禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

『善の研究』を読む (3)

2015-11-06 23:01:36 | 哲学

前回記事における実在としての意識現象が第一編における純粋経験となったのは間違いないことである。ここで問題にしたいのは、純粋経験というからには純粋でない経験もあるはずなのだが、私にとってそれがどうも判然としないのである。第一編第一章は次のような文言で始まっている。

≪経験するといふのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋といふのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫(ごう)も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいふのである。≫

非常に明瞭な表現である。純粋経験の定義としてはもうこれで十全であるような気がするのであるが、読み進めていくと上記の定義にはおさまりきらない説明が次々と出てくるのである。どうやら西田は、統一された意識下にある経験を純粋経験である、としたいらしい。しかし、統一というのは何が統一されているのか私にはも一つ分からないのである。

≪それで、いかなる意識があっても、そが厳密なる統一の状態にある間は、いつでも純粋経験である、即ち単に事実である。これに反し、この統一が破れた時、即ち他との関係に入った時、意味を生じ判断を生ずるのである。≫(P24)

するとなにか、私が鉱物の肉うどんをハフハフ言いながら食べているときのうどんの味や温かさは純粋経験で、食べ終わった時「ああ、うまかった。やっぱり大阪屋のうどんはうまいなぁ。」と言った途端、「大阪屋のうどんは美味い」という意味・判断になるというわけか。

確かに、「大阪屋のうどんは美味い」というのは純粋経験ではない、それは意味だろう。しかし、それ自体は経験でさえないものだ。ただの命題である。では、「大阪屋のうどんは美味い」という感慨を私が抱いたという事実はどうか? それは純粋経験とは言えないだろうか? どうもそれを純粋経験から除外する理由はないような気がする。

コペルニクスが一生懸命観測結果を整理し計算している。この時彼の意識下の経験は純粋経験である。計算結果を眺めながら彼は、「やはり、地球が太陽の周りをまわっている。」と言う。この時の彼の状態は純粋経験であるとは言えないのだろうか?

「地球が太陽の周りをまわっている。」という地動説はもちろん命題であって経験ではない。しかし、地動説を確信したという事実はコペルニクスにとっての純粋経験であるはずだ。彼は一貫して、新しい天体運動のモデルを作るという意識の統一下にあったはずだからである。さらに言えば、どんな経験もある種の意識の統一下にあるはずなので、経験はすべて純粋経験と言えなくないはずではないだろうか。

おそらく西田は禅仏教の真理観に従って、世界を概念的に把握するということを排除したかったのだと思う。コペルニクスが地動説を提唱したことは、科学者として正しい行為であり、偉大な業績であることは間違いない。しかし、地動説も天動説も「大阪屋のうどんは美味い」という説も構成された仮説にすぎない、「あるがまま」を受け入れる禅仏教の真理観からすると絶対の真実とは言えないのである。

「あるがまま」とは経験をすべてそのまま受け入れるということである。つまり経験そのものから成る世界を一挙に了解してしまうのである。西田の目指すところがそれであるならば、あえて「純粋経験」と言う概念を導入しなくともよいような気がする。明日の講義にはその辺のところを先生にぶつけてみたいと考えている。


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『善の研究』を読む (2)

2015-11-06 09:04:31 | 哲学

西田はこの著作の序において、「この書は第二編第三編が先ず出来て、第一篇第四編という順序にあとから付加したものである。」としているが、その第二編の冒頭は「第一章 考究の出立点」の中で次のように述べている。

「人は相容れない知識的確信と実践的要求とをもって満足することはできない。たとえば高尚なる精神的要求を持っている人は唯物論に満足ができず、唯物論を信じている人はいつしか高尚なる精神的要求に疑問を抱くようになる。」

唯物論によれば、世界は機械論的に動いているだけということになる。そこには人間的な価値観の入る余地はなくなってしまう。したがって唯物論を信じていると、ニヒリズムに取り込まれ、高尚な精神的要求というようなものを見下すようになってしまうのである、という趣旨だろう。彼の宗教的な信念からして、唯物論が正しいはずはないのである。それで、第二編第二章は次のようなタイトルになっている。

    意識現象が唯一の実在である。

我々は目の前の木や石を実在のものであると思いがちであるが、実は木や石から反射された光を目の網膜で受け止めて、それを電気信号に変えて脳内で映像として再生している。唯物論に従えばそのような解釈になる。つまり、木や石は脳内で構成されたイメージにすぎないわけである。

すべてが脳の中のこととなると、その脳自体も脳の中にあることになってしまう。いわゆる無限後退である。我々には脳の中のことしか論じられないのならば、一体「外」の世界とは何なのかわからなくなってしまう。そもそも私の内と外という区別はどこから来るのだろう。「内と外」という言葉の使用例を反省すると、私と他者から見える部分を「外」と言い、私にだけ見える部分を「私の内」、他者にだけ見える部分を「他者の内」と称していることが分かる。内とは主観、外とは客観と言い換えることもできる。

もし、私たちが他者と出会うことがなければ、内と外の区別も生まれなかったと考えられる。禅ではよく「赤子の目で見よ」というのである。他者と出会う前の素朴な目をもてということである。そして実際に坐禅をすると、自分と自分以外の境界もなくなっていく。このようなことを念頭に置くならば、次の西田の言葉もよく理解できる。

≪少しの仮定も置かない直接の知識に基づいて見れば、実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。この外に実在というのは思惟の要求よりいでたる仮定にすぎない。已に意識現象の範囲を脱せぬ思惟の作用に、経験以上の実在を直覚する神秘的能力なきは言うまでもなく、これらの仮定は、つまり思惟が直接経験の事実を系統的に組織するために起った抽象的概念である。≫(P.71)

ここで述べられていることは決して神秘的な事柄ではない。実に素朴な事実を語っているのである。唯物論を前提とすれば、我々がふれることができるのは意識現象のみなのである。しかしすべてが「意識現象」であるのならば、それをあえて「意識」と修飾するのはふさわしくない。「意識現象」とはあくまで唯物論を前提とした言葉である。禅者なら色即是空と言うだろう、そして空即是色とも。普通の言葉でいえば、それはただの現象あるいは事実とも呼ばれるべきものである。

その辺については西田もこう言っている。

≪余がここに意識現象というのは或いは誤解を生ずる恐れがある。意識現象といえば、物体と別れて精神のみ存するということに考えられるかもしれない。余の真意では真実在とは意識現象とも物体現象とも名づけられないものである。≫(p.73)

話を進める便宜上、「意識現象」という言葉を使い続けることとする。西田は意識現象のみが実在であって、普段我々が実在していると考えている「客観世界」は「思惟が直接経験の事実を系統的に組織するために起った抽象的概念である。」と述べている。つまり、「木や石が実在し、それらが光を反射して我々の視神経を刺激し‥」というようなスキーム自体が推論によるつじつまを合わせるための抽象的概念であると言っているのである。ここでいう抽象的概念とは推論による構成物であるというような意味であろう。

光であるとか、視神経であるとか、脳であるとかは実は我々は直接に認識できない。他者を解剖して、他者と同等であると推定される「自分」に当てはめて、いろいろな分析・総合を重ねた末の推論の上に成立している、あえて言えば「虚構」に過ぎないのである。

( 続く )

 

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『善の研究』を読む (1)

2015-11-05 09:28:54 | 哲学

今週末に放送大学の面接授業で「『善の研究』を読む」という講義を受けることになったので、久しぶりに「善の研究を」読み返してみることにした。

まず、序文の中の次の言葉に着目してみよう。

    個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである。

この言葉だけを聞くと「経験が人格を形成する。」という意味に受け取る人が多いのではないだろうか。いわゆる「人生経験」であるとか「ひと夏の経験」だとかいうのも経験だが、哲学者の言う「経験」はもう少し意味が広いのである。哲学者が「経験」と言うとそれは私が感官でとらえたものすべてを指す。すなわち心的現象を全て経験と呼ぶのである。つまり、あなたの今見つめている風景はすべて「経験」である。明るい日差し、そよ風にそよぐ緑の柳、青い空、白い雲、これらはみなあなたの経験である。目に見えるものだけではない。美味しそうなカレーライスの匂い、大福の甘い味、ブログを書いている時のタイプの感触、これらもすべて「経験」である。

すなわち、この世界の全てがあなたの「経験」であるということになる。実際に西田はこの「世界」は経験によって構成されていると主張しているのである。ここで私はうっかり「あなたの『経験』」と書いてしまったが、すべてが「あなたの『経験』」であるなら、既に「あなた」はそこには無い。あるのは「私」のでもなく「あなた」でもない、ただの「経験」ばかりである。

おそらく西田は禅を通じて上記のような観点を得たのだろう。そこには道元禅師による正法眼蔵の中の有名な一節に通じるものがあると言える。

   仏道をならふといふは、自己をならふなり。
   自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
   自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。

ここでいう「万法」が西田のいうところの「経験」である。個人(自己)があって経験があるのではない、個人(自己)は経験の上に措定されるものに過ぎない、という意味である。

西田は、「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明してみたいというのは、余が大分前からもっていた考えであった。」と述べている。おそらく、仏教でいうところの「あるがまま」の世界観を純粋経験というアイデアで表現しようとしたのだろうということは、間違いのないことだと思う。

( 続く )

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