禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

賭ける宗教

2014-07-23 09:04:41 | 哲学

恐山の住職である南直哉さんは、禅僧にしては珍しく理屈を言う人である。私のようなアマチュアと違って哲学にも相当造詣が深い。数多くの著作をものにし、講演で全国を駆け回る忙しいお坊さんである。

不立文字を旨とする宗旨でありながら、これだけしゃべるとさぞ風当たりも強いのではないかと想像してしまうが、それだけお呼びがかかるということはそれなりのものがあるということだろう。特に感心するのは、話が全然抹香臭くないことである。常に自分が体感したことを自分の言葉で語っている。その斬新な語り口には常々敬服している。

その南さんがご自身のブログ(「恐山あれこれ日記」)に、「疑う人の信じ方」という興味深い記事を掲載されていた。「信じ方」を次のような類型に分別しているのである。

 ①「理解」または「了解」: まるで疑いを持たない人は、信じることはできない。彼は「理解」したり「了解」したりするだけである。

 ②「確信」: 説明可能な「根拠」を示して、その「疑い」を否定しようとする。いわゆる「知的」「学問的」と呼ばれる態度。

 ③「普通に『信じている』」:「根拠」を説明しないまま、あるいは説明できないまま、「疑い」を排除・無視する態度。

 ④「賭ける」: 「疑い」を当然の前提として「信じる」のです。つまり、否定も排除もせず、「疑い」を受容して「信じる」。これはもう「信じる」とは言わない。通常は、「賭ける」と言う。

 

「信じる」を以上のように分類したうえで、②と③が通常の「宗教を信じる」に該当すると南さんは言う。そして、その上でなお「疑い」を当然の前提として信じる態度があると言うのだ。それが④の「賭ける」である。言われてみて、なるほどと南さんの炯眼に唸ってしまった。

 これを親鸞聖人の場合に当てはめてみよう。

 親鸞は9歳にして天台座主・慈円のもとで得度している。それから20年にわたり比叡山で修行した。子供のころから毎日仏法修行に明け暮れていれば、たいていは「『普通に』信じてしまう」ところであろう。ところが親鸞は「普通に『信じる』」には知的に過ぎたのだ。いくら経典を学んでも、単にそれは言葉の操作に過ぎないということが透けて見えてしまう。いくら厳しい修行をしても、健康すぎる自分の身体から煩悩を遠ざけることはできない。湧き上がる肉欲に自分の浅ましさを認めざるを得なかった。

「仏教は人を救済することなどできないのではないか?」 自分の半生をかけてきた結論に絶望していたのだ。

 絶望の底にいる人間には、もうあとは「賭ける」ことしかない。

 ≪ 親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。 ≫

まさにこれは「賭ける」と言うことだろう。賭けたからには、「浄土に行くか、地獄に行くか」ということは存知しない。賽の目がどうでるかあとのことは自分の知りうるところではない、と言うわけである。

≪ たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。≫

念仏してもだめならどのみちだめなのである。もし仏教に救済というものがあるのならば、(少なくとも私にとっては)念仏のほかはない。一旦「賭けた」からにはもう迷いはない。あとは賭けに身をゆだねるだけである。「身をゆだねる」こと、それが絶対他力と言うことなのだろう。


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