たとえばあなたが所用で羽田空港に行ったとき、見知らぬ人に声をかけられたとする。「私は人を迎えに来たのですが、名前も顔もその人については何も知りません。私が誰を迎えに来たのか教えていただけませんか?」と問われたら、さぞや困惑するだろう。
こんなことを言うのは、ある掲示板で次のような問いかけを見つけたからだ。
≪ 長さはなく、容積もなく、質量もなく、色もなく、光もなく、形もなく、およそ我々が考え得る一切のものを持たない世界を「無」と考えたとき、無は存在すると言えましょうか。また仮に存在したとして、このようなものから何か学び得るものはあるのでしょうか。 ≫
「長さはなく、容積もなく、質量もなく、色もなく、光もなく、形もなく、およそ我々が考え得る一切のものを持たない世界」という定義に矛盾はない。矛盾はないから言葉で言い表すことはできる、しかしそのものに関する直感は得られない。
私たちは通常、「お金が無い」とか「恋人がいない」とか言う。なにかの対象物があることを期待して、その期待が満たされない時に「無い」と言います。つまり常識的な概念としての「無」は何かの欠如なのだ。しかし、質問者のいう『無』とは「我々が考え得る一切のものを持たない世界」のことだという。「我々が考え得る一切のものを持たない世界」のことをわれわれが考え得るだろうか?
ここで、質問者は自分が何を問うているのか理解しているのだろうか、という疑問が起こってくるわけである。もしかしたら、名前も顔も知らない人を探しているのではないのだろうか?
「長さはなく、容積もなく、質量もなく、色もなく、光もなく、形もなく、およそ我々が考え得る一切のものを持たない世界」は存在するのか? という問いには、そんなものあってもなくてもどっちでもよいと答えるしかないだろう。たとえそんな世界があったとしても、その定義上我々の認識能力はそこに到達しえないからだ。そのような世界があるとかないとかたとえ知りえたとしても、我らの知識がなんら充実されたことにはならない。もちろん、そのようなものから何か学び得るものなどあり得ようもない。
ときどき、「宇宙は138億年前のビッグ・バンによってできた。」という人がいる。「では、ビック・バンの前はどうだったの?」と訊ねると、こともなげに「何もなかった。時間も空間もなかった。」と言う。
はたして、「時間も空間もないような状態」とは何を意味するのだろうか。直感が伴わないような事柄について人はどうして言及できるのだろう。