禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

『善の研究』を読む (4)

2015-11-26 12:05:51 | 哲学

11月7,8日の二日間にわたって、杉田正樹先生の講義を受けたのだが、杉田先生と私の西田に対する関心の方向性が食い違っていて、少し物足りないものを感じた。先生はリベラルな観点からもっぱら西田の非論理的な精神主義的なものを批判する。それらの指摘はもっともなことなのだが、だからと言って西田哲学を全否定してしまうと、少なくはない日本最高の知性ともいうべき人々が彼を評価している点まで掬いきれなくなってしまう。今回は、「善の研究」における評価すべき点について述べてみたい。

西田は第二編が最初に書かれたと述べている。その第一章は「考究の出立点」となっているように、そもそものアイデアはこの第二編にあると考えるべきであろう。その中でも特に第二章のタイトルである「意識現象が唯一の実在である」という言葉に注目したい。

≪我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を抽象したのにすぎない。≫

意識現象という言葉をまぼろしか幻影のようなものととってはいけない。たとえばあなたの前にリンゴがあったとする。その場合、「赤いリンゴがありありとそこにある」というリアルな感覚そのものを、あなたの意識に生じる現象という意味で、西田は意識現象と称しているのである。では物体現象とはなにか。物体現象とは科学的な目で、「赤いリンゴがそこに存在する。」と判断することである。つまり、リンゴの実体があって、それが赤い波長の光を反射して、その光が視神経を刺激して、私に赤いリンゴが見える、というようなことを指す。

科学者は、「鋼鉄の塊も原子レベルで見れば、小さな原子核の周りをもっと小さな電子がまわっていて、中身はほとんど真空のスカスカである。」というようなことを言う。しかし、西田に言わせれば、鋼鉄はあくまで稠密で堅固である、中身がスカスカの原子モデルは鋼鉄が稠密であるということを説明するために推論によって構成された仮説にすぎない、と言うだろう。

つまり、意識現象というのは実際の「見え」、物体現象というのはその「見え」を(広い意味での)科学的知識をもとに思考の中で再配置したもののことである。我々は通常「あるから見える。」と考えがちであるが、西田は「見えるから、あると思い込む。」のだと言っているのだ。

以上のことから、西田の「意識現象」からカントの「表象」を連想するかもしれない。カントの「すべては表象である。」という言葉は「意識現象が唯一の実在である」とはほとんど同じような意味のように受け取れる。しかし、カントは「すべては表象」と言いながら、それを触発する「もの自体」というものに言及している。もう一つ大きく違うのは、カントが経験を可能とする超越論的統覚と言うものを措定しているのに対し、西田は「意識現象が唯一の実在である」と言いきっていることである。

事実は、「そこにありありとした赤いリンゴがある」、「硬い鋼鉄の塊がある」という意識に感じる事実だけがある。リンゴの実体や鉄の原子などというものは推論によってできた抽象的仮説に過ぎないものであると言うのである。ここで、「意識に感じる事実だけがある。」と述べてしまったが、「意識」と言うからには誰の意識か?ということにもなるが、これは「意識現象」という言葉が不適切なのである。このことについては西田自身が次のように言い訳している。

 ≪余がここに意識現象というのは或いは誤解を生ずる恐がある。意識現象といえば、物体と別れて精神のみ存するということに考えられるかもしれない。余の真意では真実在とは意識現象とも物体現象とも名づけられないものである。≫

 ここまでくれば、「意識現象」とも「物体現象」とも言えないものが「純粋経験」そのものであることが容易に察することができる。物自体に触発されるものではなく、また統覚の支配を受けないで成立しているから「純粋経験」というのであろう。

現代哲学では、「脳内で起きている物理現象からどうして意識が生じるのか。」ということが大きな課題となっている。いわゆる「意識のハードプロブレム」と言うものだが、西田の一元論はすでにこの問題を解決している。彼によれば、「脳内で起きている物理現象が意識が生じさせる」という発想がそもそも逆転している。「意識があることから、脳内で物理現象が起きていると推論される」のである。事実はクォリアがあるということだけである。脳内の物理現象というのは抽象された仮説にすぎない。

もう一度、第一章第一篇の冒頭の純粋経験の定義を振り返ってみよう。

≪経験するといふのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋といふのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫(ごう)も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいふのである。≫

多くの人はこの文章を読んで、純粋経験というのは「無念無想の境地」における経験のことと受け止めるのではないかと思う。実は私も最初はそのように考えていた。そうではなくて、思考による解釈には推論が入っているので、それを排除して真正な世界観を築こうということに過ぎない。仏教でいうところの「あるがまま」受け止めるということである。残念ながら、この第一章「純粋経験」の説明は西田自身が混乱しているのか、錯綜していてとても成功しているとは思えない。気が向いたらまたそのことについて述べたいと思う。

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