禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

とんち話と禅問答

2014-07-03 11:17:46 | 哲学

とんち話と禅問答はもとより別物ではあるが共通点もある。どちらも論理的には無理があるということにおいて同じなのである。しかし、とんち話の場合はその無理をついて切り返せばよいのだが、禅問答(公案)の場合はそれをそのまま受け止めねばならない、というところが大いに違うのである。

一休さんは、「屏風の中の虎を縛り上げよ」という注文に対し、「分かりました。では、虎をこちらへ追い出して下さい」とやり返す。相手の無理をそのまま相手に投げ返すわけである。

無門関第46則に「竿頭進歩」というのがある。百尺もの長い竿の先に立って、そこからさらに一歩進めというものだ。そんなことをしたら落ちて死んでしまうのだが、師家はにべもなく本当に「死んで来い」というのである。もちろん実際にそんなことを実行するわけではないが、とんち問答のように「私方向音痴なので、足の踏み出す方向に先導してくれますか?」などというわけにはいかない。師家の要求を真正面から受け止めねばならないのだ。そんなわけで、参禅中の修行僧というのは常に袋小路に追い込まれているような仕組みになっている。

公案はとんち問答ではなくまた考えてわかるものでもないが、与えられたほうはどうしてもものごとを突き詰めてしまう。突き詰めることによって、論理の構造を見抜く目も養われるのである。禅は理屈ではないとは言うが、一般に臨済宗のお坊さんは理屈(禅門では「機略」と言う)に強い人が多いのは、そういうことだと思う。

我々の思考は概念(言葉)によって形式的に運用されるという根本的な欠陥を抱えている。「屏風の中の虎を縛り上げよ」というような例ならだれでもその無理はわかるが、「朝はどこから来るのだろう?」と問われたら、一瞬考えてしまう人がいるのではなかろうか。(実際に、子供のころ私はこの問題について真剣に考えたことがある。)

 「死んだらどこへ行く?」というようなことを考えるのもそれと同様なことだろう。「死んだらどこへ行く?」ということを人が考えている時、実はその人は何も考えていない。考えることが不可能だからだ。我々は「死」というものについて何か知っているつもりになっているが、実はそれは他人の死にまつわる現象についてのイメージだけで「死」そのものについては何らの知識も持っていない。

あくまでも、我々の「死」の概念は、他人の生物学的な死についての周辺知識でしかない。それは自分が死ぬこととはまた別の問題である。しかし、一旦「死」という言葉(概念)ができてしまうと、それは機械的に運用される。

我々はいつも、どこかからここに来て、ここからどこかへ行く、というふうに考えている。それでそのパターンを当てはめて、「死んだら冥土へ行く。」というような表現をするのだが、実はその表現の意味するところの実質は誰も承知していない。

一休さんはそのような思考の空疎さに特に敏感な人だったのだろうと思う。物事の本質に透徹していたから、空疎な論理はすぐ見抜く。そのように機略の働く人だったのでとんち話の主人公に起用されたのに違いない。

一休禅師は京都五山の一つ大徳寺という寺のお坊さんだったが、その大徳寺の御開山は大橙国師という才気煥発な人だったらしい。一休さんはその大橙国師を大層尊敬していたらしいが、その国師に関して気になるエピソードが言い伝えられているので、それをウィキペディアから引用することにしよう。

<< 宗峰妙超(大橙国師)は、まくわ瓜が好きであった。妙超が乞食の群れの中にいることを知った花園天皇は役人に高札を立てさせ、某日まくわ瓜を乞食にただで与える旨を布告した。当日、役人がまくわ瓜を求める乞食の群れに向かって「脚なくして来たれ」というと、乞食の一人がすかさず「無手で渡せ」と答えたので妙超であることが判ってしまった。 >>

花園天皇が大橙国師に会いたいというのだが、国師は河原乞食の群れの中に身を隠してしまっている。そこで、まくわ瓜が国師の大好物であることを知った役人が一計を案じて、「ただでまくわ瓜を与える」という高札を立てたのである。瓜につられて集まった乞食の中に必ず国師がいるはず。そこで役人は呼びかける「脚を使わずに取りに来い」と。すると乞食の中に「手を使わずに渡せ」と答えたものがいる。そのものこそはたして大橙国師であったというわけである。

どうもこのあたりが、屁理屈には屁理屈で応じるという「一休とんち話」の原型ではないのかと思う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする