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【旧東海道歩き37】瀬田唐橋~瀬田城跡

2019-02-09 17:32:00 | 東海道歩き『近江路』

2018年05月12日(土)


龍宮と書かれた鳥居


後に1408年、俵藤太の末裔が供養のために雲住寺を建立。
さらに1440年、瀬田橋の掛け替えの時に龍王宮秀郷社が創建され、秀郷と乙姫が祀られた。


唐橋の掛け替えが行われると、古い橋脚が神木として秀郷社に祀られるそうです。

境内に『橋守神社』石柱が横たわってます。


明治37年6月、之を建てると彫られてるので、以前は橋守神社だったようですな。




隣に
『雲住寺』

 


境内に道標がある


ちょっと読めない
「……のみやみち」
なんとかの宮道?


『神代桜』


1922年、日本で第一号の天然記念物に指定、と書いてある。

凄いですね。


現代の大動脈、新幹線と名神高速道路を見てます

さらに南へ


さざなみ街道、夕照の道沿いに高いビル



その足下の石垣に
『瀬田城跡』石碑

車の通行が多くて危険なため石碑に近寄れないので、カメラのズームで見てます。

石碑の解説をちょこっと読んでみる

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勢多城は山岡城とも呼び、永享元年(1429)山岡信濃守景房が築く。

後に三井寺を築き光浄院に葬る。
その後九代美作守景隆に至る。
世々、勢多に住す。

景隆、織田信長に仕え3万石を領す。
天正10年、明智光秀が信長を本能寺で殺し安土城を取らんと欲し景隆を味方にせんものと使者を立てて勧告す。

景隆曰く、義を執りて応ぜず、橋を焼き西岸の舟を集めて之を絶つ。

光秀大いに困む時に、徳川家康堺の浦にて光秀の乱を聞き東に帰る途通ぜず宇治より間道を経て勢多に至る。
景隆弟景祐と共に前導して田上山より信楽郷に達せしも土寇ありて路を遮る。
景隆、之を討ち破り徳川の安路を計る。

後に宝暦九年(1759)龍安寺西源院天寧和尚、隠れたる忠誠の勢多城最後の城主従五位下山岡美作守を偲び膳所城主本多下総守康恒に進言す。

康恒、勢多城跡に一宇を建て臨江庵と命名す。
現在の臨湖庵、之なり。
茲に遠祖の功業を偲び山岡市一族を碑を建立す。
昭和40年10月17日
ーーーーーーーーーーーーーーー

※なんとか書き取ったが、見にくい所もあるため、一部間違ってるかも?

現在の臨湖庵が、この高いビルで
『グラン スイート近江臨湖庵』というマンションになってます。

城主だった山岡氏は秀吉に仕えるが、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に内通した疑いで領地没収された。

しかし、徳川家康に仕え常陸国古渡藩一万石の領主となるも、跡継ぎがいなくて改易。
その後は、旗本として仕えたそうです。

瀬田城に関してはこの石碑のみで、
城の遺構は他にない。
どんな城だったのか?さっぱりわかりません。

ところで、
我が輩がもし家康だったら、
大坂城の豊臣家を仮想的とするなら、
瀬田川の西の膳所よりも東の瀬田城付近に城を築いたと思う。

瀬田川は天然の水堀、西から来る豊臣軍をここで食い止められる。
明智光秀が瀬田唐橋を越えられないために安土城になかなかたどり着けなかったのがなによりの証拠。

なのに、なぜ家康は膳所に城を築いたのだろうか?
不思議ですよね。
いざというときは、膳所城に敵を引き付けて、川の対岸から攻撃する。
つまり、膳所城は捨て石か?

うーん…


瀬田唐橋で長い寄り道となりました。

旧東海道へ戻ります

瀬田東詰交差点角に
『田上・太神山不動寺』道標


ここが田上不動道の出発点で、
不動寺へはここから二里半と書いてあるが、
実際には国道を車で走ると約20キロぐらい先です。

これより旧東海道を東へ向かいます


その38へ続く

馬《●▲●》助ヒヒーン♪"

コメント
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