今週末に放送大学の面接授業で「『善の研究』を読む」という講義を受けることになったので、久しぶりに「善の研究を」読み返してみることにした。
まず、序文の中の次の言葉に着目してみよう。
個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである。
この言葉だけを聞くと「経験が人格を形成する。」という意味に受け取る人が多いのではないだろうか。いわゆる「人生経験」であるとか「ひと夏の経験」だとかいうのも経験だが、哲学者の言う「経験」はもう少し意味が広いのである。哲学者が「経験」と言うとそれは私が感官でとらえたものすべてを指す。すなわち心的現象を全て経験と呼ぶのである。つまり、あなたの今見つめている風景はすべて「経験」である。明るい日差し、そよ風にそよぐ緑の柳、青い空、白い雲、これらはみなあなたの経験である。目に見えるものだけではない。美味しそうなカレーライスの匂い、大福の甘い味、ブログを書いている時のタイプの感触、これらもすべて「経験」である。
すなわち、この世界の全てがあなたの「経験」であるということになる。実際に西田はこの「世界」は経験によって構成されていると主張しているのである。ここで私はうっかり「あなたの『経験』」と書いてしまったが、すべてが「あなたの『経験』」であるなら、既に「あなた」はそこには無い。あるのは「私」のでもなく「あなた」でもない、ただの「経験」ばかりである。
おそらく西田は禅を通じて上記のような観点を得たのだろう。そこには道元禅師による正法眼蔵の中の有名な一節に通じるものがあると言える。
仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。
ここでいう「万法」が西田のいうところの「経験」である。個人(自己)があって経験があるのではない、個人(自己)は経験の上に措定されるものに過ぎない、という意味である。
西田は、「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明してみたいというのは、余が大分前からもっていた考えであった。」と述べている。おそらく、仏教でいうところの「あるがまま」の世界観を純粋経験というアイデアで表現しようとしたのだろうということは、間違いのないことだと思う。
( 続く )