まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

苦しみは 苦しいままに やぶ椿

2016年03月03日 | 時にはぼぉっ~とする時

 東かがわ市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は0.7度から14.9度、湿度は86%から48%、風は1mから2mの西北西の風がわずかばかり。明日の4日は、引き続き高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。屋外ではどうかわからないが、窓から見る限りではすっかりと春の風景に見える。

 

 さて、昨夜はカテーテルを挿入した右手首と右首が痛くて寝付けなかった。おまけにトイレに行くのと、隣のおじさんが夜中に歌を歌い出したり寝言を言うもので、30分ごとに起こされて寝不足気味。夜中の看護師さんの巡回だって煩わしい・・・。

 

 これは、『ウローミニ』という自動蓄尿機で、ここにオシッコを入れると、尿の量と比重を測定して記録をする機械らしい。ここに、少量であっても投入しないといけない。このマシンは小型で30人分用。上の案内板の下側に個人の名前が書いてある。個人情報だから隠してあるが、ここをめくって、自分の番号を押して待つと、この扉が開いて尿を投入する。夜中に30分ごとにこれをやると、全くの寝不足になる。

 

 で、その結果はスタッフ・ステーションの監視盤で集計されるのだが、個人的にも管理をしている。それによれば、3㍑から4㍑くらいの尿が出る。そのままだと水分が不足するので、意識的に水分補給をしなければならない。これを夜中にやるものだからますます寝不足になる。

 

 左手は昨夜からフリーになっている。点滴が終われば自由に動かせている。

 

 朝の8時過ぎに、右手の傷跡の消毒と圧迫解除をドクターがやってくれて、これで歯磨きもできるようになった。朝御飯のお箸も使えるようになった。

 

 朝食は味噌汁と米飯小と山芋の白煮と牛乳。これまた三分ほどで食べてしまった。

 

 心不全だと言っても、左と右では少々様子が違うらしい。普通に心不全だと言えば左心不全をいうらしいが、症状から言えば私はウサギさん型らしい。昨日の検査でも右心カテーテル検査を行っている。

 

 さて、今日はひな祭りだということで、今日の昼食はこんなもの。私は特別に米飯小にしてもらっているが、今日のメニューはこれになっている。

 

 写真が近すぎてぼやけているが、俗にいう、讃岐のちらし寿司。ここでは「飾り寿司」になっていた。それに茄子のそぼろ煮、湯豆腐、だし割りパック、ひな祭りデザート。

 

 このキウイはいただいたが、あとはパスした。

 

 これは、頭部MRIの時に使った耳栓。その時には全く役に立たなかったのだが、あれこれとねじったりひねったりしていると、耳に馴染んでしまうと全く音がなくなってしまうようになった。大きな病院が沈黙の病棟になってしまう恐怖・・・。火事になっても津波が来ても、これでは全く分からないなぁと、妙に感心したり恐怖を感じたり・・・。

 

 と言うのも、ここの毎日の人の出入りの激しいこと。退院したと思えばもう別の人が着替えて寝ていたりする。だから、新しく入った人は賑やかで、火災になればどちらに逃げて、トイレはどこで、緊急時にはどこに集まって・・・などと。で、夫婦がああだこうだと半日は会話するから騒がしい。そこで、思い出したように耳栓を使ってみたまで。

 

 今日は全くの予定なし。朝・10時・お昼。・3時・5時・寝る前の検温・血圧測定と体重測定くらいなもの。それに尿検査・・・。「病院は 喰って計って 寝て起きて あとはテレビを見るばかりなり(暁光)」

 

 今日の掲示板はこれ。「辛いという字を 一つのりこえると 幸せという字になる 人生これから」というもの。一見、なるほどとうなずくことばではないだろうか。しかしのかかし、本当にそれでいいのだろうか。私たちの人生には辛いことも、幸せなこともあるもの。それは縁起の道理によって成り立っていることで、つまりこの逆の、「幸せという字を一つ踏み外すと 辛いという字になる」ということもあるわけだ。私たちは常日頃、自分の都合の良いように生きたいと願っている。多くの人が幸せに生きたい、災いを避けて生きたいと願っていることだろう。ところが、そん な風に都合良くは世の中は回らない。この世間では様々なことが次から次へと起こって来るもの。ここ数年は、特に辛いことのほうが多いような気がする。そのせいか、様々な癒しとされるものも流行っている。しかし、癒しや安らぎは一時的なもの。苦しみや悲しみ、辛いことは、一時的に癒されたとしても決して消えてしまう事はないである。苦しみの時には苦しみ、悲しみの時には悲しみ、辛いときには辛いままに、苦しみ悲しむしかないのではないではないか。苦しみは苦しみのまま、悲しみは悲しみのまま、ありのままを受け止めていかない限り、そこからの救いの道は開かれないように思うのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。



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