禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

おざなりのことは言わない

2014-07-12 10:22:58 | 哲学

私は門徒の家に生まれ、小さい頃から祖母から親鸞聖人についてはよく話を聞かされた。そのせいなのかどうか、今でも親鸞聖人には親しみと尊敬の念をもっているし、日本が生んだ最大最高の思想家だとも思っている。
しかし、これは近親憎悪とでもいうのかもしれない、浄土真宗の教団に対してはどうしても意地悪な嫌悪感が湧いてくるのを抑えることができないでいる。

浄土真宗のお寺の門前にはよく黒板が掲げられている。大抵はそこに「今日の一言」といったような箴言めいた言葉が書かれている。ある日とあるお寺の前を通ると、次のような言葉が掲示板に書かれていた。

    ≪ 心をこめて生きておれば真実が見えてくる ≫

善男善女はこの掲示板を見て、「そうだな、心をこめて生きていこう」と、気持ちを新たにしながら通り過ぎるのかもしれない。しかし、自称「アマチュア哲学者」たる私の脳裏には、激しい疑問の渦が湧き上がるのである。

  ここでいう『心』とはなんだ? どうやったら『心がこもる』んだ? 『真実』とはなんだ? 

まともな人が聞いたら、揚げ足取りのいちゃもんと受け取るかもしれないが、アマチュア哲学者は何でも突き詰めないと気が済まないのである。

ご近所のおじさんが、「心をこめて生きなきゃダメだな」といったのなら、私も「そうだね」と相槌を打つ。しかし、お坊さんの言葉は一般人のものと同等に扱うことはできない。「あいつはプロだな」という時「プロ」の語源は  profession (聖職)である。いうなれば、お坊さんはプロ中のプロでなくてはならない。自分の修行なり宗教体験から得たものを人々に伝えるのがその使命であろう。言葉には実質が伴っていなくてはならない。『真実』などという言葉は少し突き詰めて考えたことのある人間にはなかなか口にしづらい言葉である。あっさりと「真実が見えてくる」などと言ってのけることができる人というのは、本当に悟った人か全然修行などしたことのない人かどちらかであろう。本当に悟った人ならば、その言葉のなかに真実がどういうものであるかということをうかがわせる何かがなくてはならないと思うのである。

 

好意的に受け止めれば、「心をこめる」という言葉は「真剣に」とか「誠実に」に解釈できる、「真剣に生きよ」ということは別に悪いことを勧めているわけではない。しかし、大抵の人はそんなにちゃらんぽらんに生きているわけではないと思う。一見いい加減なように見える人間でも、一人になれば自分と向かいあって真剣に自分の人生について考えている、そんなものではないだろうか。生きにくい世の中をみんな必死で生きていると言いたいのである。そういう人々にあえて「心をこめて生きよ」などというのは、いかにも上から目線というものだろう。

門徒の方々は大体において純朴な人が多い。「ありがたい」「もったいない」の精神にあふれている。みんなハッピーなら私が横から口出しするのはおせっかいというものだろうが、なにか「気持ちが悪い」ものを感じて仕方がない。おざなりの言葉でも好意的に解釈してくれるような楽な顧客を相手に商売している坊主こそもっと心をこめて生きるべきではないのか。「心をこめて……」の文言は、少なくとも私には心のこもったメッセージとしては受け取れない。

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コメント (2)
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