馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

【御代参街道】17、石原宿〜小御門地区

2023-08-30 14:46:00 | 御代参街道
2020年6月7日、


北東に西法寺が見えます
道はカーブして南下する


無妙法蓮華経の石碑、
とグーグルマップには書いてあるが、
石碑を見ると「南無阿弥陀仏」と読める


直線の道を南下すると

右手に「徳本上人碑」
ここに斜めに入る道があり
街道の案内板がある。
ただし、グーグルマップでは真っ直ぐ南下になってる。
そして、その先は一旦消滅状態に…

我が輩は案内板に従って進みました

近江鉄道線路沿いの集落
日野町三十坪
「みそつ」と読む
古代条里制の名残の地名です

集落の南端の家の屋根に

赤レンガの煙突
その先の四つ角の足元に
案内板と道標
三十坪だけ読める…
グーグルマップの表示もここで復活


すぐに
近江鉄道の線路を渡る
日没近くなってきて影が長く伸びてる
ここにも道標
ただし、ここは本来の場所ではありません


ひだりいせみち(左伊勢道)

その先の角に


案内板
さらに次の分岐にも
案内板
これだけ案内板が充実してると楽勝です

この付近は小御門地区です

次の四つ角に水利施設。
田んぼへの灌漑施設は現在も貴重です。


県道を横断します
小御門バス停あります。
先程の踏切近くにあった道標、
実はここにあったそうです。
現在はこの案内板が頼り。

↑向きを変えてます

右手に藪が見えてきた

ここで少し寄道します。
日没迫ってるのにわざわざ寄道するってか?

続く…

馬《●▲●》助ヒヒーン♪























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【御代参街道】16、鋳物師泉涌寺〜石原宿

2023-08-25 13:40:00 | 御代参街道
2020年6月7日、17時19分
御代参街道歩き
更新が間延びして申し訳ない。
前回の続きで、
東近江市鋳物師地区から日野町朝日野地区へ。

涌泉寺へ寄道して、再び街道に戻った
朝日野郵便局を左に見て南下する

鋳物師バス停

朝日野駅口バス停


竹田神社の鳥居
近江鉄道朝日野駅の線路を越えて少し進んだ所に神社があります
以前参拝したことあるので、今回はパスしたが、能舞台が残っていて有名な武将達が崇敬した神社なので是非とも立ち寄ってほしい神社です

街道は真っ直ぐ南下

鋳物師(いものし)交差点

日野町のマンホール
日没までには日野駅に到着したいので焦ってます


境内に南北朝時代の宝篋印塔があるが、
見逃した…

ここまでのルート

ここから石原宿となりルートがややこしい
誓善寺を過ぎると二股に分かれる
御代参街道の案内板あります。

グーグルマップでは直進になってるが、
我が輩はここで左折

なぜなら
民家に御代参街道の案内板、
さらに足元に半分隠れてるが「左いせ道」の道標がある。

指示に従って東へ向かい
県道45号線を越えて
朝日野木工の交差点に
案内板があり、曲がる指示が
で、南下します

石原神社

さらに南の四つ角の民家に
案内板、曲がれとある

酒屋さんの交差点に来ると
永源寺道の道標
案内板は曲がれ、とある



ただし、グーグルマップでは変なルートになってます

我が輩は案内板に従いました

道が左方向にカーブします

朝日野木工から真っ直ぐ南下した道と合流した地点の建物に
案内板
ここで曲がれ、というわけ。

ここでもグーグルマップは1つ手前のルートになってます。
どちらが正しいのかな?

で、次の交差点でようやくグーグルマップの表示とここで一致しました。

それはともかく、
先を急いでるのに曲がれ、曲がれ、と迂回させられて閉口しましたわ。

続く

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
街道歩き、最近は京街道と員弁街道が主になってるが、頻繁に雷雨が多く天気と相談ということでなかなか進めない。
さらに我が家から直線距離で行ける国道306号線が台風と豪雨のために通行止になってる。
残念ですわ

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
母の介護、
食事量がかなり減ってきてるので
体力も落ちてきてる。

ヤバいです



馬《●▲●》助ヒヒーン♪























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地名夜話「野良時計」

2023-08-19 22:56:00 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介
【野良時計】高知県安芸市
のらどけい。
安芸市の野良にある時計。
この野良は地名ではない。
地名は安芸市土居。
野良は野原や田んぼという意味の野良。
つまり安芸市土居の野原にある時計。
明治時代、まだ時計が普及してなかった頃、田舎では寺の鐘が時計代わりという時代でした。
そんななか土地の大地主さんが、家にあった掛け時計を分解して自ら時計製作の技術を磨き、独学で大きな時計台を屋敷地に造った。
これにより付近で農作業してる人は時刻を知ることができるようになり、大変喜んだ、土佐。
めでたし、メデタシ、なノラ。



実は今から20数年前、いや30数年前かな?
家族旅行で高知県に行った。

その時は時計台の前に広がる田んぼの土の上から眺めました。

↑昔は田んぼでした

で、今回は1人で列車で再訪しました。
あの時と全く一緒の光景だったが、残念ながら田んぼは無くて雑草の生える野原になっていて、稲作はお辞めになられたようですな。
これも時代の流れか、農地が減少してますね。

待て、待て、待てぃ、おぬし!

な、な、なんですか、あなたは?
粋な恰好してるけど泥まみれじゃないですか!

「今、雑草と言ったな、お前」

ハイ、雑草しか生えてなかったですよ

「たわけが!雑草という草はないき!
草はそれぞれ一つ一つに名前があるき」

え、そうなんですか?
でも名前知らないし…

て、もしやあなたは佐川の牧野博士ですか?
「いかにも」

いやぁ、恐れ入りやした。
佐川へも行きましたよ。
酒蔵の道、素晴らしかったです。

でも、あなたが草花にうつつを抜かしたものだから、酒蔵の岸屋さん潰れちゃったじゃないですか?
困ったもんですな。

あ、いや、それを言われると申し訳ない野良

観光案内所のお姉さんに聞いたら、
岸屋は完全に消滅した。
で、いくつかあった酒蔵を統合して「司牡丹酒造」という佐川唯一の酒屋さんができた、ということであったノラ。

で、驚いたことに佐川の殿様は近江出身で、山内家の家臣として土佐に来た。
と同時に酒造りの職人も近江から連れてきた。
つまりですよ、佐川の酒蔵は近江の血を近江の技を継いでる野良。

なので、土産に司牡丹のお酒を買った野良。

て、この話どこまで脱線するんや?
というか、地名の話をが全く出てこないき!

そうでした、
1つだけ申します。
野良時計のある安芸市土居、
この土居は、安芸城が土塁と堀に囲まれた区画に築かれ、その後、家臣の屋敷が土居のなかに造られたので土居廊中とも呼ばれる。

この土居が地名になったノラ
と、
野良時計のある畠中氏が言った、トサ


以上、おしまいぜよ。

□■□■□■□■□■□■□■□■
地名パズル
   品
   川 
 双 ◯
◯◯◯◯←河内県
蔭中東
学学区
↑↑↑↑
大米東江
阪原京戸
府市都城

答えは次回!

□■□■□■□■□■□■□■□■

Φ(*^ひ^*)Φ
次回はクリスマス頃に予定してます。

お盆が過ぎ、高校野球も終わりに近づいた
夏休みも終盤、もう安芸、いや秋、

♪夏の終わりにはただあなたにあいたくなるの…

ラジオで高校野球を聞いてたら
沖縄尚学の投手で「ひがしおんな」と呼んでる。
あづま男に京女という言葉はあるけど、東女?

で、この後テレビを見たら
「東恩納」でした。
そういえば沖縄には恩納、嘉手納といった「納」地名がありますな。
「な」と読むが、意味は土地のことだそうな。
また1つ勉強になったさ。
聞き間違えても
なんくるないさ~



馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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地名夜話「主計町茶屋街」

2023-08-17 23:03:50 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介。

【主計町茶屋街】金沢市
かずえまちちゃやがい
金沢の3つの茶屋街の1つだが、地名としては難読ですね。
「主計」は会計、会計係のこと。
古代の律令制度で「主計寮」という税務署のような役所があった。
「しゅけいりょう」訓読みは「かずえのつかさ」
この訓読みが現代まで引き継がれてるようです。
とはいえ、金沢市主計町の由来は税務署がここにあったから、ではない
加賀藩の重臣で、富田主計(とだかずえ)の屋敷がここにあったから。
て、誰やねん?
藩主の前田家と縁戚関係のある家臣で、禄高は一万石だったそうな。
江戸時代、大名は一万石以上と言われてた。
百万石の前田家ではたかが一万石だが、小藩なら一大名並みですわ。
この主計町、実は町名改変の時に尾張町となった。
前田家は、尾張荒子の出身で金沢に領地をもらった時に荒子の御用商人がここに住んだので尾張町になったそうな。
その後、住民の懐古運動があり、再び旧町名にもどったのである。
ひがし茶屋街、にし茶屋街のようなひらがな地名とは違って難読地名の主計茶屋街、一味違う趣があるとか?
北国街道歩きでは、2年前ににし茶屋街から金沢城まで通った。
次回は近江町市場から主計茶屋街→ひがし茶屋街へと進む予定です。
さて、いつ行けるかな?
というか、この3つの茶屋街は北国街道沿いに位置してるんですよね。
本来は街道を往来する旅人の茶店街だったわけで、
我が輩も街道歩きの疲れを癒やすために茶屋街で高級料理をよばれて一服したいものですな。 


それは、
年金生活のお前には
無茶や!
缶コーヒーで我慢しろってか?

もうかなざわんわ〜


明後日に続く

Φ(*^ひ^*)Φ
山本周五郎の「青べか物語」という小説を読み始めた。
根戸川、浦粕という地名が出てくるが全く聞いたことが無い。

舞台は河口付近の漁村のようである
根戸川は利根川のことかな?

で、調べたら、
根戸川は旧江戸川、
浦粕は浦安、
と判明した。
どちらも小説の舞台としての仮名でした。
周五郎氏が名づけた仮名なので
地名由来を調べる必要無し

だったべさ…

ちなみに小説では南の沖に百万坪の低地が広がる、とある。
現在はミッキーマウスの国、

周五郎氏が見たら驚くだろうな。

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
東海道新幹線が台風の影響で運休連休で
帰省ラッシュが無茶苦茶に。

で、北陸新幹線が全線開通していれば、遠回りになるけど、東京と大阪のバイパス線として活用できる。
だから、急いで北陸新幹線の工事をやれ、という声が!
さらにリニア新幹線の建設も急げ、と。

それはともかくとして
大阪と東京を結ぶ臨時特急を中央本線経由で走らすことはできないの?

と、素人の我が輩は考えるのだが、
それができないのは
やっぱり分割民営化が足かせになってるからかな?

今、青春18切符の期間中なので、
のんびりと普通列車で帰省するのが一番だと思うけどね。
そんな余裕ないですか?

2日間も足止めくった人、普通列車なら一日もかからずにもっと早く帰れるだべさ。

馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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地名夜話「時津街道」

2023-08-15 23:21:58 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介
【時津街道】長崎県
とぎつかいどう。
全国的な知名度は極めて低い街道で、距離も短い裏街道。
今で言うならバイパスですかね。
長崎市の北、大村湾に面する港町「時津町」と長崎市内を結ぶ街道です。
北九州と長崎を結ぶメインルートは長崎街道で、大村市を経由する。
大村から陸路で諫早、そして長崎へ向かうのだが、
大村港から海上を船で通うルートもありました。
その港となったのが時津港でいわば長崎の外港と言ってもよい。
   船 ~~~~~~ 大村港ー大村宿
  ↗ 《大村湾》      ∥
 ↗           永昌宿
時津港          ∥(諫早市)
∥【時津街道】   ===日見宿
∥       ↗【長崎街道】
長崎=====↗
現在でもこの役割は継承されていて、大村港に浮かぶ長崎空港と時津港を結ぶフェリーが運航されてます。
そして、時津街道(現在の国道206号線)経由で長崎市内を結ぶわけです。
さて、時津の由来はよくわかってないが、古くからの港で
船を待つ津(港)→「時を待つ津」
という意味なのでは?
ところで、鉄道に話を変えますが、
新幹線問題で有名になった長崎本線は、
諫早と長崎の間は2つのルートが存在します。
大村湾沿いを走るのが旧線、
山の中のトンネルを通るのが新線で、現在の列車は基本的に新線を通ります。
それは距離が短くなったからです。
旧線は残念ながら時津町は通りません、
隣の長与町を経由するため別名長与線と呼ばれてます。
もしまた将来長崎に行く機会があれば、長与線に乗るか、大村からのフェリーを利用してみたい
時津だけに、
来たるその時まで待ってくれるだろうか
それとも新幹線開通して廃線となり
時すでに遅し
となってるかな?…
♪時をかけるウマヒデ〜
通過…
明後日に続く
Φ(*^ひ^*)Φ
我が地方、お盆に台風直撃となりました。
普通の台風は上陸するとスピードが増して足早に日本海に抜けていくものだが、
今回はとにかく遅い!
自転車並みの速度だとか?
電動アシスト付けてもっと早く立ち去れ、乗り捨て御免や
と言いたかった…
それはともかくとして、
進路予想と違って少し西へ兵庫県方面にズレたのが良かったのか悪かったのか、
大きな災害もなく無事に台風は我が地方を去っていきました
やれやれ、ですわ。
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
お墓参りは昨日済ましたので、今日は厳重に戸締まりして、ひたすらテレビの台風情報を見てました。
で、「ひろと風」という用語を初めて知った。
岡山県津山盆地付近で北から吹き下ろす風を「ひろと風」と呼ぶそうな。
この「ひろと」は「広戸」。
地名で、勝北郡広戸村(ひろどそん)にちなむ。
なお、合併後は津山市の一部となり広戸という地名は消滅した。
で、このひろと風が台風と絡むと大変なことになるとか?
そんなわけで、台風のおかげでまた1つ地名を覚えましたよ
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地名夜話「甲良町」

2023-08-13 23:45:50 | 近江の史跡
地名ちょこっと紹介
【甲良町】滋賀県犬上郡
こうらちょう。
我がひこにゃん市と接していて、犬上川を挟んだ南側の町。
同じ犬上郡ということで親近感あるが、意外にも仲が悪くて市町村合併の話は進まず、車のひこにゃんナンバーも拒否されて破断となりました。
我が市が高圧的な態度をとってるのが気に入らないのかも、ね。
甲良の由来は、犬上川の河原(かわら)→「こうら」に転化した、と言われてます。
小さな町だが、3人の歴史上の英傑を輩出してます。
まずは、「京極道誉」。
足利尊氏を支え佐々木源氏の基盤を築きました。バサラ大名と呼ばれてます。
出雲の戦国大名尼子氏は京極氏の系統で甲良町尼子が本貫の地です。
二人目は「藤堂高虎」
頻繁に主を変えたため日和見大名と呼ばれてるが、築城術に優れていて江戸城を始めとして二条城、大坂城など有名なお城を造ってます。
江戸時代、外様大名は西国や東北などに飛ばされたが、高虎だけは逆に四国から伊賀伊勢へ栄転しました。
外様ながら家康のお気に入りとして信頼された大名でした。
3人目は「甲良豊後守宗廣」
大工の棟梁で高虎との縁で日光東照宮、江戸増上寺などの造営を担当しました。
現在、甲良町役場前に銅像があります。
ちなみに、藤堂高虎の生誕地は藤堂村と呼ばれてたが、江戸時代彦根井伊家2代藩主の直孝が、藤堂家に対して不遜だとして「在士」という村名に変えた。
で、現在も甲良町在士という地名になつてます。
家康は、合戦になった時に一番槍の家柄は伊賀の藤堂家と彦根の井伊家と決めました。
両家お互いに実力を認めてたようですな。
ところで、今回のクイズの選択肢としては甲良町以外に甲西町、甲南町、甲賀町もありました。
3つの町はともに甲賀郡に属したので町名に甲が付きます
なのに、なのに、
平成の合併で、甲西町は湖南市に。
甲南町と甲賀町は甲賀市になり、分裂しました。
同じ甲賀郡(こうかぐん)なのに分裂して
住民は
コウカイしてないかな?
明後日に続く~
□■□■□■□■□■□■□■□■
Φ(*^ひ^*)Φ
夏休みと言えば、NHKラジオ体操。
毎日全国各地から放送されてます。
で、冒頭に必ずその土地の紹介がある。
先日は「福島県のこおりまち」
とアナウンスが。
郡山の間違いじゃないの?
と思ったが、
「伊達家発祥の地」という解説があり、はたと気づいた
「桑折町」のことですよね。
これも難読地名ですな。
数年前、宇和島城に登った時に、桑折門がありました。
伊達家の家臣桑折氏にちなんだ門です。
桑折町に古代の郡衙があった。
郡、こおりと読む。
養蚕が盛んだったので桑折と改名したようです。
寝床でラジオ体操を聞きながら頭の体操をした我が輩でした。
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
台風7号、
どうやら我が地方直撃のようです
しかも、お盆に来るとは、
ヤバい!
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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地名夜話「野古墳群」

2023-08-11 23:36:00 | 美濃国の史跡
地名パズル、前回の答え
 甲 主
○○○○←土佐県
古町津町
墳 街茶
群 道屋
   街
↑↑↑↑
美近肥加
濃江前賀
県県県県


正解は、『野良時計』
詳細は後日


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

地名ちょこっと紹介

【野古墳群】岐阜県揖斐郡大野町
のこふんぐん
揖斐郡は我が家から車で約1時間ほどで行ける距離で、城跡や史跡が多くて冬から春にかけて度々通ってました。
そんななか、野村城跡へ登った時に麓に古墳群があることに気づいた。
で、後日「野古墳群」を探索しました。

国史跡に指定されていて、駐車場あります。
パンフが置いてあったので、散策マップに従って歩いた。

全部で14基、現存は9基のみ。

名前の如く野原に点在するため、盛り上がった古墳は一目瞭然、遠くからでもよくわかります。


「野」の由来は大野町の中心地。
その大野町は揖斐川流域の北西部に位置し、
大野郡に属した。
その後、揖斐郡に変更された。
なので、大野町の由来は大野郡、
大野郡の由来は
昔、この地方が広大な原野であったからだとか?
広大な濃尾平野の北西部の端っこが原野だったということ。

揖斐川とともに根尾川が流れていて、北に行けば有名は根尾の薄墨桜、谷汲山華厳寺など全国的に知名度の高い観光地があります。

古墳群は5世紀から6世紀にかけての時代のもので当時、この地域が大いに栄えてたという証拠でしょう。

江戸時代、この古墳群に接して織田河内守の屋敷があった。

河内守は東京の有楽町で有名な織田有楽斎の長男で、ここに領地をもらったのです。

この河内守が養老山中でみつけた楓を屋敷地に植えた。
これが有名な「野村モミジ」で
発祥の地となった。

現在、3代目の野村モミジが植えられてます。

実を言うとこの時初めて野村モミジの存在を知ったのですが、
春先に訪れたのに、野村モミジは新緑ではなくて、赤っぽい色なのです。

この後、秋にかけて7回も葉の色が赤や緑や紫などに変化すると、説明板に書いてました。
まさに七変化のモミジですね。
というわけで、古墳とともにモミジにコーフンした次第。

ところで、この赤は濃い紫。
濃紫を、「のうむら)」と読み
これが転じて「のむら=野村」になったという説があります。

いやぁ、びっくりした野ぅ!
野村の由来は濃紫のモミジな野?

それなら、美濃国の由来は美しい濃紫のモミジだったりして…

まさか、だ野ぅ、みな野衆よ…


明後日に続く~


□■□■□■□■□■□■□■□■

Φ(*^ひ^*)Φ
こんばん馬!
季刊紙ともいうべき地名夜話です。
前回はゴールデンウィークだったが、早くもお盆前となりました。
月日の経過は早いですね。
て、それはお前だけや?

コロナ禍に関しては数字の発表が隠されてしまったので、実態はよくわからないけど、深く静かに蔓延してるようです。
ただ、重症化する率が少なくて比較的軽い症状で治るようでそれが唯一の救いか?

で、相変わらずマスクしてるけど
この猛暑、マスクはアカンわ。
苦しい!

それはそうと、
で外出すると若い女の子が携帯扇風機を持って歩く姿をよく見かけるようになって、今やギャルの必須アイテムですな。

我が輩も買おうかな…

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
本日は登山の日で祝日。
お盆休みは本日からスタートのようで、全国的に帰省ラッシュ。
昨日から我が家の前の道路に他府県ナンバーの車が停まってる。
近所の人の息子さん家族が帰省して停める場所がないので道路に停めたというわけ。
我が家としては目障りで、母のディサービスの送迎車を停める場所に困るのです。
なんとかしてくれ〜

ちなみにディサービスも訪問リハビリも
お盆休み関係無し。
平常通りの営業。
介護関係者の方のご苦労、察して余りありますわ


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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近江妙蓮

2023-08-07 12:30:00 | 近江の史跡
守山市中町に近江妙蓮公園があります
大日堂の境内の池で室町時代から咲いてる蓮の公園


説明文にもあるように明治時代後半から開花しなかったが、蓮の研究で有名な大賀博士の尽力により再び毎年夏に咲くようになりました。
資料館と駐車場あります



期間中は有料(高齢者半額)



近江妙蓮は蓮の変異株
花の中央に雌しべも雄しべもなくて
繁殖はレンコンで増殖する。

ちらほら咲き


咲いてる花が少なくて時期的にハズレだったかな?
と思ったが
さにあらず!

近江妙蓮は一斉に開花することは無い

蕾のまま散る花も多い

そんなわけで、映えないのであまり人気は無い

でも貴重な妙蓮、
大切に育ててほしいものです。

馬《●▲●》助ヒヒーン♪













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膳所城の防塁と水害

2023-08-02 09:31:00 | 近江の史跡
7月6日
京阪膳所駅

カーブになっていてホームが狭いので
腰高ベンチになってる

膳所公民館(市民センター)へ移動

膳所城の天守風の建物になってます

膳所藩士羽太(はぶと)家史料展が開催されてたので見学に来ました
幕末から明治にかけての古文書が公開されてました
史料は自由に撮影してよいと係員さんが仰ってくださったので感謝です
有名な大津事件
ロシア皇太子を斬りつけた津田巡査はこの公民館近くに収監されたようです


版籍奉還、廃藩置県、西南戦争などの記載。
京都に近いから情報入手が早かったようです


大塩平八郎の乱、和宮下向、
桜田門外の変は「彦根騒動あり」と簡単な記述。
機密事項だったからね。


御用池普請の事。
羽太家が池の浚渫の役目を負った。
藩士みんな総出でモッコ担いで普請をしたようです。
城下町から山の麓まで大変な労働だったと思います
実は5月の連休に御用池を見に行った
史跡の解説板は無くて
有料の釣池になってました…

他にも史料あったが、
気になったのが、
天保7年の水害記事
大雨続きで琵琶湖の水位が高くなり
城下町のあちこちで水没した。
城下町には旧東海道が通ってたので
大事な通行は水没してない別の道を案内したという。

で、1つ気になったのが、
往還道というのは東海道のこと。
膝付近まで水没したようです
※※※※※※※※※※※※※※※※※※
一、当町筋水漬ハ霊照院前少々有之、響忍寺前泉水寺桝形迄西ノ庄宮

之前五十間計、大津二而ハ石場七、八十間計浜町通り小舟入五十間計、

何レも膝之当り迄水漬候由、
※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「響忍寺前泉水寺枡形前」

水没したため枡形前を避けて響忍寺横から仮道を通らせるようにした、
ということかな。


泉水寺というのは現在見当たらないが
響忍寺で、東海道が屈曲してます。

これが街道の枡形のことだと思う

以前にブログでアップしたことあるが、

響忍寺の門は立派な長屋門で城下町の西側を見張る重要な位置だったことがわかります。
だから、わざとここで街道を折れ曲がるようにさせてます。
長屋門は枡形門のような役割かな?

で、先の図を見ると


東海道を通せんぼするように防塁があったようです。
おそらく水害対策と城下町防護のための土塁だったのでしょう。
この防塁は壊されて
現在は
スーパーマーケットと橋付近が少々高くなってるだけ。
天井川の堤としての高まりとしか見えない

で、市民センターの係員さんにお話を伺ったら、

本来の東海道は防塁を避けて通るようになってたようで、これが枡形の意味なのでしょう。
通行人は
防塁と響忍寺で囲まれた空間を移動させられるわけです。

いやぁ、これは知らなかった。
全く知らずに東海道歩きをしてたわけで
いやはや汗顔の至りですわ。

前述の水害の時は

臨時としてこの図の白い点の仮道を移動させたのでは?
と思いました

グーグルマップ
響忍寺裏の川沿いに緑地があり、
この緑地が防塁跡の痕跡かな?
と推測したが、単なる堤跡の名残かも?

以上、おしまい


あくまでも個人の独善的推敲なので
鵜呑みしないようにお願いします



馬《●▲●》助ヒヒーン♪


























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