馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
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【旧東海道歩き56】『栗東市伊勢落~石部宿』湖南市

2019-08-28 23:43:33 | 東海道歩き『近江路』

2017年5月28日(日)、
14時41分、

長生寺から東へ向かうと町並みが途切れる
伊勢落集落は栗東市の東端だ。
左手に伊勢落の千本松があるようになってるが、探しても見つからずあきらめた。

上は名神高速道路。
街道はこの手前で2つに分かれる。
ふりかえってみる

真っ直ぐが下道、右折し山の中を越えるのが上道。
上道は膳所藩が造った新道で遠回りになる。しかも山の中を通る。
我が輩は下道を行く。
昔の人も上道は通りたくなかったそうですわ。


これより湖南市。
湖南市は甲賀郡石部町と甲西町が合併して誕生した。
同じ甲賀郡だが、
京阪神に近いということで両町は発展し、平成の合併では甲賀市には加わらなかった。

石部町のマンホール
画像では楕円形になってるが、当然ながら本物は真ん丸です。
町の花「サツキ」と「東海道石部宿歴史民俗資料館」がデザインされてます。

JR草津線沿いを進む

会社の名前が「こなん」
湖南市だけでなく野洲市、草津市、大津市なども湖南地域です

「栗東水口道路」の下を通る

国道1号線の慢性的な大渋滞を緩和するために栗東市から野洲川を横断して野洲川右岸を通るバイパスが造られた。
通勤時、この付近の渋滞はホントに半端ないですよ。

15時00分、
「宮川橋」

宿場らしい橋になってますね


次に「五軒茶屋橋」

ここで上道と下道が合流する。

解説によると、
1682年の大洪水で、東海道が消滅。
翌年、膳所藩の本多氏が南側に新道を造った。
この橋から南の山の中に五軒茶屋があった。
新道は山の中を通るため、「五軒の茶屋が石部宿から移転することになった」
↑この説明の意味がわからない。
五軒茶屋はこの橋のある下道に移ったということかな?
と、最初思ったが、
そうじゃなくて、石部宿にあった茶屋が山の中の上道に五軒揃って一緒に移ったということ。
一軒だけだと心細いので五軒が申し合わせて移ったようですな。
結局、明治時代に新道は廃止、本来の旧道が東海道の本道として復活したそうです。

江戸時代、下道はあくまでもバイパスだったようです。
いつか機会があれば、江戸時代の本道というべき上道を歩いてみるつもりです…

石灰岩の山

しばらく進んで、

橋を渡る

橋を渡った時に筋を間違えて県道118号を進んだため
西縄手跡を見逃した



で、ここで右折

『西の見附跡』

ここから石部宿となる。



すぐ横が、石部西交差点

少し進んで、

この左手の消火栓の手前に一里塚跡の看板があるはずだが、こちらも見逃した。

ボォっと歩いてんじゃねぇよ!
と言われそう。


旧東海道の矢印看板の所で右折


曲がった左手に



『鉤の手道』解説板
宿場ではよく見かける折れ曲がりです。
街道歩きにとっては嬉しいけどややこしくもある

道は突き当たる
さっきは右折したが、今度は

左へ曲がれという表示

このT字路右手角に
『田楽茶屋』


栗東市岡に三軒の田楽茶屋跡があったが、ここに目川の茶屋が再現された。

商い中なので、うどん食べたかったが、今回はパスした。


その57に続く

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
胃がん検診でバリウム飲んだ。
下剤をもらって、下痢した。
以来、お腹の調子が悪い。
もう二度とバリウム飲みたくない😰
馬《●▲●》助ヒヒーン♪


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【旧東海道歩き55】『和中散本舗~徳生寺』栗東市

2019-08-26 22:00:03 | 東海道歩き『近江路』

2017年5月28日(日)、
13時31分、
和中散本舗を出て東へ向かう

T字路に来ました


東海道は右折します。
右手に、先に紹介した日向山が見えます


左手に新善光寺への案内看板あり

『新善光寺道の道標』


「是より一町餘(余)」


新善光寺には昔、マイカーに両親を乗せて連れて来たことあるが、あまり記憶にないので立ち寄ることにした。

林公民館



二階建ての大きな山門

「九品寺新善光寺」


鎌倉時代中期、信濃の善光寺阿弥陀如来像を分身を安置したのが始まり。
枯山水庭園が美しいそうです


栗東八景、

彼岸の繁華、と書いてある
お彼岸は凄い人で賑わうのだろうね。
新善光寺は中山道と東海道、どちらからも行きやすい場所にある。
両方の街道からの参拝者を取り込める街道の要衝ですな。

14時01分、

街道に戻りました

石柱あり!

「従是東膳所領」
是より東、膳所領
膳所藩の東の端はここまでだったということです。

薬師如来堂

長徳寺

飛び出し坊や

道標
「新善光寺道 従是三丁」
「如来堂道」
旧東海道は道標が充実してる
それにひきかえ北国街道は…


さらに東へ

右手の奥、日向山の麓に
『岩上神社』


ここのベンチで昼食にしました

パンを食べた
遅い昼食ですわ。

14時32分、
街道歩き再開。

変わった花ですね。


「徳生寺」


栗東市の観光マップでは徳正寺と記載されてる。


間違ってるぞ!



その56に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
健診受けた。
血圧が高いため、眼底検査と心電図を追加で受けさせられた。
後日、赤紙が来るだろうな😥


馬《●▲●》助ヒヒーン♪


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【旧東海道歩き54】『六地蔵一里塚~和中散本舗』栗東市

2019-08-22 07:04:03 | 東海道歩き『近江路』

2017年5月28日(日)、
12時59分、
『東海道一里塚』碑
現在、六地蔵という地名ですが、本来は「梅の本村」でした。
江戸時代に大きな梅の木があったのが由来。
この梅の木の木陰で薬を売ってたのが和中散。

「間の宿六地蔵 西へ至目川一里塚」と書いてある。
Googleマップで目川一里塚跡からの距離を調べたら3.8kmでした。
約一里だから、正解ですな。
石碑の反対側には

「和中散のまち六地蔵/東へ至石部の宿」
草津宿と石部宿の中間に位置するので間の宿として旅人の休憩場所となり、梅ノ木立場として栄えた。
その名物が和中散でした。
この後、和中散へ行きます。
というか、実はこの日の目的は東海道歩きじゃなくて和中散を見学するためだったのです。

栗東八景「積日の海道と城跡」

日向山登城記は後日アップします。

すぐに右手に
『和中散本舗』

国重要文化財 大角家住宅。
寛永年間(1624~)に建てられた。

吊り看板には

「根本梅木 本家 ぜさい」

屋根は普通の桟瓦だが、

白い卯建壁の上の屋根は本瓦葺きになってる


庇の下の柱は一本おきに外されるようになっていて、
あげ戸を上下して茶釜を備えて旅人にふるまったそうです。

左手の切妻の四脚門と白い袖塀が、本陣への入り口


それまで基本的に予約無しの見学はダメだったが、今回から春と秋の特定の日曜日に限り特別一般公開されるようになった。
なので、やって来たのです。
入場券は400円也。


中に入ると土産物が売っていて、
ボランティアガイドさんが解説してくれました。


「わちうさん」の額

本元家梅木村元祖、
かな書看板他に類なし、

和中散は、同業者が五軒に増えたので区別するために
本家本元だと主張したのです

本家は「是斎(ぜさい)」と称し、大角氏を名乗る。
元和年間、京都の名医半井(なからい)朴養のむすめをめとった。
その時に引出物として和中散、奇妙丸(小児薬)などの製法が贈られたので売薬を始めた、という。
慶長16年、徳川家康が近江永原に来た時に腹痛を訴えたので、和中散を服したらたちまち快癒。
一躍有名になったそうです。

近江永原といえば、野洲市の永原御殿が徳川将軍専用の宿泊所で朝鮮人街道近くに設置された。
御殿だが、その造りは城跡と言ってよい。
いつかアップします。

天井にツバメさんの巣。

巣の跡がいくつもあり、歴史が感じられる。
いいですね。

入り口の部屋、

薬を量る天秤はかり、がある。
天井の太い梁が凄い。

最初は薬屋さん専門だったが、隣に座敷を増築し、「梅の木小休み本陣」と称して天皇・公家・大名などの休憩所になった。

庭に明治天皇、皇太后様が休憩された記念碑が建てられてる。

右横に式台、「本陣玄関」
屋根は千鳥破風で、軒先が長めの庇になってる。

庇の下の欄間の彫刻には亀、松、梅などが緻密に描かれてる



四脚門の内側

部屋の奥へ進むと由緒ありそうな屏風が並ぶ

突き当たりはひときわ高い上段の間、


玉座と書いてある。

中央に草履が置いてあるが、天皇はこれを履いて庭の築山に登られたそうです。

襖絵

国指定名勝庭園

奥に見えてる山が日向山(にっこうやま)で借景として取り入れている
小堀遠州作と伝えられてる

カキツバタかな?
ちょうど見ごろでございました。

入り口の反対側の土間には
『木製製薬機』

車輪を2人で回転させて石臼を廻し粉薬をつくった。
国内で唯一現存という貴重なもの。



外に出ました。
旧東海道を挟んで反対側に屋敷あり。

本瓦葺きで、長屋門のような造りです。
こちらは
『大角家住宅隠居所』国重文


家族は本陣に住むわけにはいかないので、こちらを住居とした。

現在もこちらに住んでおられるのかな?

以上です。

公開初日だったので次から次へと見物客が来てました。

ただし、アクセス悪い。
バス便少ないから、手原駅から約25分歩くか、

草津駅からレンタサイクルか、

タクシーで6分か、
ですな。


その55に続く


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地蔵盆になると、子供の頃は複雑な気持ちになったものです。
お供えのお菓子もらえるが、夏休みの宿題の追い込みもある…


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【旧東海道歩き53】『手原稲荷神社~六地蔵一里塚』栗東市

2019-08-21 07:11:15 | 東海道歩き『近江路』

2017年5月28日(日)、
JR草津線手原駅


駅前に『手原遺跡』古代建物群

栗東商工会館建設に伴う発掘調査で発見された。
白鳳時代~平安時代にかけての遺構が検出され、栗太郡の中心地として役場があったと推定されてます。
以前紹介した岡遺跡が栗太郡衙跡と言われるので、この手原遺跡との関係はどうなのか?気になりますな…

そして、前回ゴールした手原稲荷神社からスタート!

稲荷神社由緒

里中大明神を祀る。
室町時代の木造男神座像があるようです
1245年馬渕広政が勧請し、子孫は手原氏と称した。
境内に松の大木があり「笠松の宮」と呼ばれ旅人の休息場となった。

明治天皇の休息された。


12時36分、東へ向かう。

「厚進学校跡」

明治8年に創設された。
後に手原小学校となり、
他の学校と統合されて現在は葉山小学校(手原駅北側)です。
というか、標柱を見るとなんでもかんでも反応して撮影してしまう…

「手原醤油顕彰碑」

塩屋藤五郎家。


解説によると、幕末から大正時代にかけて三代目と四代目が醤油醸造で稼いだ資金で郷土の発展に大いなる寄与があったので、顕彰碑を建てた、ということですな。

隣は
『里内呉服店』

かぎて屋さん。
こちらは国の登録有形文化財。
明治5年創業、大正11年までの50年間呉服店を営んだ。

廃業したが、2007年に85年ぶりに再開した。
今の時代、呉服屋さんは大変だろうが、頑張って商売続けてほしいものですね。



名神高速道路栗東ICへの取付道路が見えてきた

道路下を越えて真っ直ぐ進む

左手に
西厳寺

『肩かえの松』


旅人が松の下で休息した時に、駕籠や荷物を反対の肩にかけ変えた。


ショルダーバッグ、首や肩がこるので時々、左右かけ変えるようにしてます。
さらにズボンのポケットの財布やスマホもわざと左右変えることがある。
いつも同じ位置だと身体に負担がかかると思うんですよね。
まさにこのことか?

右隣は小野公民館

さらに進む。

向こうにちょっと小高いやまが見えてます。
城跡ですよ。

『修齊学校跡』

手原に造られた厚進学校は明治8年だったが、こちら六地蔵地区には明治6年に修齊学校が建てられた。
明治24年に簡易梅ノ木小学校となり、厚進学校ともう一校と統合されて葉山小学校になった。
『巡査駐在所跡』
こちらはよくわからない…

野洲川の対岸の三上山を見る

12時59分
手原稲荷神社から約23分
『六地蔵一里塚』



その54に続く


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お盆過ぎたら気温が下がってきた。
夜は秋の虫が鳴いてます
もう秋ですな


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【旧東海道歩き52】『上鈎~手原稲荷神社』栗東市

2019-08-06 16:45:03 | 東海道歩き『近江路』
"2018年9月8日(土)、
12時37分、
上鈎東交差点

右前方に土塁があるが、これは上鈎池の堤です

池を右手に見て北へ進む

土手に石碑群あり

『九代将軍足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地』

義尚は日野富子の子。
応仁の乱で幕府の権威が失墜したので権威を取り戻すために
隣の近江の六角氏を征伐すべく自ら大軍を率いて栗東までやってきて陣を敷いた。
これが、「鈎の陣」
しかし、六角氏を征伐する前に義尚は陣中で病死、25歳の若さでした。

石碑群は、義尚を偲んだ歌碑のようです。

花時計かな?

なお、陣所跡はこれより西へ行った線路沿いにあります。
JR草津線の電車からこんもりした藪が見えますよ
次回アップします

交差点に来ました

横断します

西方向を見てます

国道1号線を越えた付近に鈎の陣所があります


交差点を過ぎると右方向にカーブする。

東へ進む

住宅地へ入る角に道標あり

道標の西側は、
「草津へ中仙道」
東側は
「石部へ(伊勢参道)」

中央は、「東海道すずめ茶屋跡地」
すずめ茶屋、こちらも田楽茶屋だったとか?

反対側(北側)には
「志那港道起」と書いてある

草津市志那港への道の出発点のようです。

志那街道は、守山駅から歩きました。
いつかアップします

街道を進む

左手に「東経136度子午線」碑

明石が東経135度なので1度東の地点ということ。

さらに東へ。

12時50分
目標の『稲荷神社』到着!



すぐ近くのJR草津線「手原駅」に移動。

稲荷神社から湖南市甲西までは、別の時に歩いてるので、今回はパスしました。

なので、手原駅から電車で甲西駅まで移動し、この後水口宿まで歩いたのです。

次回に続く


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実は手原駅で電車に乗ったら、
甥っ子が乗っていてびっくりポン!

休日出勤で草津市に行き、帰宅する途中だったらしい。

役場、若い子をこきつかうようです…

馬《●▲●》助ヒヒーン♪


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【旧東海道歩き51】『坊袋分岐~上鈎』栗東市

2019-08-05 17:05:24 | 東海道歩き『近江路』

2018年9月8日(土)、
"街道の分岐に来ました

バス停があり,
おばちゃんが待ってます。


バス停の足元に『道標』!
「東海道やせうま坂」

馬も痩せるほどの急な坂だったらしいが、今は大した坂ではない

もう1つ新しい道標がある。

坊袋、中世には治田郷青地の荘域。
江戸時代に坊袋村となり、山城淀藩領となる。
「金勝寺 こんぜ」

「→東海道、川辺、坊袋、目川、岡、新屋敷を経て草津へ至る」
今回歩いてきたルートだ。

「←中郡街道、川辺、下戸山、上砥山、御園、東坂を経て石部へ。
現県道川辺ー御園線起点」
御園は、競馬の栗東トレーニングセンターがある地区です。
御園から山越えすると石部へ抜けられます。

こんぜ道(川辺御園線)は土手の下を沿って進む道で、土手の上は目川池、金勝川が流れてるはず。

東海道は左折して進む

またまた道標。

こちらも新しい道標です
「稲荷神社 東海道」


「稲荷神社の由来 伏見稲荷神社に勧請し建立されたもので笠杉、三吉、枇杷大明神の三神が祀られている」

この稲荷神社は現在の手原駅前にあります。
これから東海道を歩くが、本日の1回目の終点が稲荷神社です。

さらに進む

「善性寺」


縁起によると、

慶安2年(1649)創建。
竹林坊という道場を開いた。
文政九年四月、シーボルトが訪れた。
スイレン、ウド、モクタチバナなど、珍しい植物を見学した。

境内に入る、植物の鉢が色々と置いてある。
植物のことはよくわからないので退散。

川辺交差点

川辺、かわずらと読む。

しばらく進む

川が見えてきた

葉山川の橋、


橋のたもとに「道標」

草に隠れてよく見えない

「安養寺」「上鈎」だと思う…

堤防沿いを進む

同じような造りの二階屋根の家が並ぶ


飛び出し坊やの看板

イマイチ…

上鈎村「油屋」


上鈎は、かみまがり、と読む

地名由来は
栗東市の説明によると、
『近江栗太郡志』は、「鈎」の地名が、先にみた小俣王の子孫である当麻の勾君が居住したことによるものとしています。
また、「まがり」という地名は、「曲」の意味で、川の蛇行などの自然地形に由来するという見解もありますが、栗東の「鈎」の地名は、十里遺跡の木簡とのかかわりからすれば、勾連という氏とのつながりを考えるべきで、7世紀後半にまでさかのぼると推測されるのです。

※小俣王は開化天皇(9代)の皇子

12時37分、
上鈎東交差点



その52に続く

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台風のせいか、東風が吹いて
少し暑さが軽減されて助かる

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【旧東海道歩き50】『岡町~目川~治田』栗東市

2019-08-04 18:00:33 | 東海道歩き『近江路』
"2018年9月8日(土)、

旧東海道歩き、岡村城跡への寄り道から街道へ戻った。

『目川田楽こじまや跡』

三軒の田楽茶屋の1つ。

解説によると藤棚が同じ栗東市の新善光寺に奉納された、という。
以前、立ち寄ったことあるが、藤棚あったかな?

『元伊勢屋跡』

三軒の田楽茶屋、これで三軒全部の足跡をたどったことになる。
ここが、「田楽発祥の地」
さらに
「これより西膳所領」の境界碑もある。

解説によると、
当主の岡野五左衛門は文人画家で、与謝蕪村に師事し、将軍にも見てもらったらしい。
作品は、小槻大社の大絵馬に奉納されてるとか?
て、小槻大社に行ったのに見逃してる。
残念無念なり…

さらに北上します

左手に「治田郵便局」

「治田」はるた。

古代、治田連という豪族がいたそうです

三度笠姿の飛び出し坊や

専光寺

『目川一里塚』

一里塚は道路の整備にともなって消滅、全国的にも現存する一里塚は極めて少ない。
こちらも石碑のみ。

一里塚の木と言えば、大概「榎」ですが、こちらは「椋(むく)」の大木だったそうです。
残ってたら貴重なんですが…

石碑の側面をみると
「目川ひょうたんの里」と書いてある

ひょうたんと言えば、長浜市が有名だが、目川でも東海道の名物として生産されてたそうです。
お酒、お茶などを入れる容器として使用されるが、縁起物としても価値あった。

すると、民家の軒先にひょうたん発見!
ネット販売されてるようです

これより道がカーブを描く

狭いのにたくさんの車が行き交うので危ない

道は右にカーブ
さらに雨が降りだしてきたので傘をさす

治田小前バス停


道はさらに狭くなる。

カーブの先に「地蔵院」

解説によると
境内に天照皇太神宮、八幡大菩薩、春日大明神の銘の碑があり、元禄年間の刻印もあるという。

境内に入りました。

石碑見つけた。
江戸時代までは神仏は一緒と考えられてたのです

街道の分岐に来ました



その51に続く

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NHKテレビ、
本日の深夜から『不滅の恋人』という海外ドラマが始まります。

気分悪いので、見ない!


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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東海道草津宿で忘れ物がみつかった

2019-08-02 06:26:11 | 東海道歩き『近江路』
NHK滋賀県ニュース

東海道に置かれた宿泊施設「草津宿本陣」に新選組が泊まった際に忘れた「キセル入れ」などを公開する特別展が1日から草津市で始まりました。

この『草津宿本陣の“わすれもの”』展には、本陣で見つかった江戸時代の宿泊客の貴重な忘れ物が展示されています。
注目されるのは、新選組が置き忘れた長さ17センチほどの木製の「キセル入れ」と布の袋です。
これらはことし3月、本陣の蔵にあったたんすから見つかり、袋には「新選組様 御失念物」などと書いた紙が結びつけられていました。
市の調査チームが宿泊客について記録する「大福帳」と照らし合わせて調べたところ、土方歳三など幹部4人の名前が書かれていたことから新選組の忘れ物と判明し、今回、大福帳も並べて展示されています。
このほか、大名家の筆入れと墨つぼなど、幕末の宿泊客の忘れ物18点が公開されています。
京都から訪れた70代の男性は「新選組の忘れ物と聞いて見に来ました。歴史の深さを感じます」と話していました。
草津宿街道交流館の八杉淳館長は「新選組をより身近に感じる機会にしてもらいたい」と話していました。
この特別展は、草津宿街道交流館で今月18日まで開かれています。

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新選組が草津宿に泊まったという記録はすでに確認されていました。

今回は、忘れ物がみつかった
土方歳三の忘れ物の可能性が強いそうです。

夏休みの子供の勉強としてもいいんじゃないですか?

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【旧東海道歩き48】栗東市岡町、田楽茶屋~岡交差点

2019-07-20 22:32:20 | 東海道歩き『近江路』
"2018年9月8日(土)、

栗東市岡町
分岐にあるのが、
『田楽茶屋ほっこり庵』

東海道筋に旅人の休憩場として岡の「目川立場」が置かれた。

そこで、伊勢屋の岡野五左衛門家は、精進料理めかわ田楽を売り出した。
大ヒットし、全国に波及したそうです

左側に足湯があります
横の道が旧東海道です

田楽茶屋の右横の門が
『伝 膳所城大手門』

1663年の安曇川地震で膳所城が大破した後に改築された時の門。

明治の廃藩後、膳所藩領のこちらに移築された。

左手に潜り戸のある高麗門。

三葉葵紋の瓦。

『芭蕉句碑』

「草の戸や日暮れてくれし菊の酒」
元禄4年9月9日、重陽の節句に詠んだ句。
長陽の節句と言えば、菊ですよね。
先に訪れた大津市の義仲寺で詠んだそうです。
だから、草の戸は義仲寺のことですな。

足湯の横に
「東海道、田楽の里」石碑

足湯を横目に見て先へ進みます

街道の右手、ヤマキ酒店の所に
『旧跡 人吉藩相良候御対面所跡 山本家』石碑

意味はよくわからないが、九州の人吉藩がこの旧東海道を通ったという証拠ですな。
人吉城に行かねば!


街道の左手に
『京いせや跡』

田楽茶屋の屋敷がここにあった。
伊勢屋は、元伊勢屋と京伊勢屋の2つあり、古しま屋と合わせて三軒の茶屋が田楽を扱ったようです。
しま屋が志摩屋ならば、この三軒はいずれも三重県出身かな?


さらに進むと

信号交差点の右手に『乗圓寺』


11時20分
岡交差点

街道は真っ直ぐ進むが、
ここで右折してちょこっと寄り道しました。



その49へ


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【旧東海道歩き47】国道1号線大路交差点~栗東市岡

2019-07-19 14:21:03 | 東海道歩き『近江路』
"2018年9月8日(土)、
旧草津川の堤防の下を歩いて
10時53分、
国道1号線に来ました

大路3丁目交差点を渡る。

歩道橋に上る

歩道橋から北側を見る

我が輩の若い頃は、右手に大きな電器店があった…

南側を見る。

旧草津川トンネルが、消滅。
車の免許証を取った頃、狭いトンネルを通るのが恐かった。
今はトンネルが無くなって解放感あり。
通行しやすくなったが、なんか寂しいものがある…
昔は↑上に草津川が流れていて下に国道1号線が走るトンネルがあった

壊されたトンネル

トンネル東側

トンネル西側

う~ん…

これから進む旧東海道を見おろす

旧草津川の堤防の下の北側です

堤防の右手に「いろはモミジ」

草津市の名木だとか?

左手に新屋敷第二公民館、

ここを過ぎると、

これより栗東市に突入!

振り返ると当然ながら、草津市の看板です
マンホールも栗東市に変わった

市の花「キンセンカ」
市の木「貝塚伊吹」
市の鳥「メジロ」
が描かれてる
貝塚伊吹は、ヒノキ科の木で排気ガスに強いので公園に植えられることが多いとか?

栗東市も草津市と同じく都市化が著しく進んだ。
合併することなく独自に町から市に昇格した自治体です

草津川に沿って道が徐々に左カーブする

左手の民家の隙間に
『史跡老牛馬養生所阯』碑

和迩村(現在の大津市志賀町和迩)で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見た庄屋さんが、その残酷さに驚き、
ここに養生所をつくり老廃牛馬を収容したそうです。

鯨を食べる日本人を見て野蛮人と決めつける諸外国のみなさん、
日本人は優しいのです。

『従是東膳所領』

境界碑です。
これより東は膳所藩の支配地だと主張してます。
湖南地域は、寺社公家領や幕府領など錯綜していてややこしかった。
だから、このような境界碑が必要だったのかな?

11時07分
新幹線の下を越える

右手に草津川の堤防



分岐に来ました

その48に続く

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

スーパーに買い物に行った

早くもお盆のお供え物が並んでいた

ま、7月お盆もあるけどね


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
コメント
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