馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
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近江宮川藩、その3

2019-02-28 22:42:00 | 近江の史跡

2019年2月23日(土)

講座【宮川藩と堀田氏】

もう1つの領地は
『蒲生郡上迫村』


現在は、日野町迫。
国道307号グリーンバイパスの近く。
山を越えると隣は甲賀市土山町。

上迫村は東海道土山宿の助郷でした。
土山宿で人馬などの都合がつかないと要請を受けて隣近所の村々が補助しなければならない規則になってた。
東海道は往来が激しく、土山宿は鈴鹿峠の麓なので宿泊する人も多かったに違いない。
この助郷の負担が農民に重くのしかかり、困ってたので、
宮川藩に何度も減免のお願いをした。
1803年、ついに473石余の減免が叶いました。


村の困窮が立ち直るまで負担を一時的に中止すると言うわけ。
領地の総高は676石余なので大幅な減免を勝ち取りました。

上迫村の領民は、堀田氏に感謝。
村を救ったお礼に
五社神社を建てて、堀田氏及び道中奉行ら5人を祀りました。

現在は、合祀されて日野町迫の「迫神社」の境内に移されてます。

井並学芸員さんが実際に現地に行って調査、文書を確認したそうです。

地図で確認すると、
日野町迫は日野町の最南端にあるけど、土山宿までは山を越えて約10キロ先。


こんな遠い村にまで助郷をさせるとは、びっくりポン!
水口宿のほうがはるかに近いんだけどね…

というか、今回紹介された2例を見ると宮川藩の堀田殿様は、領民に優しい名君ということになりますな


宮川藩があった日枝神社では毎年5月3~4日に春の祭礼がある。
神輿の渡御や稚児行列とともに曳山が一基、出ます。
有名な長浜曳山祭りと同じくこちらも曳山でこども狂言(歌舞伎)が披露された。
しかし、残念ながら昭和27年に廃止。
現在は、「曳山颯々館」が残るのみ。


この颯々館の後ろの見送り幕は、藩主の堀田正民自筆の図。


実はポスターのこの絵も正民自筆画。

鷹が雀を攻撃してる様子を描いていて躍動感ありますね。

堀田氏は紀長谷雄の家系ということを自慢していて、歴代の藩主は書画に堪能で、みんな完成度が高かったそうです

宮川藩の領地には殿様の書画がいくつか今も伝わってる。


現地にいないお殿様の代わりとして書画が領民を支えて親しまれてたのかもね?


この宮川藩にも明治維新の荒波がやってきます。

新政府軍がやってきた時は、殿様が現地にいないので江戸に問い合わせすると言って、一旦返事を保留したが、
結局、彦根藩に同調して新政府側につくことになりました。

新政府の指示で、江戸詰めだった藩主は、家臣90人を引き連れて現地宮川村の陣屋に入りました。
この時、新たに陣屋と家臣屋敷が建設された。


現在の日枝神社の北側です。

しかし、明治2年の版籍奉還で、
藩主は宮川藩知事に。
さらに、明治4年の廃藩置県で、
廃藩→宮川県となり、長浜県に編入され、
最後の藩主堀田正養は、再び東京に移住させられたのであった。

その後は、議員など要職についたそうです。

以上、おしまい。


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

江戸時代の小藩に関しては、資料が少なく、たいがいの陣屋建物は消滅してるケースが多くわかってないこと多い

それだけに、今回の企画は有意義なもので、また1つ勉強になりました。
ありがとう。

今後は、宮川藩の他の領地の資料を調べて藩の実態を追及してほしいものです。

また、現在の広域長浜市には、井伊家領地の他に幕府領も多い。

それぞれの実態も知りたいですな


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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近江宮川藩、その2

2019-02-27 22:00:00 | 城跡

2019年2月23日(土)

 講座【宮川藩と堀田氏】

 陣屋は、現在の長浜市宮司町にありました。
長浜市といえば、井伊家の領地や天領が多い地域。
そのなかにあって、あえて宮川に藩がつくられたのは、
交通の要衝だったから。

 後日、小谷道歩きをアップする予定なので詳細は省略するが、
米原と小谷を結ぶ小谷道が縦に通る。
交差する道は「長浜街道」で、長浜城下町と北国脇往還の春照宿を結ぶ。
その先は中山道へ繋がるわけです。

宮川は、両街道が交わる場所として重要視されたようです。

 現在、陣屋の建物は何も残ってない。

日枝神社の前に石碑があるだけ。


この近くに宮川藩の世話役をしてた垣見家の屋敷があった。


垣見家は、神崎郡能登川町垣見の出身。

後日いつか、朝鮮人街道歩きをアップする予定だが、現在の能登川駅付近に「垣見」地名があります。
戦国時代、垣見氏は浅井氏の家臣となり活躍したが、浅井家滅亡後は宮川村の豪農となり、宮川藩の実質上の現地支配を担当。
年貢納入など政務をおこなっていたようで、
この垣見家文書と日吉神社文書で藩の様子をだいたいうかがい知ることができたわけです。

というか、宮川藩のような小藩は、現地の奉行としての業務を武士じゃなくて農民に任せていたというのがびっくりポンですな。

 
江戸時代、譜代大名は、その領地がバラバラなことが多い。
井伊家のように湖東湖北にまとまって領地がある例は極めて稀。
宮川藩もご多分にもれず、領地が分散されていて、
本拠の近江国坂田郡の他に甲賀郡、蒲生郡、愛知郡で、一万石。
さらに加増された3000石は、同じく近江国野洲郡と滋賀郡にあった。

今回の企画展示のために、
蒲生郡と滋賀郡の領地に出向き現地調査されました。

まず、

『滋賀郡大物村』
以前当ブログでちょこっと触れたことがあるが、「百間堤」が築かれた大津市(旧滋賀郡志賀町)の村です。

 
幕末、嘉永5年、暴風雨に襲われて四ツ子川の堤防が決壊し、大被害となった。
そこで、領民が宮川藩に堤防の建造を要望した。
藩は領民に米40俵を貸与、

約13000人を動員して百間堤を完成させました。

詳細は、西近江路歩きで後日アップする予定ですが(←予定ばっかり?)、
現場の石積みは、ホントにびっくりポンですよ!

お城の石垣も真っ青なほどの堅固な出来ばえ。

たかが、堤防のためにここまでするか?と思いたくなる。

四ツ子川沿いを上流へひたすら歩く、どこまで行くねん?
と、心配になるが、
突然、立派な石垣が登場する。

その圧巻を是非とも体験してほしいものです。
国の史跡にしてほしいわ。

なお、井並学芸員さんは現地探訪を前館長さんにお願いしたそうです。
我が輩に言ってくれれば、画像提供したのに!
なんなら、現地案内しますよ。

若い女性が一人で行くのは、怖い場所なので。

いや、お前のほうが怖い?
送り狼になりかねん、てか?

 


その3に続く



馬《●▲●》助ヒヒーン

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近江宮川藩、その1

2019-02-26 17:32:00 | 城跡
2019年2月23日(土)

長浜城博物館友の会特別講座がありました。
友の会会員以外も受講できますが、500円有料となる。
博物館の展示を見ると入館料400円が必要。
我が輩は会員なのですべてタダ!

受付したら、来年度(4月からの)更新手続きできますよ、と言うので更新した。
なんと、すでに来年度の会員証が用意されてる。
手回し良すぎ、じゃないの?

もし更新しなかったら、新会員証無駄になる。
絶対に更新すると踏んでるのか?

ちなみに年間会費は、2000円也。
会員証があれば一年間、博物館の展示を自由に見られる。
今回のような講座、講演会も基本的に無料。
極めてお得!
すぐに元がとれます。
長浜市に居住してなくてもOK。
是非とも会員になることをオススメします。

て、我が輩は回し者か?

…………………………………………………………

今回の講座は、
【宮川藩と堀田氏】


講師は、博物館学芸員の井並悦子さん。
たぶん、30歳独身…
たぶん、◇乳…
たぶん、長浜市に住んでない。

なぜなら、以前長浜に向かう電車のなかで後ろの席に座ってるのを見たから。
て、憶測でものを言うな?
失礼しました。

では、講座の内容をちょこっと紹介。

宮川藩、知名度低い。
歴史通でもほとんど知られてないのでは?
なので、宮川藩の啓蒙のために今回展示と講座が開催された。

藩主は堀田氏。
13000石。
堀田といえば、幕末の佐倉藩主堀田正睦が有名だが、佐倉藩堀田家は宮川藩堀田家の分家筋。
佐倉藩の10分の1の石高しかないけど、堀田氏の本家はあくまでも宮川藩なのである。

堀田家は、平安時代の貴族・紀長谷雄の子孫と称していて、本姓は紀氏。
尾張国中島郡堀田村に住み着いて豪族となったので堀田と呼ばれる。
戦国時代、織田信長や小早川秀秋に仕え、最終的に徳川家の家臣となった。
だから、井伊家と同じく新参者で三河以来の譜代ではないが、
その働き目覚ましく、譜代大名の仲間入りした。

三代将軍家光の時に佐倉藩15万石の大大名となったが、
堀田正信が、老中松平信綱と対立し領地没収となった。
しかし、その家柄を潰すのはまずいということで、
正信の子の正休の代に復帰、上野国吉井藩(高崎市)一万石を与えられ、
元禄11年、近江宮川藩に領地替えとなり、その後要職に就いたためさらに3000石加算され13000石となり、明治時代まで存続した。

なお、その後の佐倉藩の堀田氏は正休の弟の正俊系で、安中藩、山形藩などを経由して佐倉藩に戻り11万石として明治まで存続した。

本家の堀田氏はわずか一万石の小大名なので、近江宮川村に陣屋を構え、藩主は江戸住まい。
だから、宮川陣屋に来ることはほとんど無く、藩の経営は家臣に任せた。
ただし、大坂城代になった時、ついでに陣屋に立ち寄ったことがあるそうです。


藩邸は、中屋敷が浅草雷門の近くにあった。
現在、屋敷の痕跡は無くてマンションになってるそうです。
浅草に「金蔵寺」があり、かつて堀田家の菩提寺だった。
今も家臣の方が参詣されてます。

いつか、立ち寄ってみたいものです。

その2に続く

※なお、長浜城博物館のこの企画展示は、24日に終了しました。
※画像は講座の資料です


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長浜市に見習え!

2019-02-25 16:57:43 | 日記
2019年2月23日(土)

長浜市へ行きました。
駅横の観光案内所の待合室で昼のパン食べた。
次々に観光客がやってくる。
長浜市の人気恐るべし。
現在、毎年恒例の長浜盆梅展が開催されてるのでこれが目的の人も多い。
この時期、長浜盆梅パスポートが発売されてる。
千円で、盆梅展の他に長浜城博物館、曳山博物館など市内の4施設の入場料共通券で、かなりお得。

案内所に来た人のほとんどがパスポートを買ってました。
いい商売しますね。
かなり収益あげてるのでは?

それにひきかえ、
我がひこにゃん市は相変わらず殿様商売、もっと色々と企画を考えるべき。
彦根城だけを大事に守ってるだけではダメだぞ!

彦根城+佐和山城の共通券つくるべきだが、佐和山城はほとんど未整備。
とても金取れない。
何よりも寺の私有地だ。

あかんな、この企画は。


いやそれより、
市役所の耐震改修工事が始まったが、いろいろ不正があり現在ストップ。
さらに改修予算が大幅にアップ。
国体対策として市立体育センターを解体中だが、この費用も高くなり、
市の財政の大きな負担となってしまった。

そこで、
財政負担軽減のため、
毎年8月に開催される大花火大会を今年は中止。
七夕総踊りは、永久に中止、
と、決まった。

花火大会は大きな観光資源なのに何考えてるねん。

市の観光行政は後退また後退、

どうにもならんわ…


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

パンを食べた後、長浜城博物館のある豊公園へ移動。

公園内は、スマホを持った人がたくさんいる。
みなさん、ポケモンgoをやってるのです。
ポケモンの巣がある人気スポットだとか?

いいことを思い付いたぞ!

我が市は、
『ひこにゃんを探せ!』
という企画をつくって市内散策をさせると面白いかも?

城下町特有のどんつき、袋小路をいかした企画なのですが…


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越前、杣山城はアルプス登山に同じ、の巻

2019-02-24 22:35:00 | 城跡
今日は上天気

2ヶ月ぶりかな?
今年初めて越前福井県へ出かけました。

例年ならまだ雪の心配しなければならないが、今年は大丈夫。

北陸線、湯尾駅で下車。

徒歩で約一時間かけて居館跡の登山口へ。

車が三台停まってたが、結局一度も誰にも会わなかった。

杣山城がいかに巨大で高い山か、ということですわ。

杣山城は南越前町にあり、中世南北朝時代に南朝方の城で、新田義貞がここに逃げたが、結局落城しました。

こんな高い山の上の城を北朝方の軍はよくもまあ攻めたものだと思いますわ。

 
登山口から二時間かけて本丸へ。

途中に秘め穴、じゃなくて姫穴がある。
これが大変な場所にある。

エロい名前に魅せられて行くもんじゃない。

鎖だけが頼り、1つ間違えば谷底へ。
ホントに怖かったです。

姫穴から尾根の下の池に向かったら、急に頭の血管がドクドク波打ってきた。

息が切れるとか心臓がバクバクするのならわかるが、頭の血管が動くなんて、こんな現象初めて。

このままだと頭の血管が切れてここであの世行きか?
と、心配になりしばらく池のそばで身体を休めた。

少し落ち着いたので尾根伝いに本丸へ行くことができました。


ちなみに、
中腹に林道駐車場があるので素直に西御殿へ向かい尾根沿いを本丸を目指すのがいい。
そして、素直に同じ登山道を下山しましょう。
これが安心安全の登り方だと思う。

 我が輩はひねくれ者なので、本丸の南側の社谷口方面へ下山した。
これが急斜面で、とても危険。
生きた心地しなかった。

途中で額を木の枝にぶつけて負傷。
血が滴り落ちた。
他にも生傷あり、下山した時は精も根も尽き果てた。

尾根付近はロッククライミングのような場所もある。
よくまあ滑落せず無事に生きて下山できたものである。


麓の白山神社の屋根が見えた時の安堵感、嬉しさはまさに地獄に仏、いや地獄に神様でした。
お礼のお賽銭、はずんで五百円玉入れました。

こんな大金をお賽銭としてあげたのは生まれて初めて。
それほど嬉しかったのです。


なお、急斜面を気にしないなら、

今庄駅から徒歩で50分弱で社谷登山口の白山神社にいけます。
登山口から約60分で本丸に登れる。

これが一番手っ取り早いと思う。
次回登ることがあれば、このコースを選択します。
ただし、登山道はあまり整備されてないのでオススメはできないが。

というか、こんな険しい山にもう二度と登ることはない、絶対に。絶対に!
も1つおまけで、絶対に!

いやはや疲れました。

今年一番の難解登山でした。

満身創痍なので、当分の間、山城はやめます…😭


それにしても額の傷が今もズキズキする。
途中で帽子を脱いだのが失敗。
やっぱりどんなに暑くても帽子をかぶるべき。
髪の毛が薄いとなおさら。

髪の毛が頭を保護する大事な役割を果たしてることを再認識させられました。


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【旧東海道歩き41】月輪池~狼川

2019-02-23 18:17:00 | 東海道歩き『近江路』

2018年5月12日(土)

前回まで、なぜか日付が間違ってました。

↑の5月が正しいです。


13時53分、月輪池



月輪立場跡の前に交差点あり。



交差点を渡って北上する。

右手に『月輪寺』



横に行者堂と記載されてる。



門を入って石碑の裏側を見ると



御本尊、役の行者。
役行者が本尊て、珍しいのでは?

1862年、徳川家茂将軍休息時、寺号「月輪寺」を賜る
幕末、将軍家茂が上洛の時に行者堂で休息された。
その時に京都二条城で月輪寺と命名された、ということです。
立場があるし、月輪池を眺めて休憩されたのでしょうね。
さらに、



「松の色に梢のはる(春)や
ます鏡(かがみ)
月の輪寺の名にのこるらむ」
と詠まれた
この時、家茂は2回目の上洛で、東海道を進み3月3日に草津で休息、大津で宿泊、翌3月4日に二条城に入った。
そして、天皇に攘夷実行の約束をされた。

徳川四代将軍以後、誰も上洛しなかった。
が、幕末になり14代将軍家茂は三回も上洛、最後の三回目は長州征伐。
大坂城でわずか21歳で亡くなりました。
長生きしておれば、その後の歴史は変わってたかも?
ちなみに三回目は名古屋から美濃路を進み中山道、そして彦根城で宿泊されてます。




新田開発発祥之地、石碑

北隣に月輪自治会館




月輪の地名由来が書かれてある。



本来、ここは大萱新田。
月輪という地名は明治以後の新しい地名なんですね。



名勝月輪大池は遠いので今回は寄り道せず、このまま北上しました。



左手に街道の雰囲気のある屋敷がありますね

14時06分、月輪三丁目

瀬田地域、月輪池の他にも大小のため池がたくさんある。
滋賀県内では珍しい。

これは、古代に瀬田丘陵で鉄や須恵器生産が盛んで、燃料となる材木を伐採した。
その後、木が無くなった丘陵を開拓して水田にした時に水の確保のためにため池をつくったのが理由らしい。
将来タモリさんが歩くことがあれば、気づくかな?

『南笠東四丁目』



ついに草津市に突入しました。
大津市内が長かった、ですわ。


少し上り坂になった。


湖南平野で上り坂は、まもなく天井川になるという証でもある。




旧中山道の表示と某首相



草津市のマンホール

中央の「中」のような形は、
く・さ・つを図案化したらしい。

有名な東海道のマンホールは、この後、草津宿場に入ると出てきますよ。



『狼川町会館』



櫓のようなモニュメントあり

そして、
『狼川』



本来は、老上(おいかみ)川あるいは大亀川と呼ばれてた。
天井川であばれ川だったので狼川に、
狼が多くて亀が狼を退治したので狼川に、
などの諸説あり。

狼川が大津市と草津市の境になると思うが、流域が変化し現在の両市の境は入り乱れてます。
なお、大津市瀬田から草津市にかけては栗太郡でした



その42へ続く


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【旧東海道歩き40】瀬田小学校~月輪池

2019-02-22 17:51:00 | 東海道歩き『近江路』

2018年5月12日(日)

瀬田公民館


小学校に入りたくて入口を探すが


、さすがに無理でした。

仕方ないので、


上を見上げて小学校南側の忠魂碑付近を撮影する。

ここに西行法師の屋敷があった。


西行法師は佐藤義清といい、俵藤太の後裔で北面の武士でした。
後に出家して全国行脚した。
大河ドラマ平清盛では、藤木直人さんが演じてました。
大河史上最低の視聴率だった平清盛だが、今年の「いだてん」はこの最低記録をさらに下回るのでは?


東海道と芦浦街道の地図

この歴史地図によると
先ほど歩いた芦浦街道は合ってたようですね。
先ほど分岐の所にあった地蔵堂は、湯女場地蔵か!

先にこの地図見るべきだった…

いつか芦浦街道を終点まで歩いてみたい。



東へ向かう

またしても、くまモンの飛びだし看板

直線道も終わり、


この先からカーブ道になる

カーブの場所に


『野上社旧蹟』


前回述べたように大江地名は大江氏の領地があったから。
大江千里、
歌手じゃなくて百人一首で有名な歌人ですが、
「おおえのちさと」
村人から「ちりんさん」と呼ばれて敬われてた。
で、亡くなった後、この場所に祠を建てて野上社と呼ばれたそうです。

現在は、御霊神社に合祀されて石碑が残るのみ。
大江東自治会館前にあるそうだが、見逃した。
残念無念なり。


12時55分、
一里山二丁目北交差点。

お腹空いた!
実はこの日、市街地歩きなので食料持ってきてない。
街道歩きしながら、食堂を物色してたのです。
この交差点を左折するとJR瀬田駅へ行けます。
なので、駅へ向かった。

途中で、イオン発見!


昔は、ダイエーでした。
その前はスーパーひかり屋だった…
ここのフードコーナーで昼食にしました。


13時37分、再び一里山交差点。

『道標』
上、三条大橋まで五里余り

左、旧朝倉道
右、膳所藩札場より大萱港常夜灯に至る
下、江戸日本橋まで百二十里余り

南向いて道標を見てます。
だから、これから進むのは下の江戸方向。
三条大橋からここまで五里ということは、約20キロ。
寄り道ばかりしてるのでなかなか進んでないですわ。

右、膳所藩札場というのがよくわからないけど、大萱港は先ほど昼休憩したイオンから瀬田駅を通って琵琶湖にある港。
急がば回れの矢橋港付近。

★「左、朝倉道」
これがびっくりポン!

朝倉道というのは信楽街道のことで、瀬田と信楽を結び伊勢桑名へ行く街道。
現在の新名神高速道路を思い浮かべればわかりやすい。
昔、平行する県道16号線を車で走ったことあるが、道が狭くて困ったです。
一度歩いてみたいような…

途中に源内峠があるので源内道とも呼ばれる。
現在は大学があり、瀬田駅からのこの道は学園通りと呼ばれる。
では、なんで朝倉道と呼ばれるのか?
地図を見たら、わかりましたよ。
学園通り(源内道)を東へ向かい龍谷大学、源内峠へ行く途中の一里山四丁目付近の地名が「朝倉」でした。
現在も朝倉バス停がある。


地名としては一里山に統合されてしまったが、昔は朝倉という地名だった。
福井の朝倉氏と関係あるのかな?
と思って調べたが、どうやら関係なさそうです。

石碑の左下隅に平成22年8月、三代当主義輝此を建てる、
と書いてあるが、
朝倉家の義輝さん、とも違うようです。
て、誰やねん?

それはともかくとして、
交差点の北側に


『一里塚跡』月輪
現在の一里山という地名の由来は、この旧東海道一里塚があったから。
大正時代までは、松が植えられてた。
今は石碑しか残ってないのが残念ですね。

北上します。

道は東斜め方向に。


長沢川の一里山橋を渡る

長沢川

 


一里山三丁目交差点

東側に山ノ神池がある。
「山ノ神遺跡」


宅地開発で発見された。
7世紀中頃から末期頃の須恵器生産の窯跡と工房跡があった。

さらに東方向へ北上する


13時52分、
『東海道立場跡』


今は水が無いけど、ここは月輪池。
月輪(つきのわ)の地名由来は、
1、この池に映った美しい月の姿から。
2、月輪殿九条兼実の荘園がここにあったから。
という2つの説がある。

街道の立場は賑やかだった。

昔の人は月輪池を眺めながら感慨にひたり、旅したのだろうね。

その41へ続く

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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『ミツバチみっちゃん』ゆるキャラ

2019-02-20 17:46:00 | ゆるキャラ

2018ご当地キャラ博IN彦根。

『ミツバチみっちゃん』

ぶんぶんが口ぐせ。
頭をなでると嬉しくなるぶんぶん、と言ってます。

企業キャラなので、地域キャラではない。

株式会社GSクラフトという企業のキャラ。
京都のぬいぐるみ制作専門店。

なので、一応京都市ですな。

この企業のホームページのキャラ説明をそのまま紹介
…………………………………………………………

GSクラフトのキャラクターは、ミツバチをモチーフにして出来上がったものです。
ここではミツバチとGSクラフトの接点を、ミツバチの習性を例にあげて私どもの理念を知っていただければ光栄です。

今日、科学や文化がに発展し、物資が豊かな現代でも、人間は一人の力だけでは生きていく事は出来ず、お互いにたくさんの人と協力し合っています。
ミツバチに例えますと、その関係性は人間以上に密で、お互いの協力が無いと生き抜いていく事は出来ません。
新しい蜜源を発見した際にも、花の蜜の距離と方向を伝える、お尻を振るダンスで、他のミツバチにも素早く且つ正確に伝達します。
その後、全てのミツバチが受粉交配を行い多くの場所へと受粉を届けます。そうする事により、植物が繁栄し、更なる蜜源を広げる事が出来るのです。
その結果、植物の繁栄はもとより、ミツバチ自身の繁栄の為となります。仲間との協力が見られます。
こういったミツバチの共存共栄の習性をGSクラフトは見習い、社会の中で調和と共栄を目指します。
GSクラフトは、「お客様のお役に立つ為に」のスローガンを基に感謝の気持ちを忘れず、社会(お客様)のお役に立ち、緊密な関係を保ちたいという理念から生まれたのが、このミツバチのみっちゃんであります
……………………………………………………………

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
ミツバチのように社会で共存共栄をはかるのが主旨のようです。

実は我が家の玄関の横の軒下に蜂の巣がある。
ハチは冬でも巣のなかで生存してるらしい。
でも、寒い今なら動きも弱い。

なので、この前真夜中に巣を壊そうと棒で叩いたが、夜で見えなくて失敗。

結局、やる気なくして
今も巣は健在。
だんだん暖かくなってきたので、そろそろハチも動きだす。

今、壊したらハチの攻撃を受けてこっちがヤバい

困ったもんやわ。

こうなったら、
やっぱりハチと共存共栄するしかないようです

ブンブン…

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【旧東海道歩き39】芦浦街道→若松神社から瀬田小学校へ

2019-02-19 16:28:00 | 東海道歩き『近江路』

2019年5月12日(日)

小さな道標の案内に従って


住宅地のなかを縫うように進むと山に突き当たった

左真っ直ぐが芦浦街道に違いない。


これ以上進むと東海道から大きく離れてしまうので、東へ向かう


くまモンのとびだし注意

くまモン、見境なく使われてますな。

11時48分
『久保江古墳跡』


この山は古墳だったのですね。
大津市歴史博物館の解説によると
「墳丘部は削られているが、もとは横穴式石室をもつ円墳。
県内でも珍しい土師質(はじしつ)の亀甲形陶棺をはじめ、金環などの金属製品や土師器、須恵器が出土。
これらから7世紀初頭の古墳と考えられる。現地には陶棺の複製が置かれている。」
だが、陶棺の複製を見逃した…

古墳の手前に灯籠

隣に
『若松神社』


獅子の狛犬は、檜の一木で造られたもので平安時代の作品。
なので、国重文に指定されてる。


ただし、これは模造品。
本物は大津市博物館に保管されてるそうです

ここは「大江」地区。
文章道の家柄のあの大江氏の領地だったので大江という地名になった。

大江匡衡の娘の侍従にまつわる出来事が若宮神社創建になったとか?


寄り道はここまで、


国道1号線に出て、高橋川の分岐まで戻りました。

12時10分
仏壇屋さん

旧東海道を行きます


『大場の桜』


桜の時期に街道をゆく人の目を毎年楽しませてくれてるようです。


浄光寺の門の手前に
『祠』


道祖神(向かって右)と大日如来石仏(左)


街道をゆく人の安全をお守りしてます

浄光寺を過ぎると、
左折します。


直角に曲がるのは近江国府との関連が想定されます。

小さな川を越える


交差点の右向こうに見えるのが


瀬田小学校

この交差点を左折すると、先ほど寄り道した若松神社への道。

東海道は交差点を右折します。

その40へ続く

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【旧東海道歩き38】建部大社分岐~芦浦街道

2019-02-18 16:41:00 | 東海道歩き『近江路』

2019年2月3日(日)

再び瀬田唐橋東詰交差点。

田上山不動道道標。


街道は真っ直ぐ東へ進む

「建部の社、瀬田の唐橋」道標
新しい道標のようです



橋本バス停

11時28分


『神領』交差点


この神領は、当然ながら建部大社の領地という意味です。

このまま真っ直ぐ東へ向かうと
近江一ノ宮の建部大社。


以前、ブログでアップしたことあるので今回はパス。
寄り道しません。

近世東海道は、ここから斜めに真っ直ぐ東へ北上します。

たにしあめ、
タニシの形の飴。
タニシの肉を飴にしたわけではない。
昔、食べたことある。


檜山神社

11時36分
『高橋川』


昔、地理学者がこの高橋川の流域と斜めの国道を見て近江国府の範囲を推定しました。


橋を渡って仏壇屋さんの手前に旧東海道の看板が見えます。


ここで街道は右折します。

仏壇屋さん横の細い路地の角に
『旧芦浦街道』道標

以前紹介したことあるが、草津市の芦浦観音寺へ行く脇道です。

何も下調べしてなくて心もとないが、試しに歩いてみることにした。

細い坂道を下る

住宅地のなかを進む

分岐があります。


調べてないのでどちらに行くべきか、わからない

が、分岐の地蔵堂の横の家の門の内側に
道標を発見


「坂本からさき(唐崎)道」と読める

民家の中にあるのが不思議?
なぜなのだろうか…

すぐに


国道1号線のガードがあり、くぐる。

四つ角があり、


小さな道標発見

読みにくいが、
右せた(瀬田)、
左やはせ(矢橋)、
ではないだろうか?

ともかくこの細い道をゆくことにした

その39へ続く

馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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