根を断ち切る明瞭な堀切です。
素晴らしい!
さらに土塁の左手にもう一つ竪堀状の堀切がある。


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二重堀切?
と思いたいが、
縄張り図には載ってないので、これは後世に造られた山道なのかも?

犬走道に戻って「虎口」へ。


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平虎口だが、左手に低いけと南土塁の先端部があり、枡形状折れ曲がり虎口のように見えなくもない


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虎口を入ると大きな曲輪ですぐに井戸跡のような痕跡が見られる。


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北東側を見下ろすと土塁に挟まれた「横堀」


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横堀と堀切が接する部分、


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そして北側の「堀切」
素晴らしい!

この付近から堀底に降りられるので堀底ウォークしました。

もしかしたら、下から登ってきた敵がこちらの堀切道を通り東側の横堀から虎口へ誘導するようになってるのかも?

妄想です。

曲輪に戻って西側へ


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危険注意看板


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急斜面の「切岸」なのです。

いずれ認知されたら柵が設置されるのでは?


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今は危険看板のみ。

南側へ向かうと
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大土塁


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土塁の背後に堀切(最初に見た南側の堀切)。



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反時計回りに一周しました。

犬走道(大手道)を戻ると斜面側に


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穴あり!この反対側に「井戸跡」の看板があるので、最初に見つけられなかった井戸跡はこれなのだと、思いました。


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このCS立体図で城跡が発見されたそうです。

近年、赤色立体図やCS立体図がネット上で公開されるようになったのでこれを活用すると遺構確認に役立つ。

無名の山城探索にとっては嬉しい進歩です。

以上おしまい

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

コロナ感染が爆発的に増えてるので再び県外移動がやりにくくなりました。

困ったもんですな。

積雪とコロナの二重苦で短い山城シーズンを堪能できないのは困ったもんですわ。

先日は、甲賀市の隠岐支城群を探索した。


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隠岐地区周辺の丘に城跡がいくつもある。

すべての丘に城跡があるのでは?と思えてくる。

人口密度は低いが、城跡密度に関しては甲賀市は日本一ではないだろうか?😁


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同じ滋賀県なのに我が地方と違って甲賀市は雪が全く無い。

まさに別天地ですわ。

我が家から車で小一時間ほどで行けるので親の介護の隙間を縫って行くにはもってこい。

しばらくの間、甲賀市を集中的に回ろうかな?


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と思いました😅

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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地元の多賀大社へ初詣

2022-01-14 22:18:18 | 近江の史跡
遅まきながら、ようやく地元の多賀大社へ初詣。
例年は元旦に参拝するが、昨年と同じくコロナ対策で分散参拝に。
糸切餅を買いたいが超高齢の母が喉を詰まらせたら困るのであきらめる。

花手水

まだ雪がたくさん残ってます。
というか、平日のこの時期は閑散としてます。

太閤秀吉さんゆかりの太鼓橋は雪で渡れません。
枝垂れ桜も無惨な状態でした。
春の開花はどうなるだろうか?

おみくじは「末吉」
昨年と同じ。
今年も良くないかな?

飛び出し坊やは明智光秀。



ひこにゃん城、佐和口の堀沿い

積雪で木が倒れてる

今年も宜しくです

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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地名夜話22.01.11

2022-01-11 23:00:29 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介
【細久手宿】岐阜県瑞浪市
ほそくてしゅく
前回紹介した大湫宿の西隣の宿場です。
我が輩はその手前の御嵩宿から出発した。次から次へと峠越えがあり閉口しましたよ。
細久手の由来は細い湿地。
今は細い窪地と言ったほうがいいかな?
地図で確認すると一目瞭然、山と山の間に挟まれた細い窪地の宿場。
宿の中心に位置する本陣は大黒屋さんで現在も宿泊できます。
山間部の宿泊としては唯一無二の貴重なお宿で、足に自信の無い人はここで一泊し次の宿場へ向かう人も多い。
我が輩は健脚なので大湫宿まで一気に進みました。
御嵩駅から約20キロ。
て、さすがにこの行程はキツかったです。
御嵩宿から細久手宿に向かうと「謡坂」という石畳道があります。
「うとうざか」と読む
由来は、
長い坂道を登る苦しさを紛らすために唄をうたいながら登った
「うたうさか」→「うとうざか」へと転化した、と言われてます。
石畳は風情があって街道歩きにとっては醍醐味の一つなのですが、一方で雨に濡れると滑るし、非常に危険。
唄ってる場合じゃない!
慎重に進みいくつもの坂を越えると細久手宿にたどり着くわけです。
さらにいくつかの坂を越えて琵琶峠を降りた所が前回紹介した大湫宿。
次から次にあらわれる峠と坂の繰り返しで、サカらいようもなくクテクテになって体力消耗し体は細クテになり、ホッとしたのもつかの間、
大湫宿でつまずいて血だらけになり痛くて、となりました…
中山道歩きは美濃(実)りあるけど泣かせられますわ。
以上、おしまい
□■□■□■□■□■□■□■□■
地名パズル
 
  伏 
 菰木
◯◯◯◯跡←沼津市の史跡
久町 山
比 
町 
↑↑↑↑
愛三芦ひ
知重北た
県県町ち
   な
   か
   市   
今回は難しい。
答えわかっても何それ?
と、言われるかな。
今年のNHK大河ドラマゆかりの地なのですが…
答えは次回!
Φ(*^ひ^*)Φ
次回は、5月の大型連休頃に予定してます。
このマガ、年末年始、5月連休、お盆休みに発行してるけど、ちょうど連休の時期にコロナ感染も増えるわけで、コロナと不即不離、三密関係にあるような気がしてきた
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
本日は鏡開き。
昔はペッタンペッタンと餅を突いてたが、今はスーパーで買った市販品。
味気ないですね。
昼にぜんざい食べました。
といってもこのぜんざいは冷凍食品。
これも味気ない…
なんかつまんない生活になりつつある…
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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地名夜話22.01.09

2022-01-09 22:42:53 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介
【大湫宿】岐阜県瑞浪市
おおくてしゅく。
岐阜県を凸形に例えると凸の上部分が飛騨国、下の長方形が美濃国。
美濃国の東側になるので東美濃と呼ばれる。
岐阜県には中山道の宿場が16あるが、その中で一番高所にある。
我が輩歩いたが、西から進むと大湫宿までにいくつの峠を越えたことか!
JR中央本線から遠く離れてるために中山道歩きにとってはアクセスが難関で、必死の覚悟でのぞみましたよ。
「大湫」の「湫」、馴染みのない漢字で難読ですね。
意味は、水草などの生えた低湿地を、沼地など。
なので大湫は、大きな湫、大きな湿地帯ということにある。
山間部なので関東の尾瀬を思い浮かべれはいいけど、
現在は田畑となってるので湿地の感じはないです。
「湫」一般的に「久手」と書く。
細久手、広久手、北久手、長久手など、久手地名多い。
だから、大湫宿も本来は大久手宿と記載された。
宿場を管理してたのは尾張藩で、宿場名は大久手、村名は大湫と使い分けされるようになり、明治以後は大湫村とされ現在は瑞浪市大湫町となった。
宿場名も大湫宿と表記されてます。
ちなみに大湫小学校や大湫中学校は廃止されて現在は釜戸小学校、釜戸中学校に編入されました。
この大湫小学校跡に中山道大湫宿の本陣がありました。
本陣の近くで五平餅が販売されていて食べたかったが、五平餅は焼くのに10分ほど時間がかかる。
待つのが嫌いな我が輩、時間も押してたので食べなかった。
今思うと後悔しかない。
実は、昨年だったかな?愛知県新城市作手の亀山城跡の道の駅で五平餅を注文したが、バスの時間に間に合わなくてキャンセルした。
なぜか五平餅に嫌われてます…
新城市「作手」、こちらも広大な湿原があり作久手が作手になったように思われるが、荘園制度時代の田畑を耕作する権利としての「作手権」が由来とする説もあります。
というか、五平餅の作り手のご主人さん、キャンセルしてごめんなさい。
五平餅を焼くのに時間がかかるなんて知らなかったもので…
大湫宿の話に戻ります。
本陣跡から江戸へ向かって進むと街道は右に折れていよいよ難関の十三峠に入ります。
曲がらずに真っ直ぐ行った所に「白木番所跡」があります。
今は看板だけですが、江戸時代は尾張藩が木曽の森林を管理するために設置した出先機関です。
位置的には街道が折れ曲がる場所なので宿場を見張る役目もあったのでは?
以前にも述べたかもしれないが木曽地域や中山道美濃の宿場は政治上・軍事上の要衝だったため幕府の直轄地とされたが、後にそのほとんどが尾張徳川家の領地となった。
結局、その多クテが尾張徳川家が得をする策で終わった…
明後日に続く!
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
正月、早くも9日となった。
例年、元旦に参拝する地元の多賀大社、今年はまだです。
コロナのため分散参拝もいいのですが、ずるずると参拝を先伸ばしすると結局行く機会を逃して来年になったりして…
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
NHK大河ドラマ「鎌倉殿…」始まりました。
さすがに三谷幸喜氏の脚本だけあって引き込まれます
面白い。
今年の大河は楽しめそう!
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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地名夜話22.01.07

2022-01-07 22:34:23 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介
【横手市】秋田県
よこてし。
雪のかまくらと横手城の城下町として全国的に有名な町。
秋田県を長方形に例えるなら、右下あたり(東南部)に位置する。
東隣は岩手県です。
横手城は、戦国時代に地元の小野寺氏の居城だったが、江戸時代になり久保田藩の佐竹氏が城代を置いて支配した。
城代は戸村氏で、常陸国戸村出身だが佐竹氏の一族になりました。
江戸時代、幕府の政策として一国一城の制度がおこなわれた。
つまり、1つの国というより1つの藩では本城以外の支城はすべて破壊させるというもの。
各大名が防御を固めて幕府に抵抗しないようにさせるのが主旨。
なので久保田藩では秋田市の久保田城だけが城として認められるべきはずなのだが、時の藩主が幕府に働きかけて例外として横手城の存続も許されることになりました。
幕府としては名門佐竹氏に忖度したのか?あるいは隣の盛岡藩や仙台藩に対する抑えとして許したのかも?
ね。
横手の由来は、横手川にちなむ。
鎌倉時代に,横手川の横土包み(堤防の横の意)がなまって横手になった、といわれる。
地図を見ると横手川はこの付近で蛇行し、本流の雄物川に合流する。
雄物川から見て横手になる、というのが由来のように思えます。
思うだけですが…
横手は城下町であるとともに羽州街道の宿場でもある。
羽州街道は福島県の桑折追分(奥州街道との分岐)から北上し現在の宮城県、山形県、秋田県を経由し青森県で再び奥州街道と合流する街道。
湯沢宿から来ると横手城下町に入り右手に城を見て次の金沢宿に向かう。
金沢は「かなざわ」ではなくて「かねざわ」と読む。
金沢の由来に関してはよくわからないが、金洗沢の字名があり砂金関連のように思われる。
あくまでも妄想ですが、東北地方に多い姓の金(こん)氏と関連あるかもしれない。
何のコン拠もないけどね…。
こちらは古代に金沢柵が設置された軍事上の要塞で、後三年の役では清原氏の居城として抗戦、源義家は苦戦し兵糧攻めでなんとか落城させた地である。
この戦いの時に義家は馬の飼料として用意しておいた煮豆が行軍の途中で発酵し、おそるおそる食べたら大丈夫で軍の食料となった。
これが金沢の納豆発祥の由来となったそうな。
みなさん納得できますか?
糸引き納豆を食わない我が輩は
ナットウクできませんわ…
明後日に続く
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
いやはや、コロナ物凄い勢いで蔓延しました。
先週までの少なさが嘘みたい
インフルエンザと同じく簡単に感染するようです。
とにかくマスク必須で、濃厚接触は避ける、
対策はこれしかないようです。
納豆で思いだしたが、
1月末の日曜日は毎年京都府の一休寺でぜんざいの日の催しがありみやげに一休寺納豆を買うのが楽しみだった。
しかし、コロナのために昨年は中止になった。
今年は人数制限をもうけておこなう予定のようだが、最近の感染拡大で中止になりそうな予感がする。
一休さん、コロナで万事休す…
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
今日は今年初のひこにゃん城博ボランティアした。



年末豪雪の被害で桜の木が無惨にも根元から倒れてました。



我が家のカエデの木も枝が折れてたし
雪害、恐るべしです。
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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地名夜話22.01.05

2022-01-05 22:38:39 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介
【久喜市】埼玉県
くきし。
関東以外の者にとってあまり馴染みのない市。
埼玉県を台形に例えると、右斜めの線の上のほう。茨城県に接する。
て、これで位置関係わかるかな?
地名由来は諸説あり、
久喜は茎で、柴や薪の採取地だったという説。
これは民俗学の柳田国男氏が唱えたもので有力なのだが、最近は山、丘、自然堤防などの高い所というのが定説みたい。
でも、くき=高い所という意味がよくわからない。
で、広辞苑で調べてみた。
「岫(くき)」というのがあった。
意味は「山の洞穴があるところ。また、山の山頂」という意味。
この岫が久喜に変化したのかな?
久喜市には山と呼べるような高い山はないけど、湿地や沼地から微高地を見上げれば山に見えなくもないか?
ところで、現在は茨城県つくば市の一部になってる「茎崎町」がある。
この茎崎は合併地名で、
小茎村、高崎村、上岩崎村、下岩崎村の「茎」と「崎」を合わせて茎崎町と名付けられた。
久喜市と同じく茎崎町も低湿地の微高地、
低湿地には長い茎の葭(よし)などの水生植物が群生してるのが基本。
小茎村は、ヨシなどの茎が由来だと思われる。
となれば、久喜市のくきも茎が由来だと思えてくるのですが…。
久喜市は鉄道や道路の発達が現在の発展に繋がった。
いわゆる交通の要衝なのですが、江戸時代は五街道の一つ「日光道中」が通っていて「栗橋宿」がありました。
関東三大関所ともいうべき「栗橋関所」が設置された。
利根川の渡し場で対岸は古河市、下総から北の東北地域との境として重要視されたわけです。
日光道中の先は奥州街道ですよね。
というか、豊臣秀吉時代は関八州の徳川氏をにらむ大名とした常陸の佐竹氏がいました。
常陸は東北の入口になる。
古河市は古河公方ゆかりの歴史的な町で古河市の中田宿と栗橋宿は利根川を挟んで1つの宿場としての位置付けだったそうです。
栗橋の由来は、栗の木があったから?
もしくは、本来は茎橋で栗橋に転じたのか?
と、想像をたくましくしたが、残念ながらどちらも間違い。
丸木舟をくりぬいたくり舟の橋→くり橋→栗橋となったようです。
昔の河川には舟を並べて橋にした船橋が多かったが、こちらはくり舟を並べた橋がかけられたので、
くり舟の船橋→くり橋。
で、想像が外れてビッくり!
ところで、古河公方ゆかりとして
久喜市には2代目公方の足利政氏の隠居所「甘棠院」があり公方ゆかりの物品などが残されてます。
甘棠院、読めないですよね。
読みは「かんとういん」
甘棠は、からなし、りんごの木。
中国で善政をおこなった為政者の故事が由来となってる。
足利政氏は、古河公方として善政をしいた、というよりもどちらかというと文化面の活動のほうが充実してたようです。
ちなみに政氏の政は室町将軍足利義政の一字をもらった。
義政といえば、応仁の乱のきっかけとなった将軍で、京都の銀閣寺を建立した人です。
将来街道歩きで久喜市に来たら公方が住んだ文化の土地という久喜のクウキ(空気)を感じたいものです…
明後日に続く
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
年末年始、家出したので例年の家事が何もできなかった。
年末のお墓参りも同様でパスした。
申し訳ないので、今日は父の命日でもあり墓参りしました。
雪深く難儀したけどなんとかお参りできました。
その後、畑へ直行。
こちらも雪深くひどい状態だが、柑橘系は雪にもめげず豊作。
昨年は全く不作だっただけに今年は食べられそうです。
とりあえず、柚子を収穫。
今夜から柚子風呂三昧ですわ。
なお、イヨカン・ハッサクは春のお彼岸頃に収穫するつもりです。
いずれにせよ、この先もう豪雪が無いことを祈るばかりです。
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
おさまったかに思えたコロナ、やっぱり復活してきました。
第6波発生ですね。
オミクロンは感染力強いけど重症化しない、などという軽々しい発言もあるようですが、それを信じて対策を怠るととんでもないことになる。
研究者や専門家は慎重な発言をお願いしたいものですな。
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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地名夜話22.01.03

2022-01-03 22:44:54 | 歴史地理
地名パズル、前回の答え
 
   大
  横湫
◯◯◯◯←中山道の○
入喜市
村市  
↑↑↑↑
富埼秋岐
山玉田阜
市県県県
正解は、『細久手宿』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
地名ちょこっと紹介
【細入村】富山市
ほそいりむら
富山県の南端に位置し神通川沿いの山村。
旧婦負郡細入村だったが、平成の大大合併で富山市に編入された。
すぐ南隣は岐阜県飛騨市。
富山県の東西は富山市を通らずに行き来できない、県を二分することになる合併、これってホントにいいの?
富山市の北端の富山港から約37キロも離れていて移動に一時間以上かかる。
それでも富山市内だなんて…
合併で難読地名とも呼ぶべき婦負郡(ねいぐん)は消滅。
おわら風の盆で有名な八つ尾村も富山市の一部となった。
細入村は細入谷と呼ばれる谷地形の村というのが由来。
神通川沿いルートを利用して飛騨と越中を結ぶ「飛騨街道(越中街道)」の国境の要衝で富山藩の関所も設置された。
飛騨と越中を合わせて飛越街道と総称される。
物資の往来道として栄え、細入地区は牛による運搬に従事する人も多く牛稼ぎの宿場でもありました。
荷物として有名なのが鰤(ぶり)で、富山湾でとれた越中鰤が飛騨高山へ3日間かけて運ばれ、別名「ぶり街道」と呼ばれた。
我が県なら若狭湾の鯖街道ですな。
現在、飛越街道は国道41号線になり、道の駅細入が設置されていて賑わってるそうですな。
この鰤街道沿いにゆかりのあるノーベル賞受賞した人が5人もいて、
別名「ノーベル出世街道」とも呼ばれる
出世魚ぶりを食べて育つとノーベル賞をgetしやすくなるのかな?
なお、
小さい頃食べたノーベル賞飴はノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士にちなんで名付けられた。
実は我が輩の名前も湯川博士ゆかりです。
我が輩はぶりじゃなくて、飴や小鮎鯖などを食べて育ったのでノーベル賞はとても無理。
NOベル(鐘)小者となりました、とさ。
明後日に続く~
□■□■□■□■□■□■□■□■
Φ(*^ひ^*)Φ
こんばん馬!
季刊紙ともいうべき地名夜話です。
メリークリスマス!
の日に発行する予定だったが、諸般の事情によりベリー苦しみまして、本日まで日延となりました。
改めまして
あけましておめでとうございます。
本年も相変わらず宜しくお願いするでゴザル。
て、諸般の事情て何や?
という声が聞こえそうなので申し上げます。
我が地方、記録的な豪雪となり年末年始雪かきに追われてたから。
というのは表向きの事情で、
内実はもっと深い事情があるのだが私的なことなので後日「おまQ」で述べたいと思います。
悪しからず!
て、先伸ばしかい!
教えてくれないのかい?
ハイ、実はトラブルがあったのです。
寅年だけに…
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
コメント
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