ただいま、ごぜん2時前。
最近 リズム (身体)が狂っている。
昨夜は 7時に床に入った。
トイレに 目が覚めた。
猫ちゃんが、パソコンを開くとどこからか現れて、隣の椅子で、「ニャーゴロ ニャーゴロ」
実家から、見つけた 俳誌 を持って帰った。
昭和62年前後の俳誌が紐で括られていた。
俳句を止めようと決心をして、投稿をしていた俳誌は捨てたはずだった。
このように一括に纏めて、塵に出したつもりであったのだが、、、、
若い頃住んでいた夫の家には、山のように本が積まれている。
嫁入りのタンス、琴、ピアノ、ギター、食器類、本棚、応接セット、、、、、
これら、整理をするとなると大変だ。
断捨離が必要というより、捨てなくてはならないが、見ていると、想い出が一杯つまった物ばかり。
家ごと、機械で、、、寂しいけれど、空き家を整理するときは 一度にかたが付くのだろうな。
住まないでいると、本当は勿体ない家だ。今でも生活が出来る道具も揃っているに、、、、。
さ~て俳誌。
パラパラとめくっていた 夫が
「あなた、どうして 俳句をやめたん?」
と聞く。
「そうネ、俳句をなめていた。おごり昂ぶって、自分を見失っていた、自分が恐くなった。冷静に自分を顧り見た時、人格が失われてゆくのに気が付いて、、さ」
それが正直、まこと本音。
今、苦労をしている。
句会にも出ずに独りでこつこつと、勉強のやり直し。結社には、素晴らしい先輩たちが五万といて、句を競っている。砂浜の中の一粒の砂でしかない自分が心地よいのは確かなこと。
俳句が楽しい。これでもか、これでもか、と未熟な句を切って捨てられて、哀しいが、楽しく明日の自分に希望がある。
「井の中の蛙大海を知らず 」にいた、昔の自分を思うと
「これで良かったんよ!それで良い先生に巡り合ってさ!」
と昨日の夫との会話。
ただ、育て上げようとしていて下さった、先生方に今では、何とお礼とお詫びと、、をと反省の念が。
簡単に俳誌を 恩を忘れて「渡り鳥」をして、結果俳句から遠ざかることになった。
(恩ある先生方は皆さん鬼籍に入っておいでになる)
古い自分が懐かしい。
記憶が甦る。
俳句はその意味で日記よりも良い。
こんな句を見つけた。
🍒 いわし雲立たされ坊主校庭に
🍒 待宵に地図を広げる遍路かな
(白魚火 平成三年一月号)
一昨日の古里は いわし雲が空一面に。それを追って車を走らせた。